カテゴリー「エロス/アンチ・エロス」の記事

2014年12月11日 (木)

荒廃国から・・・

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自業自得だが、ウクライナ中東において謀略と暴虐の限りを働いているアメリカの国際的信用度が失墜し、相対的にプーチン・ロシアの信用度が高まっている。

とりわけ大きいのが、ロシアと中国の接近である。アメリカの強引なロシア制裁が、結果としてロシアと中国の蜜月関係を促進させた形だ。5月のロシアから中国への総額およそ4000億ドル超の長期天然ガス供給契約の調印、7月にはBRICSが新開発銀行設立に合意。10月には1500億元の通貨スワップ協定にも調印し、これにより国際エネルギー取引の歴史上初めて、ドル無し元建てでの決済が両国間でなされた。

これは最初の一歩に過ぎないが、これら一連の動きは今後世界的なドル離れ、アメリカの一極覇権主義的世界支配の道具に堕しているIMF・世銀離れの流れを加速させていくだろう。(しかも国家主席就任前より米戦争屋勢力に近しいと思われていた習近平が、今までが面従腹背で機を窺っていたのか、それともアメリカの極悪非道なやり方に愛想が尽きたのかは分からぬが、ここに来て親露にシフトしたことの意義は、日本にとっても少なくない。)

実際ウクライナのネオナチ・クーデター政権やイスラム国(ISIS)の暴虐の裏でヌランドやらマケインやらがコソコソ暗躍していたことが次々と暴露されて、国際社会がドン引きし始め、中露の接近(加えてドイツ=EUの離反の兆し)でみずからの立場が危うくなり始めると、宗主国アメリカ様の焦りぶりは尋常ではないようで、一番の隷属国家の人心だけは引き留めておこうと、子飼いの奴隷マスメディアによる情報統制を強めるとともに、奴隷コメンテーター達にも一層激しくハッパをかけ始めたようである。

さあ唱えろ、刷り込め。何度でも。前より激しく・・・
「中国きら~い、中国きら~い」
「ロシアこわ~い、ロシアこわ~い」

小笠原諸島近海で以前から散見せられていたらしい中国籍のサンゴ密漁船が、この10月以降なぜか急激にその数を増やした。と同時にテレビの報道・情報番組は「サンゴが・・・、サンゴが・・・、サンゴが・・・」と連日大変熱心な取り上げ方で、日本の領海を他国密漁船の横行から保護しようというその報道姿勢は大変良い心掛けであるが、マスコミも普段このぐらいの熱心さで内政問題にも当たってくれたらなあと思ったものである。

オレがこのサンゴ密漁船のニュースを最初にテレビで見たのは10月24日の『報道ステーション』で、その日のゲストは外交評論家の岡本行夫であった。中国船籍の密漁船が増え、このままでは貴重な海底資源が破壊されてしまう危惧がある事、すでに逮捕者も出ているが、
海上保安庁は巡視船を東シナ海に重点配備しているので現状では巡視船の数が足らず、政府は対策を講じる必要がある・・・等々と、元エリート外交官らしいいつもの落着いた口調で、坦々と解説を加えていたのだが、持ち時間がそろそろ終了して次のニュースに移ろうか・・・という丁度その時に、何を思ったのか急に「中国ってのはヒドイんですよ!」(“中国船”でない点に注意)とあらためて身を乗り出してまくし立てたので、こちらがビックリしてしまった。

「こーんな大きな船で来て、ゴッソリ持って行くんですから!」と続けた訳だが、おそらく持ち時間終了直前になって、自分の仕事振りが御主人様から見て不充分だと思われはしないかと、急に不安に駆られたのであろう。

この岡本の普段とは微妙に異なる躍起ぶりから見ても、近況奴隷どもの尻を叱咤しているのであろう彼らの御主人様の焦りが窺い知れるのだが、岡本よりも奴隷としてのキャリアの浅い成り上がり奴隷の弁護士・八代英輝などは、『ひるおび!』でこれはちょっとハッキリ覚えていないが確かG7の話を皆でしていた時でなかったかと思うが、やはり前後の会話の脈略にまったく関係ないタイミングで急に思い詰めた表情で席から身を乗り出し、「ひとりすごくイヤな奴がいるんです。ラブロフって奴なんですけど!」と絶叫して周囲を驚かせ、司会の恵に「今なんで急にテンション高くなったんですか?」とたしなめられている滑稽さである。

