カテゴリー「映画」の記事

2011年6月 5日 (日)

サム・ペキンパーの女の服の脱がせ方


6月2日、内閣不信任決議案採決の当日、あるいは直前に菅直人の突然の辞意表明もあるかも知れないという推測も一部にはあったが、周知のように民主党代議士会における驚きの“曖昧”辞意表明から一転、不信任案の大差での否決に至った。

前日まで小沢一郎陣営対菅・岡田陣営の対決だと皆が思い込まされていたものの実態は、蓋を開けてみたら鳩山由紀夫対自民・公明のような対決であった。そして鳩山由紀夫が勝利した訳である。鳩山は当座の民主党分裂を回避し、菅直人から自民との連立は無いとの言質を取ることに成功した。そして完全なものではないにせよ、菅直人自身の首にも鈴を掛けたのである(文書作成に関わった北沢の暴露でアウト)。

もちろん、鳩山が菅・岡田(作戦計画に加わった仙石・枝野らも同罪である)に騙されたというのが客観的事実であろう。彼らは初めから騙すつもりで鳩山を呼んだのである。しかしその深層にはもしかしたら、鳩山もギリギリのところで“騙された振り”をするという、彼なりの高等戦術の側面もあったのではないかとも考える。まあ、それはどちらでもよいだろう。いずれにせよ、騙された鳩山由紀夫の勝利である。

小沢劇場の開演を待ち望んでいた観衆達の面前で、まさに開演直前に、舞台は鳩山劇場にすり替わった。採決が終わり、その一部始終を見届けた後、「政策の小沢、政局の鳩山」という誰かの言葉を思い出しながら、同時にオレの想念はなぜだか、かつてシネマの世界で突出した存在感を示していた映画作家達の作品世界の方へと、知らず知らずに向かって行ったのである。


サム・ペキンパーの秘儀

暴力をスロー・モーションで描出して一世を風靡したサム・ペキンパーは、女に対しては正反対の態度で臨んだ。素手で、また或る時は刃物を使って、ペキンパーは女の衣を一気に引き裂いてしまうのだ。

しかしこの点を睨視して、ペキンパーをレイパー嗜好と断じるのは早計である。アダルトビデオのレイプ・ストーリー物を観るのが好きという人がいるが、彼らは女が嫌がって泣き叫ぶ様に興奮を覚えるのだそうである。ところがペキンパーの映画では、服をむしり取られた女は決して「キャーッ」などと泣き叫んだりしないどころか、胸を手で押さえる仕草さえなく、むしろ傲然と肌けた胸を突き出して(彼女達はいつも下着すら身に着けていない)、「何さ」という感じでふんぞり返って男を睨み返してみせるのである。

サム・ペキンパーはレイパーではない。崔洋一とは違うのである(笑)。

これとまったく好対照だったのが、フランソワ・トリュフォーである。トリュフォーの『恋愛日記』という映画では、女がボタンだらけのドレスを着ていて、男が嬉しそうな表情を浮かべながらそのボタンをひとつひとつゆっくりと外していく、というシーンがある。

どちらが好みか、という質問でその人の性的嗜好が分かってしまいそうな話ではあるが、想念のおもむくままのオレのニューロン・ネットワーク的思考は、例によってそこから大きく逸脱するのだ。



『ガルシアの首』

Bring_me_the_head_of_arfredo_garcia



サム・ペキンパーの眼差しは、実はそこに在る女の裸体そのものには向けられていなかったのではないか?

ボタンを外す男の手つきと表情を嬉々としてフィルムに収めるトリュフォーの欲望が、ブラウスの奥に隠された女の裸体と、裸体を周到に衣服に包み隠そうとする女の羞恥心に向けられていたことは疑う余地が無いように思われるが、一方ペキンパーがフィルムに焼き付けようとしていたものは、そこに在る女の個体を貫通してこちら側へ流入してくる<女そのもの>の本体、われわれがエロスと呼び習わしてきた、圧倒的にリアルな<モノ>の顕現の瞬間ではなかったろうか。

