日本文化はほんとうは悪党文化
にほんブログ村
重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだした- 「陽気と客観」中沢新一
野田首相が原発再開・維持政策を打ち出しつつあるが、これに抗する脱原発市民デモも、大江健三郎、落合恵子など多くの著名文化人が呼び掛け人となった効果もあり、9月19日の東京・明治公園「さよなら原発」集会デモにはこれまでで最高の六万人(主催者発表)が集まり、その熱気と興奮と感動を伝える多くのネット記事も眼にした。代々木公園まで続いたデモ行進がNHKを取り囲めなかったのは少々残念ではあるが、この日の集会を出発点に既存原発の計画的廃炉、もんじゅ及び六ヶ所村再処理工場の廃棄、自然エネルギーへのエネルギー政策の転換を求める1000万人の署名を集め国会・総理大臣に提出するのが目標だという。
勿論その趣旨には賛同するしオレも署名には参加させていただくが、ここではオレのような悪タレは一般的な賛同の声とはまたちょっと違った感想を持っている、ということを敢えて述べてみたいと思う。
類は友を呼ぶの倣い通り、オレの周りは悪人ばかりである(悪人と言っても、悪質な犯罪の前科があるという意味ではない。)が、その悪人達も今度の事故が起きて以来、原発コノヤロウとはみんな大概思っているし、再稼動とかヤメテクレだよな、とも思っているのだが、脱原発の市民運動やデモに参加しようという者はいない。誘っても断るだろう。
オレにはその理由が分かるのだが、それはなぜかというと、今のところ脱原発の市民デモが、善人達による善人達の為の善人達の宴(うたげ)として、彼ら(オレも含めて)の眼には映っているからだ。そのような場にオレ達は近付かない。
今回呼び掛け人として揃ったような“良心的”文化人の顔ぶれを見ると、尚更なのだ。彼らの演説は彼らなりに心を込めての演説であり、その場にいた多くの聴衆の共感を呼んだのかもしれないが、オレ等悪タレの心にはハッキリ言ってあまり響かない。それらはオレ等からすると「余韻や残響やたっぷりの思い入れ」が多過ぎるし、その分センチメンタルにも聞こえてしまって、それだけでもう敬遠してしまうのだ。耶蘇坊主くさい大江健三郎が登場してくるだけで、なんとなくアンチ・クライマクスな滑稽ささえ感じてしまう。もし大江が「国民の敵・NHKに受信料は払うな!」と大観衆の前で叫んでくれたら、オレの大江評も赤丸急上昇するのだが・・・。
オレは仲間内ではインテリということになっていて、比較的本も読む方だが、ハッキリ言って他の人間は普段本など読まないし、そういう連中からすると、“良心的”文化人の演説は、言葉多くしてなかなか核心が伝わってこない、という印象を受けるだろう。「命の大切さを第一に」などという言葉は、彼らの心には響かない。それはなんだか前に学校の授業で聞いたことが有るような気がするし、ワクワクするような新しい「発明」の感じがしない。そう、ぶっちゃけて言えば、悪タレの立場からしてみると、たとい不謹慎と言われようとも、ワクワクするような感じが有るかどうかというのが最重要なのである。そして悪タレは人から説教されることも説得されることもキライである。山本太郎やランキンタクシーの“腕っぷし”に少々反応するぐらいである。
そしてオレは敢えて読者に問うてみたいのだが、われわれはほんとうに善人なのだろうか?
つまり原発推進派を悪人と見做すほどにわれわれは善人なのだろうか?
たとえばこれは9.19ではなく9.11の新宿デモにおいてだが、演壇に立ったNPO法人環境エネルギー政策研究所長飯田哲也氏はなぜあのように菅直人に肩入れするのだろうか?菅が浜岡原発停止を宣言したから菅降しの動きが始まったという見解は、確かにそういう政治勢力の動きがあったことも事実だが、もしほんとうに全体をその様に認識しているのだとしたら、政治的にあまりにナイーブ過ぎるし、もしそうでなく自己の目的(脱原発)の為に菅の数々の悪政(というより最悪の分裂症的無政府状態)に眼をつぶってそれらを善と言いくるめようとしているのならば、飯田氏は果たして善なのだろうか?
