サム・ペキンパーの女の服の脱がせ方
6月2日、内閣不信任決議案採決の当日、あるいは直前に菅直人の突然の辞意表明もあるかも知れないという推測も一部にはあったが、周知のように民主党代議士会における驚きの“曖昧”辞意表明から一転、不信任案の大差での否決に至った。
前日まで小沢一郎陣営対菅・岡田陣営の対決だと皆が思い込まされていたものの実態は、蓋を開けてみたら鳩山由紀夫対自民・公明のような対決であった。そして鳩山由紀夫が勝利した訳である。鳩山は当座の民主党分裂を回避し、菅直人から自民との連立は無いとの言質を取ることに成功した。そして完全なものではないにせよ、菅直人自身の首にも鈴を掛けたのである(文書作成に関わった北沢の暴露でアウト)。
もちろん、鳩山が菅・岡田(作戦計画に加わった仙石・枝野らも同罪である)に騙されたというのが客観的事実であろう。彼らは初めから騙すつもりで鳩山を呼んだのである。しかしその深層にはもしかしたら、鳩山もギリギリのところで“騙された振り”をするという、彼なりの高等戦術の側面もあったのではないかとも考える。まあ、それはどちらでもよいだろう。いずれにせよ、騙された鳩山由紀夫の勝利である。
小沢劇場の開演を待ち望んでいた観衆達の面前で、まさに開演直前に、舞台は鳩山劇場にすり替わった。採決が終わり、その一部始終を見届けた後、「政策の小沢、政局の鳩山」という誰かの言葉を思い出しながら、同時にオレの想念はなぜだか、かつてシネマの世界で突出した存在感を示していた映画作家達の作品世界の方へと、知らず知らずに向かって行ったのである。
サム・ペキンパーの秘儀
暴力をスロー・モーションで描出して一世を風靡したサム・ペキンパーは、女に対しては正反対の態度で臨んだ。素手で、また或る時は刃物を使って、ペキンパーは女の衣を一気に引き裂いてしまうのだ。
しかしこの点を睨視して、ペキンパーをレイパー嗜好と断じるのは早計である。アダルトビデオのレイプ・ストーリー物を観るのが好きという人がいるが、彼らは女が嫌がって泣き叫ぶ様に興奮を覚えるのだそうである。ところがペキンパーの映画では、服をむしり取られた女は決して「キャーッ」などと泣き叫んだりしないどころか、胸を手で押さえる仕草さえなく、むしろ傲然と肌けた胸を突き出して(彼女達はいつも下着すら身に着けていない)、「何さ」という感じでふんぞり返って男を睨み返してみせるのである。
サム・ペキンパーはレイパーではない。崔洋一とは違うのである(笑)。
これとまったく好対照だったのが、フランソワ・トリュフォーである。トリュフォーの『恋愛日記』という映画では、女がボタンだらけのドレスを着ていて、男が嬉しそうな表情を浮かべながらそのボタンをひとつひとつゆっくりと外していく、というシーンがある。
どちらが好みか、という質問でその人の性的嗜好が分かってしまいそうな話ではあるが、想念のおもむくままのオレのニューロン・ネットワーク的思考は、例によってそこから大きく逸脱するのだ。
『ガルシアの首』
サム・ペキンパーの眼差しは、実はそこに在る女の裸体そのものには向けられていなかったのではないか?
ボタンを外す男の手つきと表情を嬉々としてフィルムに収めるトリュフォーの欲望が、ブラウスの奥に隠された女の裸体と、裸体を周到に衣服に包み隠そうとする女の羞恥心に向けられていたことは疑う余地が無いように思われるが、一方ペキンパーがフィルムに焼き付けようとしていたものは、そこに在る女の個体を貫通してこちら側へ流入してくる<女そのもの>の本体、われわれがエロスと呼び習わしてきた、圧倒的にリアルな<モノ>の顕現の瞬間ではなかったろうか。
それは本来眼に見えないモノである。だからこそこの圧倒的にリアルなモノ、強烈な力を秘めたモノの流入をフィルムに収める奇跡の為には、一瞬にして衣服を引き裂く強烈な力と、傲然と胸を張る女の勇猛さとが、是が非でも必要であるとペキンパーは考えたのだ。度々ペキンパー作品に出演していた俳優L.Q.ジョーンズをして「彼は同じ作品を14本も撮った。」と言わしめた偉大なるワン・パターン作家サム・ペキンパーにとって、それは欠く事の出来ないひとつの秘儀のようなものだったのである。彼の映画的欲望はひたすら<リアル>(ジャック・ラカン謂うところの“現実界”)に向けられていた。
ペキンパー的眼差しは、天才にだけ許されるような彼だけの特権的所有物ではない。と言うよりむしろ、いまやこの国では日本人全体が、否応無くペキンパー的眼差しを持たざるを得ない状況に突入しているのだ。放射能を絶え間なく(広島型原爆一個分位を毎日、しかもひょっとしたら今後数年に及んで)放出し続ける福島第一原発の存在が、われわれにそれを強いている。
