大津波2時50分
今更ですが、テレビや新聞の報道が意図的なバイアスをかけずに国民目線に立って真実を公平に伝えている等とまだ漠然とでも信じている人がいるとしたら、それは大津波警報が発信されているさなか、海岸の方へ向かって暢気に車を走らせているようなものかも知れません。もちろん世の中の出来事や社会の情勢に無関心であり続けることも個人の自由なのでありますが、いずれ物事にも限度がある、ということを知ることになるでしょう。
今日はそういう方が当ブログを訪問されることもあるだろうということで、いつもより丁寧に物事を説明する態度で文章を書いてみようと思いました。本来そういうのが得手な性分ではないのですが、その為に文体も変えています。ただいくらネットとはいえ何処の馬の骨かも分からない奴(笑)の長文を読む気はなかなか起きないと思いますので、ところどころでは著名人の方々の生の声に近いツイッター語録を載せています。
驚き、あきれ、失望、憤怒。さまざまな感情がいま、ネット媒体を中心に日本中に飛び交っています。暗黒司法という言葉が新たに生まれ、流布しています。わたしたちは暗黒司法の社会に生きている。そんな暗澹たる思いにだれもが囚われずにいられないような司法判決が、9月26日にありました。
裁判官による証拠に基かない“推認”(たぶん~だろう)に次ぐ“推認”による、石川知裕衆議院議員をはじめ3人の小沢一郎衆議院議員の元秘書に対する驚くべき有罪判決(有罪であったということ以上に、その判決理由がとにかく驚愕!)と、それをほとんど無批判にそのまま伝えるマスメディアの対応は、政治的な党派の別を超えて、“事件”の内実を少しでも理解している人々にとって、一言では言い表せないような強い印象を与えました。何か決定的に破壊的な力がどこかで動いたかのような感覚を、多くの日本人がからだの奥深くに直感するような、集合的体験です。そのような意味において、あの判決は日本中を揺るがす衝撃的な“大地震”のような判決だったと言えるのではないでしょうか。

(※解説・・・形式犯とは、それによって特段誰にも不利益をもたらさず、自分も不当な利益にあずからない、事務的なうっかりミスの類。書類の不届け、書き方間違い、運転免許証の不携帯など。検察とマスコミが二年以上も大騒ぎしている小沢一郎の「政治とカネ」とは、そういうものです。)






茂木健一郎氏でなくても、これが日本で起きていることだとは思いたくなくなるような、そんな司法判決とメディアの報道でした。なぜならわたしたちは子供の頃から日本は先進国だ、人権の尊重を掲げる先進的民主主義国家だと教えられてこれまで生きてきたからです。
あの裁判官もマスメディアの面々も、彼らはそれぞれ社会の中でエリートと目されている人達です。彼らを見て、自分が今子供だとして、自分の将来に希望が持てるでしょうか?自分に今子供がいたとして、明るい未来を語ってやることができるでしょうか?
思うに、先進的民主主義国家(ああ、そんな国に住んでみたいものです!)と後進的ファシズム国家とを峻別する最後の砦が裁判所、司法というものではないでしょうか。どんなに国の権力機関全般が腐敗していても、司法において法の下における公平正義が保たれていれば、わたしたちは最低限の身の安全は確保することが出来ます。つまり誰かからアイツは気に入らないから陥れてやろうということであらぬ犯罪の濡れ衣を着せられそうになっても、証拠が無くてかつ裁判所が公平であれば、有罪判決を受けて社会から抹殺される心配は無い訳です。国家のなかで生きるわれわれ一般市民にとって、司法とは社会的暴力の侵入・破壊から我が身を守ってくれる、無くてはならない防波壁のようなものでしょう。
判決のニュースが流れた直後から「こんな判決は酷い、有り得ない、びっくりだ」と言う声が当然のようにネット上には溢れましたが、この国の新聞・テレビ報道はそれとは真逆の対応を取りました。茂木氏が記者クラブと称しているのは、官庁や政治家の記者会見を排他的に独占してこの国の言論界を支配している、大手新聞社・テレビ局の集まりのことです。この記者クラブの排他性(非オープン性)自体が諸外国に見られないきわめて後進国的な制度であり、メディアと権力の癒着を生み、この国全体をおそろしい退廃に導いている元凶とも言えるのです。
それに加えて、メディアにおけるクロスオーナーシップというもうひとつの大きな問題があります。これは新聞社がテレビやラジオの大株主となっていて、それらの媒体が系列化してしまっていることを指します。こうなるといかようにも情報統制が可能になり、メディアと権力の癒着どころか、メディア自体が巨大な権力になってしまいます。それが野放しになって暴走しているのが、今の日本の現状なのです。彼らは表面上いくら社会正義を唱えていようとも、その核心部分では常に自分達の利権の為に行動します。彼ら記者クラブメディア(新聞・テレビ)こそがこの国の最凶の談合集団なのです。彼らは国民のことなど考えていません。
