カテゴリー「核・原子力」の記事

2011年9月25日 (日)

日本文化はほんとうは悪党文化

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重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだした- 「陽気と客観」中沢新一


野田首相が原発再開・維持政策を打ち出しつつあるが、これに抗する脱原発市民デモも、大江健三郎、落合恵子など多くの著名文化人が呼び掛け人となった効果もあり、9月19日の東京・明治公園「さよなら原発」集会デモにはこれまでで最高の六万人(主催者発表)が集まり、その熱気と興奮と感動を伝える多くのネット記事も眼にした。代々木公園まで続いたデモ行進がNHKを取り囲めなかったのは少々残念ではあるが、この日の集会を出発点に既存原発の計画的廃炉、もんじゅ及び六ヶ所村再処理工場の廃棄、自然エネルギーへのエネルギー政策の転換を求める1000万人の署名を集め国会・総理大臣に提出するのが目標だという。

勿論その趣旨には賛同するしオレも署名には参加させていただくが、ここではオレのような悪タレは一般的な賛同の声とはまたちょっと違った感想を持っている、ということを敢えて述べてみたいと思う。


類は友を呼ぶの倣い通り、オレの周りは悪人ばかりである(悪人と言っても、悪質な犯罪の前科があるという意味ではない。)が、その悪人達も今度の事故が起きて以来、原発コノヤロウとはみんな大概思っているし、再稼動とかヤメテクレだよな、とも思っているのだが、脱原発の市民運動やデモに参加しようという者はいない。誘っても断るだろう。

オレにはその理由が分かるのだが、それはなぜかというと、今のところ脱原発の市民デモが、善人達による善人達の為の善人達の宴(うたげ)として、彼ら(オレも含めて)の眼には映っているからだ。そのような場にオレ達は近付かない。

今回呼び掛け人として揃ったような“良心的”文化人の顔ぶれを見ると、尚更なのだ。彼らの演説は彼らなりに心を込めての演説であり、その場にいた多くの聴衆の共感を呼んだのかもしれないが、オレ等悪タレの心にはハッキリ言ってあまり響かない。それらはオレ等からすると「余韻や残響やたっぷりの思い入れ」が多過ぎるし、その分センチメンタルにも聞こえてしまって、それだけでもう敬遠してしまうのだ。耶蘇坊主くさい大江健三郎が登場してくるだけで、なんとなくアンチ・クライマクスな滑稽ささえ感じてしまう。もし大江が「国民の敵・NHKに受信料は払うな!」と大観衆の前で叫んでくれたら、オレの大江評も赤丸急上昇するのだが・・・。

オレは仲間内ではインテリということになっていて、比較的本も読む方だが、ハッキリ言って他の人間は普段本など読まないし、そういう連中からすると、“良心的”文化人の演説は、言葉多くしてなかなか核心が伝わってこない、という印象を受けるだろう。「命の大切さを第一に」などという言葉は、彼らの心には響かない。それはなんだか前に学校の授業で聞いたことが有るような気がするし、ワクワクするような新しい「発明」の感じがしない。そう、ぶっちゃけて言えば、悪タレの立場からしてみると、たとい不謹慎と言われようとも、ワクワクするような感じが有るかどうかというのが最重要なのである。そして悪タレは人から説教されることも説得されることもキライである。山本太郎やランキンタクシーの“腕っぷし”に少々反応するぐらいである。

そしてオレは敢えて読者に問うてみたいのだが、われわれはほんとうに善人なのだろうか?
つまり原発推進派を悪人と見做すほどにわれわれは善人なのだろうか?

たとえばこれは9.19ではなく9.11の新宿デモにおいてだが、演壇に立ったNPO法人環境エネルギー政策研究所長飯田哲也氏はなぜあのように菅直人に肩入れするのだろうか?菅が浜岡原発停止を宣言したから菅降しの動きが始まったという見解は、確かにそういう政治勢力の動きがあったことも事実だが、もしほんとうに全体をその様に認識しているのだとしたら、政治的にあまりにナイーブ過ぎるし、もしそうでなく自己の目的(脱原発)の為に菅の数々の悪政(というより最悪の分裂症的無政府状態)に眼をつぶってそれらを善と言いくるめようとしているのならば、飯田氏は果たして善なのだろうか?

その点同じ日に演壇に立った柄谷行人はもう少し意識的で、自分が絶対善であるかのような発言はしない代わりに、「社会を変えるためのデモであり、デモをすることによってデモが可能な社会に変われる」という趣旨の発言をするのだが、「3.11以前に日本にデモは無かった」という認識はやはりスットコドッコイである。

そのスットコドッコイの由来を考えているうちに、以前読んだ彼の正岡子規に関する短い論考=「ヒューモアとしての唯物論」に行き当たった。ここで柄谷は正岡子規の芸術観=「写生」における「客観」をヒューモアと規定した上で、ボードレールに倣ってヒューモアとは「同時に自己であり他者でありうるの存在することを示す」ものであるとし、たとえばマルクスの共産主義もこのヒューモアとしての精神の現実的運動である、と規定するのはまったく正しいのだが、そう語る柄谷の文章からは、力の発現し流動する感じも、現実の状態を止揚する運動の躍動感もサッパリ伝わってこないのであり、オレにはまったく退屈な文章だ。実際こうして要約してみても、大概の読者には何を言っているのかさえほとんど分からないであろう。おそらく柄谷は実際的にはこうした力や運動に関してはむしろ不感症なのではないか、とこの文章を読んだ限りオレは疑うのである。

-重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだしたのである-

オレが度々中沢新一を引用するのは、中沢は現実的な政治的アクション、政治的センスはほとんど無い人だと思うが、その下部を支えている、現実世界に漲っている力の運動とその構造に関して、非常に卓見した思想家だと認めるからだ。彼の語る正岡子規は、柄谷のそれと比べて遥かにアヴァンギャルドで、そしてワルである。