それは本来眼に見えないモノである。だからこそこの圧倒的にリアルなモノ、強烈な力を秘めたモノの流入をフィルムに収める奇跡の為には、一瞬にして衣服を引き裂く強烈な力と、傲然と胸を張る女の勇猛さとが、是が非でも必要であるとペキンパーは考えたのだ。度々ペキンパー作品に出演していた俳優L.Q.ジョーンズをして「彼は同じ作品を14本も撮った。」と言わしめた偉大なるワン・パターン作家サム・ペキンパーにとって、それは欠く事の出来ないひとつの秘儀のようなものだったのである。彼の映画的欲望はひたすら<リアル>(ジャック・ラカン謂うところの“現実界”)に向けられていた。

ペキンパー的眼差しは、天才にだけ許されるような彼だけの特権的所有物ではない。と言うよりむしろ、いまやこの国では日本人全体が、否応無くペキンパー的眼差しを持たざるを得ない状況に突入しているのだ。放射能を絶え間なく(広島型原爆一個分位を毎日、しかもひょっとしたら今後数年に及んで)放出し続ける福島第一原発の存在が、われわれにそれを強いている。

原発は<女=エロス>ではない。それは<エロスに成りきれなかったなにものか>である。(これについてはいずれ詳しく再考したい。)しかしその力は無尽蔵で、エロスのように強烈である。エロスではない、エロス級の怪物が、原子力建屋の一瞬の爆発と圧力抑制室の損傷とともに、白日の下に曝された。

サム・ペキンパーの見ていた世界と酷似した状況が、われわれの日常に出現したのである。原発の暴力は、スロー・モーションでやって来る。青空を優雅にたゆたう白煙の如く、その暴力は5年、10年、15年、あるいはそれ以上という気の遠くなるようなスパンで、われわれの身体に侵食していくのである。

この事実を意識の深みのレベルで、きわめて正確に認識している政治家が、小沢一郎である。なぜなら彼こそは、現実の政治の世界で唯一常にサム・ペキンパー的眼差しを持ち続け、かつサム・ペキンパー的欲望に従って行動してきた、その人なのである。

サム・ペキンパー的強度の事態を打開するには、サム・ペキンパー的強度の眼差しで対抗しなければならないだろう。

「原発の放射能汚染の問題は、ここまで来ると、東電に責任を転嫁しても意味がない。政府が先頭に立って、政府が対応の主体とならねばいかんというのが、私の議論だ。東電はもう、現実何もできないだろう。だから、日一日と悲劇に向かっている。」

「当面は福島の人だが、福島だけではない、このままでは。汚染はどんどん広がるだろう。だから、不安・不満がどんどん高まってきている。もうそこには住めないのだから。ちょっと行って帰ってくる分には大丈夫だが。日本の領土はあの分減ってしまった。あれは黙っていたら、どんどん広がる。東京もアウトになる。ウラン燃料が膨大な量あるのだ。チェルノブイリどころではない。あれの何百倍ものウランがあるのだ。みんなノホホンとしているが、大変な事態なのだ。それは、政府が本当のことを言わないから、皆大丈夫だと思っているのだ。私はそう思っている。 」
(5/27 ウォール・ストリート・ジャーナル小沢一郎インタビュー


現実政治の世界における、サム・ペキンパー的眼差し・欲望とは何か。ペキンパー作品の主人公達は、陰謀渦巻く世界に取り囲まれ、がんじがらめにされて、常に<リアル>から疎外されている。迫害された状態を自覚して生きながら、彼らはいつか<リアル>の側へ突き抜ける機会を窺っている。

中央集権官僚支配の悪政を甘受しながら、それに抵抗するどころか、マスメディアの口車に乗って、事もあろうか官僚制度に立ち向かうべき自分達の代表者たる政治家の方へ石を投げて、溜飲を下げている国民。結果的に自分達の首を絞める中央官僚支配の維持に加担している国民。官僚制度に立ち向かおうとしている政治家と、そうでない政治家の区別がつかない国民。

間に官僚機構の走狗であるマスメディアが挟まって情報操作しているのがその主な要因なのだが、まさに一部の政治的エリート(官僚・財界人・知識人・ジャーナリスト)以外はことごとく<リアル>から疎外され、カレル・ヴァン・ウォルフレンのいわゆる「偽りのリアリティ」を生かされ続けるわれわれ日本人。われわれは皆自覚しているいないに関わらず、ペキンパー映画の主人公のようである。