「先生ぼくうんこ漏れそうです。トイレ行ってもいいですか?」じゃあるまいし、それを言うのが与えられたミッションだったのであろうが、後で御主人様に叱られる場面を想像しつつその台詞のことだけを思い詰めて考えているから、おかしなタイミングになるのである。

かくもかように奴隷という生き物は、高額な報酬と引き換えに悪魔に魂を売り渡したその惨めな生き様の醜態を、日々われわれの前に晒してくれているが、その奴隷の語る法螺(ほら)話をテレビの前で頷きながらありがたく拝聴している一般国民は、奴隷以下の家畜存在だということになる。

密漁船のニュースをやること自体は別にいいが、NHKの『ニュースウォッチ9』は、APECで僅か25分間の中身に乏しいものだったにしろ安倍晋三と習近平との間で日中首脳会談が2年半ぶりに実現した11月10日、その首脳会談のニュースの直後に、わざわざそれに水を差すようにまたサンゴ密漁船のニュースを、しかもいつも以上に執拗に念入りに、メーンキャスターの大越健介がヘリで小笠原上空を飛んだり、中国の浙江省や福建省の漁港からのレポートを交えたりしてやっているのを見ると、この放送局は一体日中関係をどうしたいと思っているのだろう、と訝しんでしまう。つまりサンゴを守ることが彼らの第一義の目的ではなく、他の別な理由の為にサンゴ密漁船を追いかけているように見えてきてしまうのだ・・・。

家畜を家畜たらしめるには思考力を奪うのが一番の方法だ。それには仮想敵を与えてやるのが最も良い。繰り返し繰り返し刷り込ませてやれば、いずれ家畜は仮想敵に向かって突進していくだろう。それが自己実現の方途だと信じて。自分が家畜だとも気付かずに・・・。





田中宇氏が『プーチンを強め、米国を弱めるウクライナ騒動』とブログ記事に題していたのは、3月9日の時点である。その時は(果たしてそうなるのかな・・・)と 半信半疑の感であったのが正直なところだった(日本の偏向マスメディアの伝える報道は、まるでその真逆のような印象報道ばかりであったから・・・)が、その後世界は事実その通りに、しかも目覚ましいスピードで動き出している。

そのなかでこの日本だけがなにか異質な空間を形成し、滞留しているかのような感覚なのである。あたかも比重の異なる気体の二層分離形成の如く、重く澱んで凝り固まり滞留しようとする気層と、その外周で活性化し、烈しく流動し始めた気層との、著しい分離・隔絶状況の呆然たる対照である。

日本は宗主国アメリカの奴隷マスメディアのコントロールする、情報統制国家である。宗主国の政治・経済的劣化と歩を合わせるかの如く、その劣化の進行度は今や猖獗(しょうけつ)を極めている。安倍晋三内閣発足直後から、政権と大手マスメディアが結託し、「アベノミクス」という造語の下に、実態の無い、というよりむしろ実態隠しのまさに全的な「広告代理店政治」が展開された。これはかつて類例のない、もはや政治とも呼べないような類の代物であり、小泉時代でもこれ程ひどくはなかった。

これは実に計画的なものであり、それはまず第一に「安倍政権は経済政策政権であり、景気と雇用を立て直すべく志向された政権である」というウソの徹底した刷り込みである。

その為に彼らが利用したのが株価である。アベノミクスの第一の矢とされたのは、「大胆な金融政策」であるが、金融緩和の本来の目的とは、それにより民間金融機関の貸出額を増大させて、景気を好転させることである。そして実際日本のマネタリーベースは2013年の1年間で45%増加し、日銀の目標通り200兆円を
超えた。しかしその大部分は民間貸出つまり民間設備投資の増加には繋がらず、したがって実体経済は思うようには好転しなかった。一方それは円安誘導の直接効果としての資産バブルすなわち株価の上昇となって現われる。