子規は日本語に構造上の弱点を見い出していた。-日本語で書かれた歌詞をオペラ仕立てにでもして歌ってみればすぐにわかるように、全体として響きが過剰な割には、伝達される意味は少ない。こういう言語は閉じられた共同体の内部では、おたがいの感情の理解やコミュニケーションが持続していることの確認のためなどには、いたって情のこまかい便利な働きをするが、交易や交渉や戦いの場所には不向きである。そのような言語を用いて新しい現実の「発明」をおこなおうとするとき-いっさいの過剰な身振りは削ぎ落とされ、「ありのまま」の「場所」のみが、すっくと立ち上がる。その鮮やかな実例として、子規は芭蕉のあの句を挙げるのだ。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

而(しか)して其国語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思(わがしょし)を現はさんとせば為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかがなるべきかなとつくづく思いめぐらせる程に脳中朦朦(もうもう)大霧の起こりたらんが如き心地に芭蕉は只惘然(もうぜん)として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。萬頼寂(ばんらいせき)として妄想全く耐ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙(やくあ)の音あり。 みずからつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。 -正岡子規「芭蕉雑談」

分かるだろうか?

ワルは「おたがいの感情の理解やコミュニケーションの持続の確認」などにはさしたる関心を示さない。そんなものは何も産み出さないし、新しい現実の「発明」にはほとんど役に立たないと知っているからだ。そんな言葉の遊戯に時間を費やす代わりに、ワル達は新しい現実の立ち上がる、時間も消失するような「場所」で、躍動する裸の「モノ」に直に交感しようとするのである。松尾芭蕉は稀代の悪党芸術家であるし、それを正確に理解し発展させた正岡子規の「客観」とは、やはり稀代の悪党芸術と言えるのである。

われわれ日本人の多くもまた心の内奥で芭蕉や子規の芸術を理解し愛してきたし、いまも理解し愛している筈である。われわれはわれわれ自身で考えているよりも、はるかにずっと悪党なのではないか?

正岡子規の芸術は御存知の通り、その病状の進行とともにみずからの死を「客観」する境地へと向かってゆき、そのなかでヒューモア的態度が醸成されていったのは、柄谷の言う通りである。しかし「ヒューモアとしての唯物論」などとしてしまうと、唯物論がその契機に本来持っている力動感や流動感が見えなくなってしまい、高級なだけのつまらない精神的態度のようになってしまう。

脱原発デモにおける“良心的”文化人達の発言には、高級な美辞麗句がいっぱいあった代わりに、一番必要な、力の発現する「契機」としての悪党的言葉が、欠けていたように思えるのだ。

その言葉とは何なのか?

あの寡黙な、しかしそれだけにほんとうの事しか言わない政治家の言動に、オレはその答えを見い出す。

「これは権力闘争だぞ。」

昨年10月4日、東京第5検察審査会による“強制”「起訴議決」が公表された後、小沢一郎は涙を流しながら自らに近い議員にこう述べた、と当時の新聞は伝えている。

はるか一年近くも前に、その契機の言葉は発せられていたのである。そこから今日までは地続きである。

あの六万人を集めた脱原発集会でオレ達が一番聞きたかった、しかし聞けなかった言葉が、此処に有るではないか?

これは権力闘争である。脱原発運動とは、すなわち権力闘争である。呼び掛け人の一番手として鎌田慧氏が脱原発運動は文化革命だ、といみじくも述べていたが、この国で文化における「革命」とは、松尾芭蕉や正岡子規にあきらかなように、意識を悪党的段階に昇華させた「場所」で、流動する「モノ」の力に己を合一して、「モノ」としての己の発現に立ち会う、きわめて悪党的な所業に他ならないのだ。われわれはみな本来的に悪党である。ただちょっと思い出すだけでいい。そうすれば、八つ裂きにしなければならない敵の顔が、すぐ眼の前に見えて来る筈だ。ほら、家に帰ってテレビを点けてみれば、いつも善人面している奴らの顔が、すぐに見えるだろう。われわれに善人たれと催眠術をかけて、われわれを支配している権力者の顔が。

皮剥いだるぞッ、ア?

というような殺気が漲ってくれば、脱原発運動もより本物のものとなるであろう。“ヒューモア”などは、その後からついてくる筈のものである。先日観たバラエティー番組で、お笑い芸人の千原ジュニアが「俺はあらゆるモノを笑いに変える事が出来る」と豪語していたというエピソードを後輩芸人が披露していたが、それならば彼はテレビで原発事故を笑いに変えているか?彼以外の誰かで、原発事故を笑いにしていた芸人がいるか?テレビを点けると数え切れないくらいのお笑い芸人が次から次と出てくるが、まさにお前ら全員要ラネ、というようなヒューモアの無効になる状況に、今われわれは生きているのである。

善人による脱原発の善意運動がこのままその輪を広げていって、ついには国政を動かせるような状況まで至れば、それはそれで喜ばしいことであるが、よしんば運動の全体により悪党色が鮮明になってくれば、今は傍観者を決め込んでいる悪タレ達(これは実はかなりの数だとオレは思っている)も、勇んで運動の最前線に飛び出してくるだろう。その場合、倒せる敵の数はより多くなる筈である。


Sinran

親鸞聖人熊皮御影(熊皮に坐す親鸞)


善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

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2011年9月16日 (金)

GHOSTLAND(「嵐」の前の静けさ ― 「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」を所望する)

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「鉢呂」以後、テレビを点けても、

報道番組はおろか、バラエティーを観ていても、、スポーツ番組を観ていても、
コマーシャルを観ていても、

こんな気分
Kuzuhahikiniku


にしかならない。


だってそうだろう?オレが特別じゃない筈だ。

なにしろ鼻先で五歳児扱いされて愚弄されたのである。

幾らかでも矜持の有る男なら、一、二発見舞ってやらない事には気の治まるものではない。

女だってこういう時には容赦しないだろう。

ところが相手は画面の奥の向こうに、今日もすまし顔でちゃっかり納まってる。

怒りは漠として膨張する一方なのは、自然の道理である。


テレビを点けると、犯罪者が出て来てこちらに向けて喋り出す。

犯罪者がニュースを読んでる。犯罪者が冗談を言い、犯罪者が陽気に笑い転げ、犯罪者が困っている人のところに出掛けて行って、善意の憐みの表情を浮かべる。挙句には、犯罪者が偉そうに説教垂れ始める。

何でだ?