この社会全体を覆う「偽りのリアリティ」の総体を強烈な眼差しをもって40年来見つめ、そこからの脱出へ国民を先導しようと絶えず自覚し試みてきたのが小沢一郎である。93年に自民党を飛び出して以来、その試みは挫折の繰り返しであったが、そこにはやはり既得権益者達の強い抵抗と、彼の本質を理解しない国民の存在がともに妨げとなっていた。

あのペキンパーの秘儀的瞬間、衣服(この社会における衣服とは何であろう?腐り切ったマスメディアではないのか?)の内に隠されていたリアルが衆目の間に顕現して、人々を幸福で充たす瞬間を夢見ては挫折し続けてきた小沢一郎は、しかし二年前から彼の周辺を襲った検察官僚による狂気の“国策捜査”とそれに追従するマスコミ報道の被害者となることによって、彼自身が国民の視線にとってのある種の<リアル>の象徴になるという、逆説的状況を生んだ。そして奇しくもその事が目盲いていた国民の眼を<リアル>に向かって開かせたのである。国民は小沢一郎を通じて、その先に<リアル>を見ている。

そしてその一方で大震災に次ぐ原発事故という、不幸の怪物のような真に逆説的な
<リアル>の出現。それが今の状況である。


ペキンパー映画の主人公達は、「偽りのリアリティ」を生きる状況を耐え忍びながら、局面が少しでも好転するようにと様々な改革を試みるのであるが、物語の終局、いよいよどんな改革の訴えも“こいつら”には通じないと悟ると、それまで溜め込んだ怒りをやおら爆発してぶち切れ、ケツをまくって見せる。

“お前ら全員殺してオレも死んでやる!”

とばかりに、凄まじい銃撃戦がスクリーン上に展開され、観客はそのカタルシスに魅了される。『戦争のはらわた』という作品では、凄まじい殺し合いのシーンにペキンパーはわざわざアフリカン・ドラム・ビートの音楽を被せ、生命の高揚を高らかに歌い上げてみせるほどのふてぶてしさなのだ.

最後主人公は、死ぬ時もあれば生き残る時もある。しかしいずれにしても「同じ作品を14本も撮った」サム・ペキンパーは、物語の終局において執拗に主人公をぶち切れさせたのである。

この作品世界に執拗に刻んだペキンパーの映画的欲望と、実世界における小沢一郎のこれまでの政治活動を重ねることは、或いは小沢一郎支持者の怒りを買うかもしれない。オレも小沢一郎を「壊し屋」と揶揄するマスコミの論調に同調するつもりは毛頭無いし、彼のこれまでの政界再編を繰り返してきた政治活動を否定するつもりも勿論無い。救いようの無い民主党菅・仙石・岡田一派を末端に追いやる為なら、更なる政界再編もどうぞやってくれ、という考えである。

前日の集会に70人以上が集まったと聞いたときから、不信任案の可決・否決に関わらず、救国連立内閣というプロセスを経るにせよ、今回もそう(政界再編)なるものだと思った。(尤も今後の民主党内の内紛の成り行きによっては、まだその可能性(離党→新党結成)も有るだろうが。)

しかしとにもかくにも、小沢一郎は鳩山由紀夫という人間をパートナーに選んだのである。

そしてその結果、6月2日にペキンパーの新作を観に劇場に足を運んだわれわれは、幕が開くや否や、スクリーンの中でそろそろとドレスのボタンを外している、トリュフォーの手つきを眺めることとなった。



『 突然炎のごとく 』

鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」と述べ、激しく非難した。都内の自宅前で記者団に語った。(中略)

「不信任案(採決の)直前には辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。こんなペテン師まがいのことを首相がやってはいけない」と指摘。「人間としての基本にもとる行為をしようとしているのなら、即刻党の規則の中で首相に辞めていただくように導いていかなければならない」と述べ、両院議員総会を開いて首相に早期退陣を求める考えを示した。