しかしこれらの結果は安倍政権が発足した2012年末の時点で、すでに充分に予測することが出来たものである。すでに日本は10年以上も前からいわゆる「流動性の罠」の状態に陥っているという指摘もあるが、実際金利面の要因以上に大きいのが、日本経済全体を覆っている根本問題としての「リスク要因」である。

一般家計の給与所得水準が長らくダラ下がりの傾向で、非正規雇用も増え、人口減少には歯止めがかからず、国の社会保障制度は信頼が薄れて、将来の先行き不安から国内市場全体の需要が先細り傾向にある為に、企業も個人もお金を使いたくても使えない状態に在るというのが、今の日本の根本問題なのである。これらの「リスク要因」をひとつひとつ取り除き解決していくことこそが政治の役割であり、それなしに日銀がいくらジャブジャブ市場に金を流したところで、企業は設備投資を控えるし、実体経済が好転する訳がない。消費増税後ガタ落ちしたのは当然である。 

一方株価は上昇する。政府とマスメディアは当初から、この株価上昇を「アベノミクス」というイリュージョンを大衆に信じ込ませる為のプロパガンダの道具として、最大限に利用した。

昼夜を問わずテレビの画面には株価指標の動向を見てほくそ笑む街場の個人投資家の表情が連日映し出され、それと並行してウソも百遍言えばホントになる、とばかりに「景気が良くなった」「景気が良くなった」という刷り込みが報道・情報・バラエティー番組を問わずCMでも、2013年春当時流れていたサントリー『ボス・ブラック』のCMでは、「この惑星の住人は、少し景気が良くなると、すぐ調子に乗る」と、嘲笑を加味しつつの早業の既成事実化である。

マッカーサーを想起させるパイプを咥えた西洋男の顔のイラストに“BOSS”と冠したこの缶コーヒーのCMで、宇宙人ジョーンズのうそぶく「この惑星」とは、勿論この日本のことなのであり、「この惑星そろそろ滅ぼすか」「いや、まだだ」などとやりながらジョーンズは毎回露悪的な変態をして見せるわけであるが、パチンコマルハンの日の丸凌辱CMほど露骨ではないにせよ、電通のいわば視聴者に向けてニヤつきながら精液をすっ飛ばしているような公開オナニーのようなものである。
そしてこの公衆の面前で醜いイキ顔を晒すしか能の無い五流黒魔術集団・電通に、丸ごと牛耳られているのが日本のマスメディアという訳だ。

第二、第三の矢については言わずもがな。「機動的な」財政出動と言いながらやっているのは旧態依然の公共設備投資ばかりであり、それでなくとも震災復興と東京オリンピック需要で人材不足と原価高騰に苛まれている建設業界に追い打ちをかけ、却って地方公共事業や民間住宅設備投資等にブレーキをかけている有様だし、「成長戦略」についてはまだ何もしていないが今後の目玉は非正規雇用拡大の為の法改正と法人税減税で、これまたパソナと大企業を喜ばすだけである。

そしてこの政権の正体を如実に露わにした極めつけが、10月31日の日銀による追加金融緩和の発表である。すでに金融緩和が景気の好転に寄与する効果は極めて限定的であることは、この二年弱の期間で証明されている。しかもこの時点で、円安進行
による燃料価格と原材料価格の高騰が消費者物価の上昇をもたらし、消費税増税とのダブルパンチで、大規模金融緩和の弊害がハッキリと中小企業と庶民の生活に襲いかかっていたのである。そこに更に大幅に追加金融緩和するというのである。

これはFRBの肩代わり策であり、「アベノミクス」イリュージョンの生命線である株価浮揚策そのものであり、この追加金融緩和の決定はハナから実体経済の好転を期待して行われたものではないのではないか、と疑われても仕方が無い。中小企業と庶民はもっと苦しめ、という確信犯なのである。それとも黒田は本気で「期待形成のモメンタムを維持」すれば実体経済が好転するだろうなどと、いまだに信じているのか?すでに円はこの決定時の1ドル109円台から12月5日には120円台に下落した。今後もさらに下落していくだろう。

2015年度末の日銀のマネタリーベース目標額は355兆円となった。景気後退局面のなか、札だけが更に猛烈な勢いでジャブジャブと刷られ、FRBは量的金融緩和の終了に続き利上げを検討、という異様な光景が眼の前に現出しつつある。ここまで来れば、「アベノミクス」などというまがいものの正体が何で、一体誰の為に機動しているのか気が付かなければ嘘である。