どうなってんだ?

この状況でわれわれはいつまで正気を保てるか?



表面ではみないつも通りの生活を続けている。

静かである。

静かに、しかし凄まじい勢いで膨張する怒りが地の底からゴーストを呼び覚まさし、われわれのガイストとも一体化したそれは巨大な怒れるゴースト=ガイストとなって、日本の国土の上空を発火点を探しながら、音も無くいま彷徨っている。

長谷川幸洋の鉢呂吉雄インタビュー記事が記録的にアクセス数を伸ばしていた9月14日、テレビ各局の報道番組はおそらく膨張するガイストの気配を意識していたのだろう、こういう場合に彼らの使う陳腐な鎮めの技法、すなわち“善意”という彩色の施された「ヒューマニズム」を、いつも以上に多用していた。そして昨15日は国会本会議代表質問等も有ったのだが、それ以上に文化庁の発表に合わせた若者言葉の変化の街角実地インタビューを大きく取り上げて、“白痴”的「なごみ」ムードで<気配>を掻き消そうとしているかのようであった。“善意”と“白痴”、「ヒューマニズム」と「なごみ」の二本立てで、嵐の発生を抑えてやり過ごそうという算段である。

そしてその国会の方へと眼を転じてみると、ここでも野田佳彦という男がやはり同様に、怒れるゴーストの到来(それは世界大不況という名のゴーストかも知れない)を予感しているのかいないのか、「亀のように甲羅に首をすくめ、嵐が去ってくれ、と」(あいば達也の「世相を斬る」)ただただ思考停止の穴ぐらのようなところに陥入して、時間がすべてをやり過ごしてくれるとの、淡い夢に身を預けているかのようである。

鉢呂をアッサリ見捨てたのは無論、八方美人で美辞麗句ばかり並べた所信表明演説、財政再建と経済成長の同時進行とか、現実を見ていないとしか思えない、何をしようとしているのかさっぱり分からない、谷垣禎一でなくとも「二枚舌」と揶揄したくなるような、一種異様な所信表明演説であった。

その身体そのものがいまやゴーストの緩衝地帯のようになっている、このおたふくのようなペルソナを剥いだ時、中から何が出てくるのか、出ないのか。




嵐を目前にして思考停止に逃げ込む人ばかり、どうしてこんなに多いのか?

死の街って言うなって?

冗談じゃない。

ハッキリ言うぞ。

此処はいま怒れる死の国、ゴーストランドだ。

この国に住まうオレ達は皆、誇り高きゴーストランドの住人だ。

オレ達のひとりひとりが、誇り高きゴーストなのだ。



ゴースト=霊=流動的知性だ。

分かるか?

鉢呂吉雄は福島視察後の記者会見で、己の霊性を立派に示した。

原発周辺の放射能に汚染された人気の無い街を視察した彼は、その流動的知性=ニューロン・ネットワークの内奥で、きわめて正確にゴーストの蘇生する気配を、感じ取っていたのだ。

彼の「死の街」発言をなじる者は、福島の被災者だろうが誰だろうが、

オレは許さん!



長谷川幸洋のインタビューによって、鉢呂がなぜ新聞・テレビ連の犯罪的メディアスクラムによって追い落とされねばならなかったのか、その背景が見えてきた。つまり彼が口先だけでない、本気で脱・原発の方へ国のエネルギー政策を舵取りしようとしていたこと、その為に官僚機構がこれまでずっと“国民的議論”のアリバイとして活用してきた“有識者”によって構成される「調査会」に手を入れて公平性を確保しようとしていたこと、それによって経産省・マスコミサイドから狙われ、引き金を引かれた可能性が高いこと。

これはまるでいつか見た悪夢の再来。佐藤栄佐久の二の舞ではないか?

われわれはこの原発災害の遠因のひとつとも言える官僚・マスコミ連合による佐藤栄佐久知事抹殺を許し、この未曾有の原発災害に見舞われた後のいま尚再び、彼らの犯罪を許すのか?

このまま彼らを許し、事態が彼らの計画通りに進めば、われわれの手の及ばないところで人知れず既成事実が積み重ねられて、いま盛んに全国で行われている数万人規模の脱・原発デモの努力さえ、気泡と化すかも知れないのである。

脱・原発デモの輪の中に、いやむしろその最前面に、「鉢呂大臣辞任抗議デモ」が加わらねばならない必然性を感じる所以であるが、しかしそこにはひとつの問題点が横たわる。

どこかで「辞任抗議」の声が立ち上がるや否や、マスメディアのよこしまなレトリックの横槍が入って、「福島の被災者の感情を踏みにじっている」などとあらぬ非難を受ける可能性があるのである。
国民分断戦術の陥穽にまんまと嵌まってしまうかも知れないのだ。



しかしこの罠を堂々と正面突破出来る場所が、日本に唯一つ在るのである。

福島である。

「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」の狼煙が上がれば、規模の大小にかかわらず、そのインパクトは計り知れないものが有るはずである。それはたちまちのうちに全国に波及していく破壊力を秘めている。

それどころじゃないよ、こっちの生活がどんなに大変か分かってんのか?と言われれば、オレは黙るしかない。

しかし今のところ“発火点”になれるのは、あなた方しかいないのだ。

あの誇り高き平将門一門、誇り高き白虎隊のガイストがまだ生きているならば、
不可能ではないのではないか?