その点同じ日に演壇に立った柄谷行人はもう少し意識的で、自分が絶対善であるかのような発言はしない代わりに、「社会を変えるためのデモであり、デモをすることによってデモが可能な社会に変われる」という趣旨の発言をするのだが、「3.11以前に日本にデモは無かった」という認識はやはりスットコドッコイである。
そのスットコドッコイの由来を考えているうちに、以前読んだ彼の正岡子規に関する短い論考=「ヒューモアとしての唯物論」に行き当たった。ここで柄谷は正岡子規の芸術観=「写生」における「客観」をヒューモアと規定した上で、ボードレールに倣ってヒューモアとは「同時に自己であり他者でありうる力の存在することを示す」ものであるとし、たとえばマルクスの共産主義もこのヒューモアとしての精神の現実的運動である、と規定するのはまったく正しいのだが、そう語る柄谷の文章からは、力の発現し流動する感じも、現実の状態を止揚する運動の躍動感もサッパリ伝わってこないのであり、オレにはまったく退屈な文章だ。実際こうして要約してみても、大概の読者には何を言っているのかさえほとんど分からないであろう。おそらく柄谷は実際的にはこうした力や運動に関してはむしろ不感症なのではないか、とこの文章を読んだ限りオレは疑うのである。
-重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだしたのである-
オレが度々中沢新一を引用するのは、中沢は現実的な政治的アクション、政治的センスはほとんど無い人だと思うが、その下部を支えている、現実世界に漲っている力の運動とその構造に関して、非常に卓見した思想家だと認めるからだ。彼の語る正岡子規は、柄谷のそれと比べて遥かにアヴァンギャルドで、そしてワルである。
子規は日本語に構造上の弱点を見い出していた。-日本語で書かれた歌詞をオペラ仕立てにでもして歌ってみればすぐにわかるように、全体として響きが過剰な割には、伝達される意味は少ない。こういう言語は閉じられた共同体の内部では、おたがいの感情の理解やコミュニケーションが持続していることの確認のためなどには、いたって情のこまかい便利な働きをするが、交易や交渉や戦いの場所には不向きである。そのような言語を用いて新しい現実の「発明」をおこなおうとするとき-いっさいの過剰な身振りは削ぎ落とされ、「ありのまま」の「場所」のみが、すっくと立ち上がる。その鮮やかな実例として、子規は芭蕉のあの句を挙げるのだ。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
而(しか)して其国語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思(わがしょし)を現はさんとせば為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかがなるべきかなとつくづく思いめぐらせる程に脳中朦朦(もうもう)大霧の起こりたらんが如き心地に芭蕉は只惘然(もうぜん)として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。萬頼寂(ばんらいせき)として妄想全く耐ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙(やくあ)の音あり。 みずからつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。 -正岡子規「芭蕉雑談」
分かるだろうか?
ワルは「おたがいの感情の理解やコミュニケーションの持続の確認」などにはさしたる関心を示さない。そんなものは何も産み出さないし、新しい現実の「発明」にはほとんど役に立たないと知っているからだ。そんな言葉の遊戯に時間を費やす代わりに、ワル達は新しい現実の立ち上がる、時間も消失するような「場所」で、躍動する裸の「モノ」に直に交感しようとするのである。松尾芭蕉は稀代の悪党芸術家であるし、それを正確に理解し発展させた正岡子規の「客観」とは、やはり稀代の悪党芸術と言えるのである。
われわれ日本人の多くもまた心の内奥で芭蕉や子規の芸術を理解し愛してきたし、いまも理解し愛している筈である。われわれはわれわれ自身で考えているよりも、はるかにずっと悪党なのではないか?
正岡子規の芸術は御存知の通り、その病状の進行とともにみずからの死を「客観」する境地へと向かってゆき、そのなかでヒューモア的態度が醸成されていったのは、柄谷の言う通りである。しかし「ヒューモアとしての唯物論」などとしてしまうと、唯物論がその契機に本来持っている力動感や流動感が見えなくなってしまい、高級なだけのつまらない精神的態度のようになってしまう。
脱原発デモにおける“良心的”文化人達の発言には、高級な美辞麗句がいっぱいあった代わりに、一番必要な、力の発現する「契機」としての悪党的言葉が、欠けていたように思えるのだ。
その言葉とは何なのか?
あの寡黙な、しかしそれだけにほんとうの事しか言わない政治家の言動に、オレはその答えを見い出す。
「これは権力闘争だぞ。」
昨年10月4日、東京第5検察審査会による“強制”「起訴議決」が公表された後、小沢一郎は涙を流しながら自らに近い議員にこう述べた、と当時の新聞は伝えている。
はるか一年近くも前に、その契機の言葉は発せられていたのである。そこから今日までは地続きである。
あの六万人を集めた脱原発集会でオレ達が一番聞きたかった、しかし聞けなかった言葉が、此処に有るではないか?
これは権力闘争である。脱原発運動とは、すなわち権力闘争である。呼び掛け人の一番手として鎌田慧氏が脱原発運動は文化革命だ、といみじくも述べていたが、この国で文化における「革命」とは、松尾芭蕉や正岡子規にあきらかなように、意識を悪党的段階に昇華させた「場所」で、流動する「モノ」の力に己を合一して、「モノ」としての己の発現に立ち会う、きわめて悪党的な所業に他ならないのだ。われわれはみな本来的に悪党である。ただちょっと思い出すだけでいい。そうすれば、八つ裂きにしなければならない敵の顔が、すぐ眼の前に見えて来る筈だ。ほら、家に帰ってテレビを点けてみれば、いつも善人面している奴らの顔が、すぐに見えるだろう。われわれに善人たれと催眠術をかけて、われわれを支配している権力者の顔が。
皮剥いだるぞッ、ア?
というような殺気が漲ってくれば、脱原発運動もより本物のものとなるであろう。“ヒューモア”などは、その後からついてくる筈のものである。先日観たバラエティー番組で、お笑い芸人の千原ジュニアが「俺はあらゆるモノを笑いに変える事が出来る」と豪語していたというエピソードを後輩芸人が披露していたが、それならば彼はテレビで原発事故を笑いに変えているか?彼以外の誰かで、原発事故を笑いにしていた芸人がいるか?テレビを点けると数え切れないくらいのお笑い芸人が次から次と出てくるが、まさにお前ら全員要ラネ、というようなヒューモアの無効になる状況に、今われわれは生きているのである。
善人による脱原発の善意運動がこのままその輪を広げていって、ついには国政を動かせるような状況まで至れば、それはそれで喜ばしいことであるが、よしんば運動の全体により悪党色が鮮明になってくれば、今は傍観者を決め込んでいる悪タレ達(これは実はかなりの数だとオレは思っている)も、勇んで運動の最前線に飛び出してくるだろう。その場合、倒せる敵の数はより多くなる筈である。
親鸞聖人熊皮御影(熊皮に坐す親鸞)
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
ブログランキング参加始めました
にほんブログ村