安倍政権が経済政策政権であるとするならば、その経済政策とは「一般家計からグローバル大企業・大資本・富裕層への再配分政策」なのであり、それはこの総選挙で自公政権が信任されれば、今後もさらに強化され継続される。安倍自身がいまだ選挙戦において「この道しかない」と強弁しているのである。

「自分の処では景気が良くなったという実感は“まだ”無い」などと言っているうちは、“まだ”マスメディアの洗脳術の内に縛られているのであって、そんなものはいくら待っていても永遠にやって来ない。永遠に与えられることのない架空のアメを夢見させられながら、虚空に向けて口をぽかんと開けている、家畜の群れだ。

そしてその家畜の耳に狙いを定めて、またあの我慢ならない嬌声が飛んでくるのだ。子供向けの紙芝居のような口調が、それだけでも充分耳障りなNHK『ニュースウォッチ9』のナレーションが、黒田電撃追加金融緩和発表のその日、お祭り気分の浮かれた口調でそのニュースを伝え出し、株式市場はフィーバーだ、日経平均の終値は前日から755円高の16,413円だ、およそ7年振りの高値更新だ、とはしゃぎまくった果てに、シメは大入り袋を配られた証券会社だか証券取引所の社員達の上気した表情の笑い合うカットだ。取って付けたような後段の解説などは実はどうでもいいのだ。家畜の目と耳に何が残るか、計算ずくで構成しているのである。

そしてどういう理由なのかは知らないが、12月8日、7-9月期のGDPの改定値が公表され、大方の予想を裏切り年率換算でマイナス1.6%からマイナス1.9%に更に下方修正されたというこの重要なニュースの場合は、『ニュースウォッチ9』でもその前の7時台のニュースでも封殺されるのである。

NHKは正真正銘の悪魔の集団である。皆殺しにしても殺し足りないほどに底無しに腐りきった悪魔集団、それがいまのNHKだ。




マスメディアの作り為す抑圧された言論空間が、重苦しい滞留感となってわれわれを取り囲み、外周から隔絶させている。その内積された目に見えない圧力が、突き破ってやりたくなるような衝動を、われわれに感じさせるのである。それは今はまだ微細な胎動のごとき状態を保ちながら、しかし確実にわれわれの内的感覚にその存在を示している。

この男は終局暴力を肯定しているのではないか?とこのブログを以前から読んで呉れていた人は、ここであらためて疑いを持つかも知れない。オレは2012年の総選挙の後最初に書いたブログ記事で、深沢七郎について触れながら、日本の戦後の言論空間はこれまでちょっと上品過ぎたのではないか、もっと「ゲヒン」であるべきだ、というような考えを述べさせてもらった。今また再びそのことを考えているのである。少し熟考してみたいので、再び中沢新一の『野生の科学』の、「デリケートな分類」という深沢七郎論の主要部分をここに転載してみよう。


「未開人と農民は分類を好む」というのは、ある有名な人類学者のことばであるが、深沢七郎もまるでその未開人や農民のように、たえず世界を細かく分類しながら生きていたようなところがある。

その分類の仕方はとてもデリケートで、しかも絶対的な正確さをもって遂行されていたので、そのやり方に慣れていない人は、目の前で手際よく世界が分類されていく様子を見ては、ただ呆然とするばかりだった。それはたとえばこんな風におこなわれる。


武田泰淳先生のお宅へ行った時だった。

「野球は好きですか?」

ときかれた。

「野球は嫌いです。上品すぎて」

と、正直にお答えした。

「そうかなあ、上品すぎるかなあ」

・・・

「レスリングなどは好きですか?」

と、奥さんがおっしゃった。

「あれは、乱暴だから、嫌いです」

と答えたが、好きなものを云わなければいけないと思ったので、

「スポーツでは、やっぱり、ギターが好きです、ゲヒンでいいですね」

と云うと、

「スポーツですか? ギターは」

と、ききかえされたので、まずいことを云っちやつたものだと後悔した。

(「言わなければよかったのに日記」)