もし実現すれば、きっと「嵐」も起きるだろう。



Ghostland - Calming The Sea





・辞任の引き金とされた鉢呂吉雄経産大臣の9月9日の発言詳細全文


 昨日、野田佳彦首相と一緒に(視察した)東京電力福島第一原子力発電所事故の福島県の現場は、まだ高濃度で汚染されていた。事務管理棟の作業をしている2千数百人がちょうど昼休みだったので話をした。除染のモデル実証地区になっている伊達市、集落や学校を訪れ、また佐藤(雄平)知事、除染地域に指定されている14の市町村長と会ってきた。

 大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ。

 事故現場の作業員や管理している人たちは予想以上に前向きで、明るく活力を持って取り組んでいる。3月、4月に入った人もいたが、雲泥の差だと話していた。残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。

 除染対策について、伊達市と南相馬市も先進的に取り組んでいる。大変困難ななかだが、14市町村の首長が、除染をしていくと前向きの形もでてきている。首長を先頭に、私も、住民のみなさんが前向きに取り組むことで、困難な事態を改善に結びつけることができると話した。政府は全面的にバックアップしたい、とも話した。

(朝日新聞web記事より)


「死の町」発言について 旅の途中-ブログ篇-


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2011年9月14日 (水)

鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす 「原発エネルギー政策見直し人事」 の発表寸前だった!「放射能」“発言”第一報を報じたフジテレビ記者はその場にいなかった!言いだしっぺが誰かも分からない伝言ゲーム!



謀略の背景と中身が明らかになってきた。


長谷川幸洋(東京新聞論説副主幹)「ニュースの深層」
9/14の記事より全文転載 



 鉢呂吉雄経済産業相の辞任問題は、いまも謎の部分が多い。

 鉢呂が記者会見で「死の町」と発言したのは事実である。だが、大臣辞任にまで至ったのは、記者との懇談で「放射能をうつしてやる」と"発言"したという新聞、テレビの報道が批判に拍車をかけた側面が大きい。

 ところが、その発言自体の裏がとれないのだ。高橋洋一さんが9月12日付けのコラムで指摘したように、各社の報道は「放射能をうつしてやる」(東京新聞)から「放射能をつけちゃうぞ」(朝日新聞)、「放射能を分けてやるよ」(FNN)に至るまでまちまちだった。

 鉢呂本人は終始一貫「そういう発言をしたかどうか記憶にない」と言っている。実際の発言がどうだったかどころか、本当にそういう趣旨の発言をしたかどうかさえ、はっきりとした確証がないのである。

 そこで私は13日午後、鉢呂本人に衆院議員会館の自室でインタビューした。鉢呂事務所は「辞任以来、どなたの取材も受けていません」と取材をいったん断ったが、その後、数時間経って「本人がお会いすると言っている」と連絡があり、インタビューが実現した。以下はその主なやりとりである。


「朝日新聞の記事は間違いだ」


 -いま、どういう心境か。

「『死の町』という言葉は、大変な被災に遭った福島のみなさんに不信の念を抱かせる発言だったと思っている。私は原発から3キロ圏内を視察した。ひとっ子1人いない様子を見て、私にはああいう表現しか思い浮かばなかった。申し訳ないし、反省している。」

 -8日夜の記者懇談はどういう状況だったのか。

「あの夜、視察から赤坂の議員宿舎に戻ってくると、記者さんが5,6人待っていた。みんな経済部の記者さんだと思うが、私はそれまで経済部と付き合いがなかったので、顔見知りはだれもいなかった。後ろのほうに政治部の記者さんが2人いたと思う。こちらは知っている」

「原発周辺では線量計を持っていた。私は一日で85マイクロシーベルトだった。その数字を記者たちに喋ったのは、はっきり覚えている。朝日の検証記事(13日付け)で『私が線量計をのぞいて数字を読み上げた』というのは間違いだ。線量計はJビレッジ(原発作業員の基地)に返却してきた」

 -「放射能をうつしてやる」と言ったのは本当か。

「『うつしてやる』とか『分けてやるよ』と言った記憶は本当にないんです。もしかしたら『ほら』という言葉は言ったかもしれないが、それさえ、はっきり覚えていない。『ほら、放射能』という報道もあったが、放射能という言葉を出したかどうか分からない」

「はっきり言えるのは、私が防災服を記者になすりつけるような仕草をしたことはないっていう点です。一歩くらい記者に近づいたことはあったかもしれないが、なすりつけるようなことはしていない。そんなことがあれば覚えています」

 -記者は発言を録音していなかったのか。

「していなかったと思う」



「第一報を流したフジテレビは現場にいなかった」


 -朝日の検証記事によれば「放射能をうつしてやる」発言の第一報はフジテレビだったとされている。フジの記者は懇談の場にいたか。

「フジテレビはいなかった。フジの記者は○○さん(実名)という女性なので、それは、あの場にいれば分かります」。

 フジは「放射能を分けてやるよ、などと話している姿が目撃されている」と伝聞情報として第一報を伝えている。鉢呂の話でも、フジの記者は現場にいなかったという。ここは大事なポイントである。

 -大臣辞任は自分から野田佳彦首相に言い出したのか。

「そうです。あの日は工場視察に出かけるとき、記者が宿舎にたくさん集まっていた。そのとき、どういう気持ちだったかといえば、これから視察に行くわけですから(辞任の意思はなかった)…。ただ工場視察を終えて、午後7時から総理にお会いするときは腹が決まっていた」

 -首相から辞任を求められたのではないか。

「それはない。私はまず一連の事実経過を説明し、そのまま話を続けて、辞める意志を自分で伝えました」

 -ずばり聞くが「大臣は経済産業省にはめられたのではないか」という説がある。これをどう思うか。

「それは憶測でしょう。私は推測でモノは言いたくない」

 -役所と対立したことはなかったのか。「鉢呂大臣は幹部人事の入れ替えを考えていたらしい」という話も流れている。

「幹部人事をどうするか、だれかと話したことは一度もない」



「原発反対派を加えて、賛成反対を半々にするつもりだった」


 そして、ここからが重要な部分である。

 -脱原発依存やエネルギー政策はどう考えていたのか。

「政府はエネルギー政策を大臣レベルの『エネルギー・環境会議』と経産省の『総合資源エネルギー調査会』の二段構えで検討する段取りになっていた。前者は法律に基づかないが、後者は法律(注・経産省設置法)に基づく会議だ。調査会は今年中に中間報告を出して、来年、正式に報告を出す方針だった」