原発は<女=エロス>ではない。それは<エロスに成りきれなかったなにものか>である。(これについてはいずれ詳しく再考したい。)しかしその力は無尽蔵で、エロスのように強烈である。エロスではない、エロス級の怪物が、原子力建屋の一瞬の爆発と圧力抑制室の損傷とともに、白日の下に曝された。
サム・ペキンパーの見ていた世界と酷似した状況が、われわれの日常に出現したのである。原発の暴力は、スロー・モーションでやって来る。青空を優雅にたゆたう白煙の如く、その暴力は5年、10年、15年、あるいはそれ以上という気の遠くなるようなスパンで、われわれの身体に侵食していくのである。
この事実を意識の深みのレベルで、きわめて正確に認識している政治家が、小沢一郎である。なぜなら彼こそは、現実の政治の世界で唯一常にサム・ペキンパー的眼差しを持ち続け、かつサム・ペキンパー的欲望に従って行動してきた、その人なのである。
サム・ペキンパー的強度の事態を打開するには、サム・ペキンパー的強度の眼差しで対抗しなければならないだろう。
「原発の放射能汚染の問題は、ここまで来ると、東電に責任を転嫁しても意味がない。政府が先頭に立って、政府が対応の主体とならねばいかんというのが、私の議論だ。東電はもう、現実何もできないだろう。だから、日一日と悲劇に向かっている。」
「当面は福島の人だが、福島だけではない、このままでは。汚染はどんどん広がるだろう。だから、不安・不満がどんどん高まってきている。もうそこには住めないのだから。ちょっと行って帰ってくる分には大丈夫だが。日本の領土はあの分減ってしまった。あれは黙っていたら、どんどん広がる。東京もアウトになる。ウラン燃料が膨大な量あるのだ。チェルノブイリどころではない。あれの何百倍ものウランがあるのだ。みんなノホホンとしているが、大変な事態なのだ。それは、政府が本当のことを言わないから、皆大丈夫だと思っているのだ。私はそう思っている。 」
(5/27 ウォール・ストリート・ジャーナル小沢一郎インタビュー)
現実政治の世界における、サム・ペキンパー的眼差し・欲望とは何か。ペキンパー作品の主人公達は、陰謀渦巻く世界に取り囲まれ、がんじがらめにされて、常に<リアル>から疎外されている。迫害された状態を自覚して生きながら、彼らはいつか<リアル>の側へ突き抜ける機会を窺っている。
中央集権官僚支配の悪政を甘受しながら、それに抵抗するどころか、マスメディアの口車に乗って、事もあろうか官僚制度に立ち向かうべき自分達の代表者たる政治家の方へ石を投げて、溜飲を下げている国民。結果的に自分達の首を絞める中央官僚支配の維持に加担している国民。官僚制度に立ち向かおうとしている政治家と、そうでない政治家の区別がつかない国民。
間に官僚機構の走狗であるマスメディアが挟まって情報操作しているのがその主な要因なのだが、まさに一部の政治的エリート(官僚・財界人・知識人・ジャーナリスト)以外はことごとく<リアル>から疎外され、カレル・ヴァン・ウォルフレンのいわゆる「偽りのリアリティ」を生かされ続けるわれわれ日本人。われわれは皆自覚しているいないに関わらず、ペキンパー映画の主人公のようである。
この社会全体を覆う「偽りのリアリティ」の総体を強烈な眼差しをもって40年来見つめ、そこからの脱出へ国民を先導しようと絶えず自覚し試みてきたのが小沢一郎である。93年に自民党を飛び出して以来、その試みは挫折の繰り返しであったが、そこにはやはり既得権益者達の強い抵抗と、彼の本質を理解しない国民の存在がともに妨げとなっていた。
あのペキンパーの秘儀的瞬間、衣服(この社会における衣服とは何であろう?腐り切ったマスメディアではないのか?)の内に隠されていたリアルが衆目の間に顕現して、人々を幸福で充たす瞬間を夢見ては挫折し続けてきた小沢一郎は、しかし二年前から彼の周辺を襲った検察官僚による狂気の“国策捜査”とそれに追従するマスコミ報道の被害者となることによって、彼自身が国民の視線にとってのある種の<リアル>の象徴になるという、逆説的状況を生んだ。そして奇しくもその事が目盲いていた国民の眼を<リアル>に向かって開かせたのである。国民は小沢一郎を通じて、その先に<リアル>を見ている。
そしてその一方で大震災に次ぐ原発事故という、不幸の怪物のような真に逆説的な
<リアル>の出現。それが今の状況である。
ペキンパー映画の主人公達は、「偽りのリアリティ」を生きる状況を耐え忍びながら、局面が少しでも好転するようにと様々な改革を試みるのであるが、物語の終局、いよいよどんな改革の訴えも“こいつら”には通じないと悟ると、それまで溜め込んだ怒りをやおら爆発してぶち切れ、ケツをまくって見せる。
“お前ら全員殺してオレも死んでやる!”