この会話には、深沢七郎の実践している世界の分類学の、重要な特徴がすべてしめされている。

野球は上品すぎて、好きになれない。野球はサッカーなどと違って、プレーヤー同士の身体は、いつも十分な距離をもって分離されている。ボールも直接足で蹴ったり、手でつかんだりするのでなく、バットで打ち、グローブでつかむ。野球ではすべての行為が、道具によって媒介されていて、身体の直接性はできるだけ上品に制御されている。だから、野球は上品すぎるのであり、ことばの制御に人生を賭けている文士や詩人などは好むかもしれないが、逆にそこが深沢七郎にはつまらないスポーツと思えるのである。

その逆にレスリングには媒介が少なすぎる。身体と身体が直接激突しあい、相撲の場合のような儀式性や形式性が乏しくて、身体の動き回れる範囲に加えられる制限が、極端に少ない。形式性が乏しいと、そこには身体を律する論理性が乏しいということになるし、あとで言うように音楽性が乏しいことになる。そんなやりかたでは、スポーツが限りなく喧嘩に近づいていってしまう。その意味で、レスリングは乱暴で、趣味に合わない、と言うのであろう。

だから「スポーツと言うならギター」なのである。ギターを弾く指の動きを、深沢七郎は「スポーツと同じ」と言っている。指が直接に弦を弾いて音を出すのがギターという楽器である。たしかにギター演奏をしている人は、地面を直接に蹴り立てて走る短距離走者や、リズムをつけて地面を蹴っていく三段跳びの選手や、ボールを直接に足で受けて思ったところに正確に蹴りだすサッカー選手の身体がしていることと同じことを、指先でやっている。物質世界(楽器のこと)に直接身体の一部をこすりつけるギター演奏は、その意味では、まぎれもなくスポーツの仲間なのである。

しかし、ギターは物質との間にたくさん媒介を挿入する野球のように「上品すぎない」し、媒介と形式性が乏しいレスリングのように乱暴でもなく、人の知性と身体の動きとが、ちょうどよい近さとバランスで媒介されながら触れ合っている。だからこそ、ギターは「ゲヒン」で、すばらしい楽器なのである。深沢七郎の「ゲヒン」という分類の範噂は、おそろしくデリケートで深い内容をもっている。

深沢七郎によると、ピアノは上品すぎて、つまらない楽器である。なにしろピアノは最初から調律されている弦を、ハンマーで叩いて、音楽を出すのであるから、土台からして知的で面白みに欠ける。これにたいしてヴァイオリンは弦をこすって音を出すという点では、ピアノよりもはるかにエロチックで「ゲヒン」である。

しかし深沢七郎のデリケートな感覚からすると、「こする」よりもギターのように「はじく」楽器のほうが、出てくる音に粒子性があって、より好ましい。それにヴァイオリンは早くからクラシック音楽家に目をつけられて、上品な曲ばかり演奏する楽器に洗練されてしまった。そこへいくとギターの名曲などは、ほとんどすべてが酒場で演奏され、それに合わせてフラメンコダンサーが踊るための音楽である。エスタブリッシュすることを拒否するギター。いつまでも「ゲヒン」のままでいようとするギターは、それゆえ深沢七郎の分類学において、最高のランクに位置づけられることになる。


(「デリケートな分類」(『野生の科学』)より、部分)



つまり深沢七郎は、「上品」と「乱暴」のあいだに、「ゲヒン」を中立させている。現在のマスメディア言論は、大小種々のプレスコードにがんじがらめになっていて、テレビのバラエティー番組でさえも、「上品」な言論ばかりだ。しかもそれは「乱暴」による支配をその内側に秘め持った「上品」なのであり、結果「乱暴」のカモフラージュとしての「上品」という、非生産的な、抑圧され滞留する重苦しい空間を作り為している。

一方後発のネット言論の方はどうであろうか。その自由度はマスメディア空間よりも圧倒的に高いし、情報量も多く、可能性は無限とも思えるほどだが、しかし現状はその精神性においてやはり「上品」の域を出ていないものがほとんどなのではないだろうか?つまりいつの間にか無意識の精神的集合的プレスコードの如きものが形成されて、発言者を自発的に抑圧するのだ。そこでは「媒介が多過ぎる」。