「このうち総合資源エネルギー調査会は私が着任する前の6月段階で、すでに委員の顔ぶれが内定していた。全部で15人のうち3人が原発反対派で残りの12人が賛成派だ。私は事故を受けて、せめて賛成派と批判派が半数ずつでないと、国民の理解は得られないと思った。それであと9人から10人は反対派を加えて、反対派を合計12、3人にするつもりだった。委員に定数はないので、そうすれば賛成と反対が12人くらいずつで半々になる」

 -それには役所が抵抗したでしょう。

「役所は『分かりました』という返事だった。私が出した委員候補リストを基に人選を終えて、後は記者発表するばかりのところだった」

-もう一度聞くが、それで役所と激論にならなかったのか。官僚は面従腹背が得意だ。

「私は最初から強い意思で臨んでいた。私は報告書の内容が必ずしも一本にならず、賛成と反対の両論が記載されてもいいと思っていた。最終的にはエネルギー・環境会議で決めるのだから、役所の報告が両論併記になってもいいでしょう。私のリストは後任の枝野幸男大臣に引き継いだ。後は枝野大臣がどう選んでくれるかだと思う。」

 この話を聞いて、私は「これで鉢呂が虎の尾を踏んだ可能性がある」と思った。鉢呂は大臣レベルの会議が物事を決めると考えている。ところが、官僚にとって重要なのは法律に基づく設置根拠がある調査会のほうなのだ。

 なぜなら、法律に基づかない大臣レベルの会議など、政権が代わってしまえば消えてなくなるかもしれない。消してしまえば、それでおしまいである。ところが、法に基づく会議はそうはいかない。政権が代わっても、政府の正式な報告書が原発賛成と反対の両論を書いたとなれば、エネルギー政策の基本路線に大きな影響を及ぼすのは必至である。官僚が破って捨てるわけにはいかないのだ。



フジテレビはなぜ報じたのか


 以上の点を踏まえたうえで、フジの第一報に戻ろう。

 もし鉢呂の話が真実だとしたら、フジはなぜ自分が直接取材していないのに、伝聞情報として「放射能を分けてやる」などという話を報じられたのか。

 記者の性分として、自分が取材していない話を報じるのはリスクが高く、普通は二の足を踏む。万が一、事実が違っていた場合、誤報になって責任を問われるからだ。記者仲間で「こんな話があるよ」と聞いた程度では、とても危なくて記事にできないと考えるのが普通である。

 どこかの社が報じた話を後追いで報じるならともかく、自分が第一報となればなおさらだ。

 フジは鉢呂本人に確認したのだろうか。私はインタビューで鉢呂にその点を聞きそこなってしまった。終わった後で、あらためて議員会館に電話したが、だれも出なかった。

 もしも、フジが本人に確認したなら、当然、鉢呂は「そういう記憶はない」と言ったはずだ。それでも報じたなら、伝聞の話に絶対の自信があったということなのだろう。

 経産省は鉢呂が原発エネルギー政策を中立的な立場から見直す考えでいることを承知していた。具体的に調査会の人選もやり直して、発表寸前だった。そういう大臣が失言で失脚するなら当然、歓迎しただろう。

 そして「死の町」に続く決定的な"失言"をテレビが報じたのを機に、新聞と通信各社が後追いし既成事実が積み上がっていった。いまとなっては真実は闇の中である。



子供のことを考え、1ミリシーベルト以下にするよう首相に頼んだ


 -福島では「鉢呂さんは子供の被曝問題でしっかり仕事をしてくれていた」という声もある。

「それは年間1ミリシーベルトの問題ですね。8月24日に私は福島に行って除染の話を聞いた。『政府は2年間で汚染を6割減らす』などという話が報じられていたが、汚染は割合の話ではない。あくまで絶対値の話だ。しかも1ミリシーベルトは学校を想定していたが、子供は学校だけにいるわけではなく通学路も家庭もある。そこで私は菅総理と細野大臣に電話して、子供の生活全体を考えて絶対値で1ミリシーベルトにしてくれと頼んだ」

「すると菅総理も細野大臣も賛同してくれて、2日後の26日に絶対値で1ミリシーベルト以下にする話が決まった。良かったと思う」

 -辞任記者会見では「何を言って不信の念を抱かせたか説明しろって言ってんだよ!」と暴言を吐いた記者もいた。あの質問をどう思ったか。

「その記者と部長さんが先程、私の事務所に謝罪に来ました。私はなんとも思っていません。部長さんにも部下を責める必要はないと言いました。まあ、仕事ですからね」

 取材とはいえ、ああいう言い方はない。「記者」という仕事の評判を貶めただけだ。まったく残念である。

(了)


鉢呂吉雄氏の辞任会見の時名前も名乗らずに「説明しろって言ってんだよ!」と罵声を上げ、その後コソコソ逃げ回っていた時事通信の記者は、ようやく上司に連れ添われて詫びに現れたようであるが、われわれの前に現れて説明しなければならないのは、このフジテレビの記者を始め、その場に居合わせた記者、「放射能」“発言”記事を書いた記者全員ではないのか?大臣のクビが飛んだのだぞ?