とばかりに、凄まじい銃撃戦がスクリーン上に展開され、観客はそのカタルシスに魅了される。『戦争のはらわた』という作品では、凄まじい殺し合いのシーンにペキンパーはわざわざアフリカン・ドラム・ビートの音楽を被せ、生命の高揚を高らかに歌い上げてみせるほどのふてぶてしさなのだ.
最後主人公は、死ぬ時もあれば生き残る時もある。しかしいずれにしても「同じ作品を14本も撮った」サム・ペキンパーは、物語の終局において執拗に主人公をぶち切れさせたのである。
この作品世界に執拗に刻んだペキンパーの映画的欲望と、実世界における小沢一郎のこれまでの政治活動を重ねることは、或いは小沢一郎支持者の怒りを買うかもしれない。オレも小沢一郎を「壊し屋」と揶揄するマスコミの論調に同調するつもりは毛頭無いし、彼のこれまでの政界再編を繰り返してきた政治活動を否定するつもりも勿論無い。救いようの無い民主党菅・仙石・岡田一派を末端に追いやる為なら、更なる政界再編もどうぞやってくれ、という考えである。
前日の集会に70人以上が集まったと聞いたときから、不信任案の可決・否決に関わらず、救国連立内閣というプロセスを経るにせよ、今回もそう(政界再編)なるものだと思った。(尤も今後の民主党内の内紛の成り行きによっては、まだその可能性(離党→新党結成)も有るだろうが。)
しかしとにもかくにも、小沢一郎は鳩山由紀夫という人間をパートナーに選んだのである。
そしてその結果、6月2日にペキンパーの新作を観に劇場に足を運んだわれわれは、幕が開くや否や、スクリーンの中でそろそろとドレスのボタンを外している、トリュフォーの手つきを眺めることとなった。
『 突然炎のごとく 』
鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」と述べ、激しく非難した。都内の自宅前で記者団に語った。(中略)
「不信任案(採決の)直前には辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。こんなペテン師まがいのことを首相がやってはいけない」と指摘。「人間としての基本にもとる行為をしようとしているのなら、即刻党の規則の中で首相に辞めていただくように導いていかなければならない」と述べ、両院議員総会を開いて首相に早期退陣を求める考えを示した。
不信任案に賛成した松木謙公前農水政務官ら2人への除籍(除名)処分については「冗談じゃない」と語り、処分は不要との見解を示した。
(6月3日 MSN産経ニュース)
鳩山由紀夫は自民・公明に勝利し、菅直人にもほぼ決定的な打撃を与えたが、小沢一郎もまた、あの日は傷を負った。
採決直前の段階で、鳩山の話の詰めの甘さを知った時の小沢一郎の心持ち、慮るべし。“もう鳩山など知らん”とおそらく半分ぐらいは思ったのではないか。その気持ちの乱れがみずからは欠席・棄権、側近議員らには自主投票という対応にそのまま現れているように思える。
わが政界のサム・ペキンパーの15本目(?)の新作は、持ち越しとなった。
それが正解だったかどうかは、今のところまだ分からない。
しかしそれが彼のパートナーの差し金によるものだったにせよ、小沢一郎は偉大なるワン・パターン作家である事を止めたのである。(そして松木兼公氏が、師に代わってペキンパー的ケツまくりを矜持とともに務めあげ、期待を裏切られた観衆の心を慰めた。)その未知の可能性に、今は賭けようではないか。
涙を飲んで怒りを鎮めた小沢一郎の為にも(そして松木兼公と、悪政に苦しむ国民の為にも)、鳩山由紀夫は刺し違えてでも、何が何でも菅直人を早急に政権から引き摺り下ろし、そして小沢政権を誕生させねばならない!
フランソワ・トリュフォーは、何も女のドレスのボタンを、いつもいつもニヤニヤしながら外してばかりいたわけではない。
多くの人がトリュフォーの最高傑作に挙げる『突然炎のごとく』では、自由奔放に生きる気性の激しい女カトリーヌが描かれる。ジュールとジムという二人の青年のあいだを行き来するカトリーヌは、終局その激しい気性そのままに、ジムを乗せた車ごと橋から川に転落してみせるのである。
かつて小沢一郎を道連れに総理を辞任した鳩山由紀夫が、再び激しいカトリーヌと化して、今度は菅直人に襲いかかるのである。
騙された方が勝ち、騙した方が敗北するという、日本本来の古き良き伝統が、久しく社会の片隅に追いやられていた日本本来の姿が、再び陽の目を見るのである。その論法でいけば、騙された鳩山由紀夫も結果小沢一郎を騙していたのであるから、最終的な勝者は小沢一郎でなければならない。
その時には、“ジャパン・アズ・ショージキ”という標語が、あらためて世界ブランドとなるであろう。
菅直人が日本の顔である今は“ジャパン・アズ・ウソツキ”の状態。最悪である。
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