そして一方ネット言論では「乱暴」で幼稚な言論もまた多いというのも事実だ。「乱暴」を「上品」が非難し、それにまた「乱暴」がやり返す・・・。もちろん批評の応酬というのは言論においてあって然るべきだが、その内容を吟味してみると、マスメディア空間の場合とではその関係性こそ微妙に異なるものの、やはり「上品」と「乱暴」との形成する非生産的空間がその主流を為しているように思える。「ゲヒン」というのは、やはりなかなかデリケートで難しいもののようだ。

阿修羅掲示板は、2012年の衆議院選挙以降、やはり少し元気が無くなったように思う。直後は不正選挙ネタで沸いたが、しかしこの問題自体がそれへの接し方で態度を二分するものでもある。政治板のなんとなくの減衰と相対して、ランキング上位に常に目立つようになって来たのがカルト板を独壇場とするポスト米英時代氏の投稿だが、ポスト氏の言論は深沢七郎的に実に「ゲヒン」である。

それはスケベ親父ネタやギャグが多いという理由だけではなく、氏の文体が深沢七郎的に“音楽的”である、という理由にも依拠している。氏の文章については阿修羅掲示板を参照してもらうとして、深沢七郎文学の持つ音楽性については、中沢は以下のような深沢の会話表現のなかにその典型があるとする。


甲州方言の言い回しは、がいして簡略だが、反復が多くてくどいところがある。その特徴は、深沢七郎の作品のいたるところにあらわれているが、とくに『笛吹川』のような作品では、そのことがまるで小説の主題ででもあるかのように、いきいきと活写されている。

「わしゃ、西山の湯に行かせてもらいてえよう」

と云った。定平が黙っているとおけいはまた、

「わしゃ、ボコが欲しいよう、西山の湯へ行けばボコが出来るかも知れんから」

と云うのである。定平はおけいが甲府の方ばかりを眺めているわけが始めて解ったのだった。(甲府の方を見ていると思ったら、西の空を眺めていたのだ)と思ったので、

「行って来ればいいじゃねえか、ひと月ぐらい」

と云うと、おけいはにっこりして、

「ようごいすかねえ」

と念を押した。下を向いたまま、

「わしゃボコが欲しいよう、ボコがねえからあんなことを云われて、いやだよう」

と云った。また、

「ボコがなきゃ困るよう」

と、くどく云うのである。   (『笛吹川』)

・・・・・・ひとつのフレーズが、そのままで、あるいは少しだけ変形されて、何回も繰り返されているうちに、そこには自然に音楽が発生する。


(「デリケートな分類」(同上)より、部分)



2012年衆議院選挙の終了後、言論空間はもっと「ゲヒン」にならなければならないのではないか、と考えていたオレとすれば、ポスト氏のその後の精力的な御活躍はまさに我が意を得たり、というか至極当然だろうという感じなのであるが、2012年衆議院選挙における巨大不正選挙という、ある種われわれの蓄積した平常生活実感を超えるものとして出現した超越的な暴力性のようなものに対処する為の技芸として、氏の音楽的「ゲヒン」さを備えた文体が他者に優って持続的な有効性を維持し続けたという事には、なにか意味があるのである。

殊にウクライナ詐欺でもイスラム国詐欺でも香港デモ詐欺でもアレもコレも誰でも中学生でも過去問レベルで5秒で正解が導き出せる「またお前かー」の法則(笑)を打ち立てた功績は多大である。つまり経験則と直観をほとんど無媒介に近い(厳密にはマスコミという反面教師のフィルターを媒介する)方法でダイレクトに接続するそのやり口が、「乱暴」ギリギリに「ゲヒン」なのである。

「ひとつのフレーズが、そのままで、あるいは少しだけ変形されて、何回も繰り返されているうちに、そこには自然に音楽が発生する。」 隔絶され抑圧され滞留していた空間のなかから、微細な胎動の如きものが生じ、やがてそれは繰り返し繰り返されるフレージングのさざ波となってモチーフを形成し、次第に大きなうねりとなっていく・・・。「ゲヒン」のウェーブだ。しかしそのウェーブはマス・レベルにおいてはいまだ声無き声、未出の声なのである。何かがまだここには足りないような気がする。主旋律を貫いて屹立する、烈しいビートのようなものが・・・。