大手新聞・テレビ局は黙殺しようとするだろうが、われわれ国民は許さない。民主党も動くべきだ。そして枝野に注目だな(笑)。


Hatiro


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2011年6月 5日 (日)

サム・ペキンパーの女の服の脱がせ方


6月2日、内閣不信任決議案採決の当日、あるいは直前に菅直人の突然の辞意表明もあるかも知れないという推測も一部にはあったが、周知のように民主党代議士会における驚きの“曖昧”辞意表明から一転、不信任案の大差での否決に至った。

前日まで小沢一郎陣営対菅・岡田陣営の対決だと皆が思い込まされていたものの実態は、蓋を開けてみたら鳩山由紀夫対自民・公明のような対決であった。そして鳩山由紀夫が勝利した訳である。鳩山は当座の民主党分裂を回避し、菅直人から自民との連立は無いとの言質を取ることに成功した。そして完全なものではないにせよ、菅直人自身の首にも鈴を掛けたのである(文書作成に関わった北沢の暴露でアウト)。

もちろん、鳩山が菅・岡田(作戦計画に加わった仙石・枝野らも同罪である)に騙されたというのが客観的事実であろう。彼らは初めから騙すつもりで鳩山を呼んだのである。しかしその深層にはもしかしたら、鳩山もギリギリのところで“騙された振り”をするという、彼なりの高等戦術の側面もあったのではないかとも考える。まあ、それはどちらでもよいだろう。いずれにせよ、騙された鳩山由紀夫の勝利である。

小沢劇場の開演を待ち望んでいた観衆達の面前で、まさに開演直前に、舞台は鳩山劇場にすり替わった。採決が終わり、その一部始終を見届けた後、「政策の小沢、政局の鳩山」という誰かの言葉を思い出しながら、同時にオレの想念はなぜだか、かつてシネマの世界で突出した存在感を示していた映画作家達の作品世界の方へと、知らず知らずに向かって行ったのである。


サム・ペキンパーの秘儀

暴力をスロー・モーションで描出して一世を風靡したサム・ペキンパーは、女に対しては正反対の態度で臨んだ。素手で、また或る時は刃物を使って、ペキンパーは女の衣を一気に引き裂いてしまうのだ。

しかしこの点を睨視して、ペキンパーをレイパー嗜好と断じるのは早計である。アダルトビデオのレイプ・ストーリー物を観るのが好きという人がいるが、彼らは女が嫌がって泣き叫ぶ様に興奮を覚えるのだそうである。ところがペキンパーの映画では、服をむしり取られた女は決して「キャーッ」などと泣き叫んだりしないどころか、胸を手で押さえる仕草さえなく、むしろ傲然と肌けた胸を突き出して(彼女達はいつも下着すら身に着けていない)、「何さ」という感じでふんぞり返って男を睨み返してみせるのである。

サム・ペキンパーはレイパーではない。崔洋一とは違うのである(笑)。

これとまったく好対照だったのが、フランソワ・トリュフォーである。トリュフォーの『恋愛日記』という映画では、女がボタンだらけのドレスを着ていて、男が嬉しそうな表情を浮かべながらそのボタンをひとつひとつゆっくりと外していく、というシーンがある。

どちらが好みか、という質問でその人の性的嗜好が分かってしまいそうな話ではあるが、想念のおもむくままのオレのニューロン・ネットワーク的思考は、例によってそこから大きく逸脱するのだ。



『ガルシアの首』

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サム・ペキンパーの眼差しは、実はそこに在る女の裸体そのものには向けられていなかったのではないか?

ボタンを外す男の手つきと表情を嬉々としてフィルムに収めるトリュフォーの欲望が、ブラウスの奥に隠された女の裸体と、裸体を周到に衣服に包み隠そうとする女の羞恥心に向けられていたことは疑う余地が無いように思われるが、一方ペキンパーがフィルムに焼き付けようとしていたものは、そこに在る女の個体を貫通してこちら側へ流入してくる<女そのもの>の本体、われわれがエロスと呼び習わしてきた、圧倒的にリアルな<モノ>の顕現の瞬間ではなかったろうか。

それは本来眼に見えないモノである。だからこそこの圧倒的にリアルなモノ、強烈な力を秘めたモノの流入をフィルムに収める奇跡の為には、一瞬にして衣服を引き裂く強烈な力と、傲然と胸を張る女の勇猛さとが、是が非でも必要であるとペキンパーは考えたのだ。度々ペキンパー作品に出演していた俳優L.Q.ジョーンズをして「彼は同じ作品を14本も撮った。」と言わしめた偉大なるワン・パターン作家サム・ペキンパーにとって、それは欠く事の出来ないひとつの秘儀のようなものだったのである。彼の映画的欲望はひたすら<リアル>(ジャック・ラカン謂うところの“現実界”)に向けられていた。

ペキンパー的眼差しは、天才にだけ許されるような彼だけの特権的所有物ではない。と言うよりむしろ、いまやこの国では日本人全体が、否応無くペキンパー的眼差しを持たざるを得ない状況に突入しているのだ。放射能を絶え間なく(広島型原爆一個分位を毎日、しかもひょっとしたら今後数年に及んで)放出し続ける福島第一原発の存在が、われわれにそれを強いている。

原発は<女=エロス>ではない。それは<エロスに成りきれなかったなにものか>である。(これについてはいずれ詳しく再考したい。)しかしその力は無尽蔵で、エロスのように強烈である。エロスではない、エロス級の怪物が、原子力建屋の一瞬の爆発と圧力抑制室の損傷とともに、白日の下に曝された。

サム・ペキンパーの見ていた世界と酷似した状況が、われわれの日常に出現したのである。原発の暴力は、スロー・モーションでやって来る。青空を優雅にたゆたう白煙の如く、その暴力は5年、10年、15年、あるいはそれ以上という気の遠くなるようなスパンで、われわれの身体に侵食していくのである。

この事実を意識の深みのレベルで、きわめて正確に認識している政治家が、小沢一郎である。なぜなら彼こそは、現実の政治の世界で唯一常にサム・ペキンパー的眼差しを持ち続け、かつサム・ペキンパー的欲望に従って行動してきた、その人なのである。

サム・ペキンパー的強度の事態を打開するには、サム・ペキンパー的強度の眼差しで対抗しなければならないだろう。

「原発の放射能汚染の問題は、ここまで来ると、東電に責任を転嫁しても意味がない。政府が先頭に立って、政府が対応の主体とならねばいかんというのが、私の議論だ。東電はもう、現実何もできないだろう。だから、日一日と悲劇に向かっている。」