不信任案に賛成した松木謙公前農水政務官ら2人への除籍(除名)処分については「冗談じゃない」と語り、処分は不要との見解を示した。
(6月3日 MSN産経ニュース


鳩山由紀夫は自民・公明に勝利し、菅直人にもほぼ決定的な打撃を与えたが、小沢一郎もまた、あの日は傷を負った。

採決直前の段階で、鳩山の話の詰めの甘さを知った時の小沢一郎の心持ち、慮るべし。“もう鳩山など知らん”とおそらく半分ぐらいは思ったのではないか。その気持ちの乱れがみずからは欠席・棄権、側近議員らには自主投票という対応にそのまま現れているように思える。

わが政界のサム・ペキンパーの15本目(?)の新作は、持ち越しとなった。

それが正解だったかどうかは、今のところまだ分からない。

しかしそれが彼のパートナーの差し金によるものだったにせよ、小沢一郎は偉大なるワン・パターン作家である事を止めたのである。(そして松木兼公氏が、師に代わってペキンパー的ケツまくりを矜持とともに務めあげ、期待を裏切られた観衆の心を慰めた。)その未知の可能性に、今は賭けようではないか。

涙を飲んで怒りを鎮めた小沢一郎の為にも(そして松木兼公と、悪政に苦しむ国民の為にも)、鳩山由紀夫は刺し違えてでも、何が何でも菅直人を早急に政権から引き摺り下ろし、そして小沢政権を誕生させねばならない!


フランソワ・トリュフォーは、何も女のドレスのボタンを、いつもいつもニヤニヤしながら外してばかりいたわけではない。

多くの人がトリュフォーの最高傑作に挙げる『突然炎のごとく』では、自由奔放に生きる気性の激しい女カトリーヌが描かれる。ジュールとジムという二人の青年のあいだを行き来するカトリーヌは、終局その激しい気性そのままに、ジムを乗せた車ごと橋から川に転落してみせるのである。

かつて小沢一郎を道連れに総理を辞任した鳩山由紀夫が、再び激しいカトリーヌと化して、今度は菅直人に襲いかかるのである。

騙された方が勝ち、騙した方が敗北するという、日本本来の古き良き伝統が、久しく社会の片隅に追いやられていた日本本来の姿が、再び陽の目を見るのである。その論法でいけば、騙された鳩山由紀夫も結果小沢一郎を騙していたのであるから、最終的な勝者は小沢一郎でなければならない。

その時には、“ジャパン・アズ・ショージキ”という標語が、あらためて世界ブランドとなるであろう。

菅直人が日本の顔である今は“ジャパン・アズ・ウソツキ”の状態。最悪である。



ブログランキング参加始めました
にほんブログ村 テレビブログ テレビ番組へ
にほんブログ村

2011年5月22日 (日)

女はエロス、男は・・・(“ハウルの動く城 ”と“赤ずきん”)



BRITISH SEXUAL SONG の佳曲、という紹介でよいだろうか?
(Sineadはケルトだが。)


The Wolfmen feat. Sinead O'Connor/Jackie, Is It My Birthday?






セクシャルな暗喩に充ちた曲調とイメージ・ビデオ。


女はエロス。


男はエロスの触媒。


ちなみに普段のThe Wolfmenは、ちょいとルーズなパーティー・ロッケンロー・バンド。
(ビデオの青年はThe Wolfmenのメンバーではないので、念の為。)



The Wolfmen feat. Sinead O'Connor(シネイド・オコナー)
Jackie, Is It My Birthday?

The_wolfmensinead_



Wolfと聞くと、いささか唐突ながら、オレは宮崎駿の『ハウルの動く城』という映画を思い出す。『ハウルの動く城』は、『赤頭巾ちゃん』等の系譜に属する、女のイニシエーション(通過儀礼)の話だろう。オレは『赤頭巾ちゃん』も、人類の記憶の古層の深みからはるか連なる、女のイニシエーションの話だと思っている。(映画にはイギリスの女性作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作があるらしいが、そちらは読んでいないので、映画を基準に話を進める。)

男のイニシエーションでは、たとえば独りで山に行かされる。あの山のてっぺんに小さな祠があるから、そこに行ってお札をひとつ貰って戻って来いと言われて、食糧も持たされず、しかもたいていは寒い冬に、独りで山に放り出される。

山は、特に夜の山は、おそろしいものだ。極限的な肉体の疲労の上に、飢えと寒さに加え夜の山の只ならぬ気配が覆い被さる。あらぬ物が見え、感じる筈の無いものを知覚するような極限的精神状態を潜り抜け、無事に戻って来た者だけが、社会の文化的構成を担う成人として認められる。山は象徴的な死の国であった。実際に命を落とす者もいただろう。