ポスト米英時代氏と並行してこの間オレがその発信に注目し続けていた人物がもう一人いる。2012年総選挙後早々に「俺の前で不正選挙の話をするな」とばかりに阿修羅との訣別宣言をしてこんにちに至る、誰あろう山崎行太郎氏その人である。

山崎氏が一連のSTAP細胞問題で終始一貫して展開していたのは、凡庸な「科学主義」者達の「イデオロギー論」からのバッシングに対する、「科学」への「存在論」的思考からの全的擁護であった。多くの日和見的知識人が沈黙するか世論迎合的発言に終始するなかで、氏はこの問題に果敢にダイブし、そしてわれわれを瞠目させたのである。その孤高かつ勇猛果敢な言動を内側で衝き動かしていたのは、社会全体を覆い尽くす単純で安っぽい「倫理」や「道徳」を振りかざす思想的退廃への、烈しい嫌悪である。氏の立場からしてみれば、不正選挙について云々することなども、ある種の思考停止への退廃として映っていたのだろう。

合理主義とは何か?合理主義も一種の非合理主義である。つまり、合理主義も、「主義」であるという点で、「非合理主義」なのである。これは、科学と科学主義の差異についても言える。以下は、小生の処女作『小林秀雄とベルグソン』より 。「矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのである。つまり矛盾に直面しない思考とは、中途半端な思考であり、いわば矛盾することを恐れて、問題を回避した思考なのだ。」・・・。

2014.11.03 哲学者=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』より、部分)



「安っぽい倫理主義」とは何か?単純素朴な道徳主義である。文化のダイナミズムが衰え、文化の生命力が衰退すると、必ず、「安っぽい倫理主義」が蔓延る。そして幼稚=稚拙な思想や思想家が蔓延る。今の日本が、まさにそうである。「悪」や「生命力」「自然」と向き合う精神が欠如し、単純な「倫理」や「道徳」を振りかざし始める。

・・・・・・・

「イデオロギーから存在論へ」ということである。物事を「善悪の尺度」でしか見ないイデオロギー的思考は貧しい思考である。ニーチェ的な「善悪の彼岸」的思考こそ、本物の思考(存在論的思考)であろう。

2014・11・26 同上より、部分)



ここには、ポスト米英時代氏の言説に欠けていたものを充たす為の重要な鍵が、示唆されている。ポスト氏の言説は素晴らしく素敵に小市民的(笑)に「ゲヒン」だし、今のままで行って欲しいと思うが、しかしこの「ゲヒン」という語法には、深沢七郎的な、“魔術”的ともいうべき逆説が秘められているのである。 「ゲヒン」とは、つまり“ elegant な violence ”の謂いなのである。

「上品」は媒介が多過ぎて、表面的にはもっともらしいけど何だかウソっぽくて生命力に欠ける。逆に媒介がほとんど無くて直接的に暴力的な「乱暴」も、非生産的であるという点では、「上品」と似たようなものである。しかしその中間に深沢七郎は「ゲヒン」というカテゴリーを“中立”させる。

こんにちこの日本でこの“中立”という言葉ほど、その言葉の本来の意義から疎外されている言葉もないのではないか、と思うほどである。- いずれにも偏らずに中正の立場をとること。いずれにも味方せず、いずれにも敵対しないこと(広辞苑)。ここから派生してくるのは、日和見的な、当事者意識の欠落した事なかれ主義の、スタティックな形態であろう。

しかしそうではない。本来“中立”とは、文字通り「中に立てる」、すなわち未生のカオスのなかから存在の極点としての中心を屹立させる、極めて「存在論」的にアクティブでダイナミックな仕業のことを意味するものなのである。

お茶を立てる。庭を立てる。おそらくわれわれ日本人にとってこの「立てる」という仕業こそが、中世より古代、そして「記紀」編纂以前のはるか先史時代を貫いて、その集合的「存在論」的思考の、核心部分に位置するものなのである。