「当面は福島の人だが、福島だけではない、このままでは。汚染はどんどん広がるだろう。だから、不安・不満がどんどん高まってきている。もうそこには住めないのだから。ちょっと行って帰ってくる分には大丈夫だが。日本の領土はあの分減ってしまった。あれは黙っていたら、どんどん広がる。東京もアウトになる。ウラン燃料が膨大な量あるのだ。チェルノブイリどころではない。あれの何百倍ものウランがあるのだ。みんなノホホンとしているが、大変な事態なのだ。それは、政府が本当のことを言わないから、皆大丈夫だと思っているのだ。私はそう思っている。 」
(5/27 ウォール・ストリート・ジャーナル小沢一郎インタビュー


現実政治の世界における、サム・ペキンパー的眼差し・欲望とは何か。ペキンパー作品の主人公達は、陰謀渦巻く世界に取り囲まれ、がんじがらめにされて、常に<リアル>から疎外されている。迫害された状態を自覚して生きながら、彼らはいつか<リアル>の側へ突き抜ける機会を窺っている。

中央集権官僚支配の悪政を甘受しながら、それに抵抗するどころか、マスメディアの口車に乗って、事もあろうか官僚制度に立ち向かうべき自分達の代表者たる政治家の方へ石を投げて、溜飲を下げている国民。結果的に自分達の首を絞める中央官僚支配の維持に加担している国民。官僚制度に立ち向かおうとしている政治家と、そうでない政治家の区別がつかない国民。

間に官僚機構の走狗であるマスメディアが挟まって情報操作しているのがその主な要因なのだが、まさに一部の政治的エリート(官僚・財界人・知識人・ジャーナリスト)以外はことごとく<リアル>から疎外され、カレル・ヴァン・ウォルフレンのいわゆる「偽りのリアリティ」を生かされ続けるわれわれ日本人。われわれは皆自覚しているいないに関わらず、ペキンパー映画の主人公のようである。

この社会全体を覆う「偽りのリアリティ」の総体を強烈な眼差しをもって40年来見つめ、そこからの脱出へ国民を先導しようと絶えず自覚し試みてきたのが小沢一郎である。93年に自民党を飛び出して以来、その試みは挫折の繰り返しであったが、そこにはやはり既得権益者達の強い抵抗と、彼の本質を理解しない国民の存在がともに妨げとなっていた。

あのペキンパーの秘儀的瞬間、衣服(この社会における衣服とは何であろう?腐り切ったマスメディアではないのか?)の内に隠されていたリアルが衆目の間に顕現して、人々を幸福で充たす瞬間を夢見ては挫折し続けてきた小沢一郎は、しかし二年前から彼の周辺を襲った検察官僚による狂気の“国策捜査”とそれに追従するマスコミ報道の被害者となることによって、彼自身が国民の視線にとってのある種の<リアル>の象徴になるという、逆説的状況を生んだ。そして奇しくもその事が目盲いていた国民の眼を<リアル>に向かって開かせたのである。国民は小沢一郎を通じて、その先に<リアル>を見ている。

そしてその一方で大震災に次ぐ原発事故という、不幸の怪物のような真に逆説的な
<リアル>の出現。それが今の状況である。


ペキンパー映画の主人公達は、「偽りのリアリティ」を生きる状況を耐え忍びながら、局面が少しでも好転するようにと様々な改革を試みるのであるが、物語の終局、いよいよどんな改革の訴えも“こいつら”には通じないと悟ると、それまで溜め込んだ怒りをやおら爆発してぶち切れ、ケツをまくって見せる。

“お前ら全員殺してオレも死んでやる!”

とばかりに、凄まじい銃撃戦がスクリーン上に展開され、観客はそのカタルシスに魅了される。『戦争のはらわた』という作品では、凄まじい殺し合いのシーンにペキンパーはわざわざアフリカン・ドラム・ビートの音楽を被せ、生命の高揚を高らかに歌い上げてみせるほどのふてぶてしさなのだ.

最後主人公は、死ぬ時もあれば生き残る時もある。しかしいずれにしても「同じ作品を14本も撮った」サム・ペキンパーは、物語の終局において執拗に主人公をぶち切れさせたのである。

この作品世界に執拗に刻んだペキンパーの映画的欲望と、実世界における小沢一郎のこれまでの政治活動を重ねることは、或いは小沢一郎支持者の怒りを買うかもしれない。オレも小沢一郎を「壊し屋」と揶揄するマスコミの論調に同調するつもりは毛頭無いし、彼のこれまでの政界再編を繰り返してきた政治活動を否定するつもりも勿論無い。救いようの無い民主党菅・仙石・岡田一派を末端に追いやる為なら、更なる政界再編もどうぞやってくれ、という考えである。

前日の集会に70人以上が集まったと聞いたときから、不信任案の可決・否決に関わらず、救国連立内閣というプロセスを経るにせよ、今回もそう(政界再編)なるものだと思った。(尤も今後の民主党内の内紛の成り行きによっては、まだその可能性(離党→新党結成)も有るだろうが。)

しかしとにもかくにも、小沢一郎は鳩山由紀夫という人間をパートナーに選んだのである。

そしてその結果、6月2日にペキンパーの新作を観に劇場に足を運んだわれわれは、幕が開くや否や、スクリーンの中でそろそろとドレスのボタンを外している、トリュフォーの手つきを眺めることとなった。



『 突然炎のごとく 』

鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」と述べ、激しく非難した。都内の自宅前で記者団に語った。(中略)

「不信任案(採決の)直前には辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。こんなペテン師まがいのことを首相がやってはいけない」と指摘。「人間としての基本にもとる行為をしようとしているのなら、即刻党の規則の中で首相に辞めていただくように導いていかなければならない」と述べ、両院議員総会を開いて首相に早期退陣を求める考えを示した。