記者クラブ内では新聞社の方がテレビ局より威張っており、親分格のようですが、実際の“世論”に対する効力としては、いまはテレビの方が大きいでしょう。先日の鉢呂吉雄経産大臣の辞任劇のように、ひとたびテレビが「こいつは怪しからん!」と大声で叫べば、それはその瞬間から既成事実としての“世論”となり、大臣のクビなどいとも簡単に飛びます。彼らは思いのまま、自由自在に国民を操ることが出来ます。そのような危険な巨大権力の存在している国のことを、ファシズム国家と呼ぶのです。
民主党は小沢一郎と鳩山由紀夫が主導していた先の衆院選時のマニフェストにクロスオーナーシップの禁止を掲げ、鳩山政権下で法規制化を目指していましたが、菅政権に代わり片山義博総務大臣になると、あっさり引っ込めてしまいました。いま民主党の中は改革派のグループとそうでないグループに二分しています。ちなみに自民党は法規制化に反対です。
なぜ官僚とメディアの一体となった巨大腐敗権力集団から小沢一郎ばかりが狙われるのかということでは、マスコミ改革・官僚制度改革を彼が主張しているという事実だけでは、上手く説明できないところがあります。そのような政治家は他にもいるからです。これについては色々な観方があるでしょうが、小沢一郎が政治家として有能だから、というのがわたしの考えです。万能ではないと思いますが、いま居る政治家のなかではおそらく圧倒的に有能なのだと思います。巨大権力の側から見れば、だから改革派小沢一郎はとてもこわい、出来れば力を削いでおきたい存在なのでしょう。
しかしいずれにしても、このような巨大権力のなりふり構わぬ横暴をこれ以上許すならば、、今後改革の志(こころざし)のある政治家が表に出てくることは不可能になってしまいます。巨大腐敗権力の言いなりになる政治家ばかりになり、三流国どころか、四流、五流国として結果わたしたち国民の生活は窮乏を極めることになるでしょう。わたしたちはこのことの意味を深く考えねばなりません。
今はまだ低賃金でも何とか職の口にありつけ、スーパーへ行けば安い食材が手に入るかも知れませんが、それすらも困難になるような状況が、すぐそこに迫っているかも知れないのです。腐敗した後進国家はかならずそのような末路を進みます。国内の社会構造は疲弊し、世界経済は危険な綱渡りを続けています。

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暗黒司法と暗黒テレビ
今まで自分達の防波壁だと思っていたものが実はそうではなかったことに、9月26日、わたしたちは気付きました。その日までそこに頑として聳え立ってわたしたちに安心感を与えていた司法という防波壁が、疑惑だらけの司法(違法?)判決という“大地震”の直後、眼の前ですっと跡形も無くなり、わたしたちの視力の及ばない暗黒世界の闇の方へと消えていったのです。辺りいっぺん、茫漠たる何も無い荒野のごとき風景が、突如わたしたちを包みこんだかのようでした。
すると不思議なことが起こりました。司法が暗黒の闇へと去り、ついさっき防波壁が跡形も無く消え去ったばかりのその同じ場所に、あたらしい別の防波壁がひょいと現れたのです。
このあたらしい防波壁はしかし何だかどうも様子が変でした。何かすごく“違和感”を感じるのです。そこでわたしたちはよくよく眼をこすって、もう一度このあたらしい防波壁をしげしげと見つめました。
違和感の理由はすぐに分かりました。この防波壁は、どうやら“わたし達の方に向いている”のです。つまりこちら側に見えているのが、この防壁の外壁なのです。壁の傾斜角の感じなどからもそれと分かるのでした。
壁にはスクリーンのような画面とスピーカーが付いています。そして次々としたり顔のアナウンサーやらコメンテーターやら“識者”やらが画面に現れて、ついさっき暗黒世界の闇へと消えていった司法に代わって、その暗黒判決の“正当性”を、必死になってこちらに向かってがなり立て始めたのです。
その日の晩のNHKの『ニュースウォッチ9』の冒頭第一声は「“天の声”!」
検察が捜査して結局どこにも証拠を見つけれなかった、岩手県と秋田県の公共工事に小沢一郎事務所が業者を指定する“天の声”を発していたという検察の空想話を、登石郁朗(といしいくろう)裁判長がその日の判決でなぜか事実と認定したのですが、NHKの大声はその判決に驚いているのではなく、大喜びでその判決をそのまま国民に喧伝(けんでん)しているのです。

