女のイニシエーションの場合、男のそれと違い、はっきりとした儀礼的形跡が残されていないので、その分謎が深い。女のイニシエーションでは、わざわざ冬の山に登っていくような必要は無い。女のイニシエーションとは、自分自身に出会う、より正確に言えば、自分自身のなかの“老婆”に出会う過程なのだ。しかしそれはやはり、それ程簡単な話ではないだろう。そこにはやはり触媒の如き媒介者が必要なのだ。

『赤頭巾ちゃん』では、最初彼女のお婆さんが狼に食べられ、続いてそこへ知らずにやってきた赤ずきんもまた、狼に食べられる。狼の胃袋の中で、赤ずきんは彼女の“老婆”と融合するのである。

映画『ハウルの動く城』では、主人公ソフィーは頭巾こそ被っていないものの、赤ずきんちゃんの継承者である彼女は、当然の如く帽子屋の娘であろうし、実際に出掛けるときは常に帽子を被っている存在として、物語に登場してくるのである。そして彼女は魔法使いハウルと関わることによって、己の中に潜んでいた“老婆”と邂逅しなければならなくなる。ここではハウル若しくはハウルの動く城が、いにしえから伝わる民話における、「狼」の役どころを果たすのである。

われわれが現在識っている『赤頭巾ちゃん』の話には、ペローかグリムか、おそらくは近世による話の省略や変形・捏造が、多分に加えられているだろう。現在の話では、狼の扱いが不当なようにオレには感じられる。狼は猟師に撃たれて退治されてしまう訳だが、そもそも狼がいなければ赤ずきんちゃんはイニシエーションを遂行出来なかったのであるし、それに狼の腹から赤ずきんとお婆さんが元のままの姿で出てくる結末も、あやしいものである。

それに比すると『ハウル~』の方がむしろ、人類本来の智慧をより良く現代に伝えているように思える。主人公ソフィーは、ハウルという媒介者を通して強く賢い女に変身を遂げるのであるし、しかもハウルの方も単なる触媒にとどまらず、その過程でまた変容するのである。

人類の記憶の古い古い地層から出来した智慧の物語は、近代文学などが逆立ちしても描けないような人と人との関わりの慈愛にみちた深みを、いとも鮮やかな手口で、あっけらかんと表現してしまうのだ。(近代文学は登場人物が複数入り乱れるような小説でも、その実孤独の臨界身体実験のような性質を持っており、その実験精神の勇敢さには一定の評価は必要であると考えるが。)

女のなかには“老婆”が棲んでいる。だから女は、本来的に男よりも賢いのである。


Howls_moving_castle



オレ達の祖先は、オレ達よりずっと濃厚な<リアル>を生きていたのだろう。現代の「成人式」はただの近所の同窓会であるし、イニシエーションにより近いものとしては、企業における新入社員の新人研修があるが、それも結局は”社畜”を製造するための洗脳訓練機関でしかなかったりする。

わけても1945年に日本に投下された二発の原子力爆弾と敗戦は、日本人の総体にとって、“逆イニシエーション”のような結果をもたらしたのではないか?  “永遠の12歳”の形成である。

成長を拒む何かが全体を覆っている。“永遠の12歳”は、イニシエーションの手前で引き返そうとするのだ。

何かが綴じ蓋のように頭の上に覆い被さって、われわれの成長を拒絶している。それが何なのか、この二年余りの政治の混乱を経て、ようやく衆目に明らかになってきた。

政権交代の気運が高まっていた時期に突如始まった、民主党のリーダー小沢一郎代表(当時)に対する検察の“国策捜査”。巨額な迂回献金および闇献金があったとされ、新聞・テレビもあたかも確定事実のように連日報道し、小沢一郎は代表辞任を余儀なくされる。この捜査自体が出鱈目なものであったことはその後徐々に明らかになるが、この時点で検察官僚は民主党の弱体化に成功したのである。