不信任案に賛成した松木謙公前農水政務官ら2人への除籍(除名)処分については「冗談じゃない」と語り、処分は不要との見解を示した。
(6月3日 MSN産経ニュース


鳩山由紀夫は自民・公明に勝利し、菅直人にもほぼ決定的な打撃を与えたが、小沢一郎もまた、あの日は傷を負った。

採決直前の段階で、鳩山の話の詰めの甘さを知った時の小沢一郎の心持ち、慮るべし。“もう鳩山など知らん”とおそらく半分ぐらいは思ったのではないか。その気持ちの乱れがみずからは欠席・棄権、側近議員らには自主投票という対応にそのまま現れているように思える。

わが政界のサム・ペキンパーの15本目(?)の新作は、持ち越しとなった。

それが正解だったかどうかは、今のところまだ分からない。

しかしそれが彼のパートナーの差し金によるものだったにせよ、小沢一郎は偉大なるワン・パターン作家である事を止めたのである。(そして松木兼公氏が、師に代わってペキンパー的ケツまくりを矜持とともに務めあげ、期待を裏切られた観衆の心を慰めた。)その未知の可能性に、今は賭けようではないか。

涙を飲んで怒りを鎮めた小沢一郎の為にも(そして松木兼公と、悪政に苦しむ国民の為にも)、鳩山由紀夫は刺し違えてでも、何が何でも菅直人を早急に政権から引き摺り下ろし、そして小沢政権を誕生させねばならない!


フランソワ・トリュフォーは、何も女のドレスのボタンを、いつもいつもニヤニヤしながら外してばかりいたわけではない。

多くの人がトリュフォーの最高傑作に挙げる『突然炎のごとく』では、自由奔放に生きる気性の激しい女カトリーヌが描かれる。ジュールとジムという二人の青年のあいだを行き来するカトリーヌは、終局その激しい気性そのままに、ジムを乗せた車ごと橋から川に転落してみせるのである。

かつて小沢一郎を道連れに総理を辞任した鳩山由紀夫が、再び激しいカトリーヌと化して、今度は菅直人に襲いかかるのである。

騙された方が勝ち、騙した方が敗北するという、日本本来の古き良き伝統が、久しく社会の片隅に追いやられていた日本本来の姿が、再び陽の目を見るのである。その論法でいけば、騙された鳩山由紀夫も結果小沢一郎を騙していたのであるから、最終的な勝者は小沢一郎でなければならない。

その時には、“ジャパン・アズ・ショージキ”という標語が、あらためて世界ブランドとなるであろう。

菅直人が日本の顔である今は“ジャパン・アズ・ウソツキ”の状態。最悪である。



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2011年5月 7日 (土)

<リアルの復権>へ ― オレ達に『思想』は要らない


週刊ポスト5/6・13号の巻頭特集:ついに「国民の命」まで権力の踏み台に!菅官邸が隠した「被爆データ6500枚」(必読だね)は良くまとまったいい記事であるが、そのポストで同号から新連載の始まった『諸君!』元編集長白川浩司氏による回想録(オンリー・イエスタデイ1989 『諸君!』追想)には、「おや?」という感じの奇妙な“存在の遣る瀬無さ”が紙面から付きまとう。

しかし読み終わった感想を言えば、これは編集氏も意図していなかっただろうが、巻頭特集に照らされている「今、ここ」と、白川氏の回想録が、その隔絶間ゆえに、意外にも鮮やかな対称をなしていると見えた。

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2011年4月29日 (金)

女たちの2011年へ ―


女は居心地の良さを求める生き物だと謂う。

しかしこの言い方にはたいていの場合、常に幾分かの蔑視がそこに含まれているようだ。つまりその一方に“外で日々闘う戦士機能としての男”という対立的優位概念が、暗に含まれているからである。家でテレビを見ながら寝転がり、旨い物を食ってまた寝転がる、”亭主元気で留守がいい”を謳歌する主婦のイメージとつながった言説である。

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2011年4月15日 (金)

4.10 高円寺反原発デモの先にあるもの


先月から徐々に拡がり始めた反原発デモであるが、4月10日(日)には北は北海道から南は沖縄まで全国7箇所でデモが開催され、特に東京・
高円寺で行われたデモには一万五千人(主催者発表)が集まり、しかも若者が多かったのは画期的と言っていいだろう。動画で見るとヒップホップ、パンク、チンドン屋有りの行進で、やはり音楽があると盛り上がる。

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2011年4月 6日 (水)

読売新聞の猿芝居に大笑いだぜ!(地震・津波・原発・増税・大連立で日本破滅のフル・ハウス?)


笑わせるぜ読売新聞。

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2011年3月31日 (木)

読売新聞、原発推進を止める気はサラサラ無いようです。(悪い奴ほど良く眠る、はもうオシマイ。)


30日、フランスの核燃料会社アレバのロベルジョンCEOが汚染水処理の専門家とともに来日、31日にはサルコジ大統領も来日した。

フランスは現在電力の8割近くを原子力で賄う世界一の原発依存大国であり、アレバは日本にも核燃料を輸出している。原発保有数でやはり世界第一位であり、オバマの“クリーンエネルギー”政策の下積極的に原発新規建設を図っているアメリカとともに、世界の二大原発大国(日本を入れて三大国と言えよう)が直接支援に乗り出した訳で、彼らとしても今回の福島原発事故に重大な危機感を抱いている事が伺える。

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2011年3月30日 (水)

被災地東北の人々の表情に見る“百術は一誠に如かず”。


小沢氏が岩手入り 管内閣の原発対応批判
3月28日 asahi.com


民主党の小沢一郎元代表が28日、東日本大震災後初めて地元の岩手県に戻り、県庁で達増拓也知事と会談した。小沢氏は記者団に対し「今回は未曽有の大災害。被害額を出して査定し、補助金をつくるという旧来の災害復旧では5月、6月の話になり、間に合わない。地域の事情にあわせて使えるような国の予算措置が望ましい。私も今の立場でできることは仲間と相談しながらやる」と述べた。


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