つまりこの防波壁は、暗黒世界の内側から現れて、わたしたちから暗黒世界を守る為の防波壁だったのです。暗黒テレビです。それは暗黒テレビという名の防波壁だったのです。壁のそこかしこには郵便受けのような小さな穴が開いていて、そこからは各社の新聞が差し出ていました。
するとまた不思議なことが起こりました。ついさっきまでわたしたちがそこに立っていたはずの地面が無くなっていて、わたしたちはいつの間にか海面にぷかぷか浮かんでいるのです。呆気に取られて、みなで顔を見合わせました。そしてみな気付きました。わたしたちに元々陸地は無かったのです。この国は元々暗黒勢力に支配された暗黒勢力の国で、そのことに気付いたものはみな、陸地から放り出されてしまうのです。
「お~い」
誰かが呼ぶ声が聞こえました。
耳を澄ませてみると、どうやら声はわたしたちの足の下の海中深くから聞こえてくるのでした。そこで水の中に顔を突っ込んで覗いて見ると、驚いたことにそこには子供から年寄りまで数え切れないほどたくさんの人達がいて、こちらに向かって呼び掛けているのです。
「あなたたちは誰ですか?」
するとそのなかのひとり、風格のある佇まいの一人の老人が、彼らを代表して話し始めました。
「わしらはな、あの日3月11日、大津波に呑まれて犠牲になった者達の霊なんじゃよ。ここでこうしておるのも、お前達のやって来るのを待っとったからじゃよ。」
そこまで言い終わると、老人とその仲間の人々の姿は、ふっと見えなくなりました。
呪術の完成
さて、このような現状認識を獲得した後には、これまでゆる~く楽しんで観ていたテレビのバラエティー番組さえもふと、これまでとはまったく異なった光景に見えてくることがあります。光が闇に変わり、暗澹(あんたん)の気がその場を充たし始めるのです。
司法が暗黒司法と化し、テレビが暗黒テレビと成り果てたその翌日、早速それはやって来ました。実はテレビの暗黒化においてはこれまでずっと日本テレビ系列がその先導役、リーダー格だったのですが、ここ数年はテレビ朝日系列がその役割を担っています。ですからやはり「発端」はテレビ朝日において「契機」することが、「理(ことわり)」として自然の成り行きなのです。
暗黒勢力はどのような過程を経るにせよ、決壊しなければならないでしょう。9・26の判決は、その始まりを告げる大地震なのです。大地震は大津波を引き起こすでしょう。大津波はどこにやってくるでしょうか。テレビは国民を欺いて暗黒勢力を国民の眼から覆い隠し、自分達の身を守る為の暗黒勢力の防波壁です。大津波は先ずその防波壁に押し寄せてそれを破壊せねばならないのが道理でしょう。
しかしその前にまず「メタファー」としての「儀礼」的大津波が必要とテレビ自身が考えたようです。つまり大津波を自分達の方へ招き寄せるための「祈祷(きとう)」のようなものです。
その「祈祷」は陸山会裁判のすぐ翌日、9月27日テレビ朝日の『「ぷっ」すま』というバラエティー番組で丁重に執り行われました。“地震”からあんまり間を空けると、「祈祷」の効果が薄くなってしまうのです。
この日この番組は放送13周年を機にこの10月から金曜日に移転することを記念しての特別生放送でした。そして生放送ならではの企画としてタレントの江頭2:50が、番組開始時に自宅をスタートして、マラソンで生放送中のスタジオまで番組終了前までにたどり着くことができるか?という視聴者を惹き付けるためのひとつのゲームを行っていました。いわゆる「24時間テレビフルマラソン」のパロディのようなゲームなのですが、後でこれは二重のパロディになっていたことが分かります。
ここで江頭2:50という名前が重要になります。「祈祷」のような「呪術」的儀式においては、そうした要素が無視できないのです。
江というのは“いりえ”です。湾の奥まったところです。すると江頭とは、湾のいちばん奥まったところのその先端、岸に押し寄せてきた津波がその力を一気に凝集させて、あの恐ろしい巨大な大津波と化して襲いかかって来る、その最突端ということになります。そして“江頭2時50分”となるわけですから、これはもう正に、これから押し寄せる大津波の到来を告げる“大津波警報”の如き「呪術」的「メタファー」として、これほど相応しい名前は他に無いと言えるほどなのです。
かてて加えて、彼の芸風も他にこれ以上の適任者は見当たらないだろうというくらい、きわめて大津波的です。平和な番組の進行を不意に押し破って黒タイツ一枚で画面の隅から登場したかと思うと、端から端まで猛スピードで走りまくって狂的に暴れ回り、その場の調和を一気にズタズタに引き裂いた後スッとまた引きあげるというのが、彼の役割だからです。