それでも国民が政権交代を選択すると、今度は沖縄普天間基地県外移設を目指した鳩山由紀夫首相(当時)に対する外務・防衛官僚達の徹底的なサボタージュと背後からの裏切り行為があったことは、最近明らかになったウィキリークスによる米国外交公電にもはっきりと記されている。この時も新聞・テレビは国民の側に立って県外移設を支援する代わりに、官僚側と結託して鳩山降ろしのキャンペーンを張り、見事それに成功したのは記憶に新しい。

こうして民主党を骨抜きにしたあと、官僚・マスメディアにとって非常に御しやすい菅直人政権がまんまと成立する。この政権は小沢・鳩山の掲げていた官僚制度改革・マスメディア改革をほとんど打ち捨てたばかりか、その代わりに、権限強化を目論む財務官僚の手先になって消費増税推進を唐突に打ち出し、ゴリ押ししようとしている。政府・内閣府と経産省がやはり唐突に推し進めようとしているTPPにしても、国民生活をズタズタにしてしまう可能性が高く、彼らの頭にあるのは権益だけかと疑われる。これでは自民党政権時代と変わらない。一蓮托生のマスメディアも、勿論これに反対しない。

これらの政策を今この時期に推進することは、官僚の権限を維持・強化する代償に、国民経済の景気と庶民の雇用・生活基盤を犠牲にすることである。国家再生・国民生活再生のビジョンも思考もそこには無い。

“永遠の12歳”は日本人の全体に及んでいるが、中でも一番変わる事を拒んでいる“本丸”の正体が、ここで明らかになってくる。官僚だ。

この“永遠の12歳”のなかのエリート集団は、自分達を“永遠の12歳”だとは思っていないので、戦後「早く大人になりたい」とばかりに国民経済を主導し、目覚しい経済発展に一定の寄与を果たしたが、結果“物質的に豊かな永遠の12歳”を大量に産み出しただけであり、右肩上がりの経済発展が望めなくなり、日本人全体が“永遠の12歳”からの脱皮を迫られている現在、一番てっぺんに居て変わる事を拒み続ける彼らの存在が、この社会に今後致命的な弊害を撒き散らかそうかという時点に、われわれは差し掛かって来ているのである。

この二年余の政治舞台で繰り広げられた彼らの異常な抵抗の様が、逆光に浮かび上がる影の如くその事を指し示している。

そしてこの元凶の在処(ありか)をあやまたず正確に照射しつつ、まさに実地に変革せんとしていたのが、他ならぬ小沢一郎であったのだ。

小沢一郎ウェブサイトの『わたしの基本政策』のうち「Ⅳ、地方を豊かにする」の項が、このてっぺんの官僚機構の解体から始まって、地方の隅々、全国津々浦々に及ぶまでの“永遠の12歳”からの脱却のすじみちを、驚くほど明瞭に力強く語っていて見事である。


IV、地方を豊かにする

  1. 分権国家の樹立
    明治以来の中央集権制度を抜本的に改め、「地方分権国家」を樹立する。中央政府は、外交、防衛、危機管理、治安、基礎的社会保障、基礎的教育、食料自給、食品安全、エネルギー確保、通貨、国家的大規模プロジェクトなどに限定し、その他の行政はすべて地方自治体が行う制度に改める。
    また、中央からの個別補助金は全廃し、すべて自主財源として地方自治体に一括交付する。それにより、真の地方自治を実現し、さらに中央・地方とも人件費と補助金にかかわる経費を大幅に削減して、財政の健全化にも資する。

  2. 補助金の廃止で陳情・利権政治を一掃
    個別補助金の存在は官僚支配を許すと同時に、国会議員を地域と官僚機構との間の単なる窓口係におとしめている。さらに、その関係が補助金をめぐる様々な利権の温床になっていることから、地方のことは権限も財源も地方に委ねる仕組みに改め、国会議員も国家公務員も国家レベルの本来の仕事に専念できるようにする。

  3. 基礎的自治体の整備
    「分権国家」を担う母体として、全国の市町村を300程度の基礎的自治体に集約する。都道府県は将来的に地方自治体から外し、最終的には国と基礎的自治体による二層制を目指す。

  4. 地域経済の活性化
    地方分権を完全実現し、権限・財源を地方に移譲することで、経済、文化、教育等の各分野で企業・人材の地方定着を促すとともに、地域経済の活性化を図り、地方の中小・零細企業の活力を高める。特に、地場の中小企業の研究開発促進、地域の伝統的な文化・技術の現代社会への活用について、税制上の優遇措置や地域ファンドの体制整備を行う。