するとここまでは“2時50分”という予告めいた「破滅」のしるしが時間内に到着するかどうかというパロディ的仮想ゲームをテレビみずからが楽しんでいる、という図式ですが、これだけではまだ「呪術」としては弱いでしょう。先ほど述べたふたつめの"仕掛け”がテレビみずからの手で用意されなければなりません。
画面は街なかをテレビ局目掛けて懸命に走る江頭2:50を中継で追います。しかし生中継の放送時間内にはとうとう間に合いそうにありません。悔しそうに肩を落とす江頭。番組のエンディング・テロップが流れ出します。「破滅」はやって来なかった。- しかし誰もがそう思った次の瞬間、スタジオの最後部の入り口からガッツポーズの江頭2:50が登場、皆が唖然とする中、スタジオ中央の「FINISH」と書かれたゴールテープを飄々と切って見せたのです。そしていつもの通り暴れまくる江頭。
つまり生中継と思わせていた江頭の走りの映像がまったくの嘘で、実は事前収録の映像であり、江頭2:50は始めからスタジオの陰で待機していたのです。映像の恣意(しい)的編集・加工というテレビの特性を遊戯にした第二のパロディ、第二の“仕掛け”が最後に用意されていたわけですが、これが「呪術」的には非常に重要な意味を持ちます。
映像を自在に編集加工することによって、真(まこと)を嘘と偽り、嘘を真と偽ることもいかようにも可能であるのがテレビの持つ特質であり、ひいては今日の混迷した社会状況を招いた凶器性に他ならないわけですが、このみずからの備える凶器性も、彼らテレビマンにとっては自分達が腹を抱えて笑うためのひとつの遊戯道具です。そのことは別に良いでしょう。バラエティーはバラエティーです。しかしここで「呪術」的に非常に重要なことが起こっているのです。
いったんは回避されたかに見えた「破滅」が彼ら自身の業(ごう)とも言える「恣意的編集」によって成就されたのです。これは呪術的にも儀礼的にも非常に高度な形態です。呪術の中の最高形態、因果応報をこれほどまでに見事に達成した類例はおそらく稀でしょう。そして見事などんでん返しの寸劇も、儀礼的に最高度のものである事を意味します。もし世界各国古今東西の呪術的儀礼を調査した経験を持つ文化人類学者がこの番組を観ていたら、椅子から飛び上がって「おお、これは凄い!」と感嘆の声を挙げたに違いありません。
パロディはそれ自体に潜在的な呪術性を内包しています。呪術の始まりはパロディからと言ってもいいかも知れません。普通は潜在性のままで終わるのですが、巧妙な二重仕掛けのパロディによってパロディそのものが解体され、外皮が引き裂かれて、内側から強烈な力を秘めた呪術的な力能が解放されるのです。
番組の最後、それまで出演タレント達の輪の内側に納まっていたカメラの視界がおもむろにその外延に切り替わり、スタジオのほぼ全体を映し出します。するとそこにはタレントの輪の外側に今まで潜んでいた番組の制作社員・制作スタッフの姿が何十人も一挙に現れて、皆でこちらへ向かって陽気に両手を振り出します。つまりその事(最後に舞台裏を見せる)自体が「だってこれテレビだもーん」と言うが如き大団円的なオチな訳であり、なごんだ空気感が演出される中、カメラが徐々に引いていくところで番組は終わりました。
しかしこの演出もまた「呪術」の側の視点からみれば、決定的で致命的なものと映るでしょう。「呪術」は最後、その呪うべき対象の全体を、はっきりとその眼に捉えることに成功したのです。
最後カメラは引いていました。おそらく呪いはマスメディアの中核全体に及ぶでしょう。『「ぷっ」すま』の「ぷっ」は破裂音です。
好事魔多しというのはこういうことでしょうか。その前日にこの日本をまんまと暗黒勢力の帝国に仕立て上げたかに見えた彼らは、少々有頂天になり過ぎていたようです。
悪魔的犯罪者集団暗黒テレビは、これからその所業の報いを徹底的に受けることになるでしょう。それが比較的平和裡のうちに国民的同意に基いた解体的縮小として行われるのか、あるいは壮絶な血の海の惨劇として行われるのかは、まだ分かりません。わたしとしては前者である事を願っていますが、それもこれからの彼ら自身の身の処し方次第でしょう。
これから彼らには大津波が襲ってきます。そしてその津波の上で誇り高き雄叫びを上げているのは、あの3.11で犠牲になった多くの方々と、彼らと肩を組んだわたしたちなのです。
10月8日(土) 大阪御堂筋市民デモ 新町北公園~
趣旨:小沢一郎/復権支援、偏向報道、冤罪に加担の
マスコミ、検察、を糾弾する。
主催:市民が訴える「大阪宣言の会」
10月9日(日) 渋谷市民デモ 宮下公園~
趣旨:陸山会事件不当判決糾弾デモ 「推認で有罪」の不法判決を糺す
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