  5. 特殊法人等の廃止・民営化
    特殊法人、独立行政法人、実質的に各省庁の外郭団体となっている公益法人等は原則として、すべて廃止あるいは民営化する。それに伴い、それにかかわる特別会計も廃止する。今日、どうしても必要なものに限り、設置年限を定めて存続を認める。

  6. 経済の持続的成長と財政の健全化
    個別補助金の全廃と特殊法人等の廃止・民営化により、財政支出の大幅な削減を実現すると同時に、本来民間で行うべき事業から政府が撤退し、民間の領域を拡大することで、経済活動を一層活発にする。それによって日本経済を持続的成長の軌道に乗せ、税収を増やすことで、財政の健全化を加速する。


さらに、「Ⅵ、政治を国民の手に取り戻す」の項における、「国会審議は議員のみとする」、「副大臣・政務官の機能強化(事務次官会議の廃止)」なども、官僚主導政治からの脱却という観点からは、重要であることは勿論であろう。

小沢一郎の信念と実力を間近に見知っていた官僚機構の守旧派達は、政権交代の実現が眼の前に迫った時、これらがまさに実行され、自分達が殺されるという恐怖に駆り立てられたのだろう。(実際ここでは、それぐらい破壊力の有る政策理念が語られている。)でなければ、それから始まった彼らの尋常ならざる抵抗は説明出来ない。あいば達也氏の言う通り、彼らは「治療の為に近づいてきた小沢一郎という治療師を、自分達の刺客と勘違いしてしまった」のである。

尤もこの治療で彼らの半分位は死ぬだろうが。イニシエーションとは元来そういうものである。死と交わらないイニシエーションなど有り得ない。

変わらなければならない時期は、もうとっくに過ぎているのかも知れない。“永遠の12歳”の集合体は、そこに居れば内側だけでは何となくカネと人がうまく回り続けるので、大層居心地が良さそうである。しかし国民全体が“永遠の12歳”で居られるうちは良かったが、それが不可能になりつつある現在、彼ら官僚は自分達の利権を保持する必要から、われわれの方を“永遠の5歳”にまで貶めようと画策している。

その為には今まで以上に子飼いの新聞・テレビが露骨な偏向報道を繰り広げるだろう。テレビのワイドショーやニュース番組には、現代のペローやグリムが次々に登場して御託宣を並べるが、彼らの語る周到に加工された“おとぎ話”の主眼は、われわれをして幼児的世界に押し留めておく事にある。


思考停止と積年の利権構造。“永遠の12歳”、げにおそるべし。

この大震災と原発事故が戦後最大の国難であることは、疑う余地がない。日本人はこの事態を三度目の正直として、今度こそ自分達の“イニシエーション”として体験しうるのか?それとも官僚主導傀儡政権の下、更なる退行を選択して、“永遠の5歳”に成り下がるのか?

「大人になろうぜ。」と言った小沢一郎に、「イヤだイヤだ。」と寄ってたかって殴りかかって縛りあげる。白昼堂々薄気味悪い子どものいじめリンチを連日見せつけられ続け、もうかれこれ二年以上になるが、新聞社やテレビ局が世論調査をすれば、「もっとやれやれ」が7,8割だという。

そういう人達には、或いは小沢一郎という存在が夜の山の漆黒の闇や、狼のどす黒い胃袋のように、見えているのであろうか。


オレの言いたいこと、もう分かるよね?


大人になろうぜ。



ブログランキング参加始めました
にほんブログ村 テレビブログ テレビ番組へ
にほんブログ村


《参考》
“国策捜査”ニューヨークタイムズの報道 2009.5
“国策捜査”の歴史①
“国策捜査”の歴史②
キバをむいた検察の反革命クーデター 2010.1
朝日新聞がおかしいぞ① 2010.10
朝日新聞がおかしいぞ② 2010.10
平成のメディア・ファシズム 2010.12
ウィキリークスが暴いた普天間問題の裏切り者 2011.5
外務・防衛官僚の対米隷従体質暴いたウィキリークス 2011.5