そしてわれわれはそのような「存在論」的核心的仕業にこそ人事を尽くさんとする、ひとりの稀有な政治家の名前を知っている。

小沢一郎は、今回のこの急な選挙戦のなかでも野党勢力を結集した新党結成実現の為に水面下で尽力した。安倍晋三の ー 今なら勝てる。今なら野党は小選挙区の6割程度しか公認が固まっていない。安倍政治の正体が国民にバレないうちに ー という理由しか無いこのなんという個利個略解散。しかも解散から公示日までは過去最短の11日という異例の短さだ。

それでも小沢は大同団結の野党統一戦線が出来れば勝てると踏んでいた。その為には党の解党も当然いとわなかったし、自分一人は無所属になってもいいとさえ周囲に伝えていた。結局統一戦線は実現することは出来なかったが、最低限の野党間の候補者調整は出来た。これも小沢がいなかったら多分実現していなかったであろう。

自分はいま弱小政党の党首に過ぎず、しかも官・マスコミによる人物破壊工作の影響で、多くの国民に嫌われている。自分には資格が無いけれど、「誰かが既成政党の枠から飛び出して「この指とまれ」と言ったら」(小沢)、自公に拮抗する、政権交代可能な勢力が現出する。滞留していた世界が、一気に活性化して動き出す。その為なら、自分の存在は見えなくなってもいい。

「さあよく見ろ、ここが世界の中心だ。」 - それは存在の極小点として虚空に示される、屹立した“無”だ。それがひとびとに知覚された途端に、重く澱んで滞留し
ていた気層に活力が充ち、世界が動き出し、“有”へと一斉に湧出し始める。極点を経巡って湧き上がる力と力とは拮抗し、分岐する・・・。

誤解を恐れずに言えば、小沢一郎にとってそのような創造の奇跡を実践して見せることこそが、「存在論」的な政治家としての彼の第一の本懐なのであり、その時彼自身が拮抗する勢力のどちらの側に属しているかという問題は、それほど重要ではないのだ。

しかし今回この小沢一郎の崇高な理念は、残念ながら民主党と維新の党の凡庸な指導層の政治家達には充分に理解されることが成らなかった。橋下徹などは、やたらと民主党に噛みついて、率先して共闘ムードをぶち壊している。




だからやはり「プーさん、元さん、がんばって」の他力本願だけでは、事態は好転しないと思うのだ。思い返せば2月の都知事選の当時は、「立ってるものなら小泉でも使え」というような絶望的状況であったが、所詮「俺女の首絞めないと立たんのよね」という宿悪により連中に縛られている男に限界状況を突破するような力もその気も無い訳であるが、しかし
実際この安倍というアンポンタンをいつまでも首相の座に置いておいたら、日中戦争の悪夢もいつ現実のものになるや知れぬ、という危機感もわれわれにはあった訳である。習近平がおそらく転向したのではないかと思われる現況、当面その危機は薄らいだが、しかし無くなった訳ではない。中国国内でも権力闘争の暗闘はある。

当時から比して国内情勢が好転していると思える要素は無い。今のこの国は、アメリカに対しても、中露に対しても、こちらから何らの積極的な意思表示も出来ない小児的な国家に陥ってしまっている。それが一番の問題なのである。そればかりではない。国民も小児化が進行し、政治に対して意思表示することすらみずから進んで放棄しているかの如きである。


テレビの“街の声”を見ていると、能天気な20代のにーちゃんねーちゃんは別として、「政治にはもう何も期待していません」「誰がやっても同じでしょ」(共にテレビ局の一番大好物の“おいしい”コメントだ)などと言って棄権を表明しているのは、年の頃30~50代くらいで「趣味は読書です」という感じの、自分ではすごく頭が良いと思っていて他人を見下してすらいるけど実は全然大したことなくて情弱ですらある、(タレントでいうとNHKの教養番組に出てるアレみたいな感じの)女に多いという感じで、<色気のない女は選挙を棄権する>という新・マーフィーの法則が導き出せそうな感じである。

世界情勢が多極化へと目覚ましく流動化し始めているなかで、このまま既得権益を維持する為の悪企みにしか頭の働かない最凶最悪の談合集団・マスメディアの流布する無気力で鈍重で滞留した空気感に同化して迎合し続けているうちに、気が付いた時にはわれわれ自身が世界の活性化を阻害する世界の癌、国際社会
の中の暗黒地帯と化している可能性すらあるのである。事実その兆候は経済・軍事の両面においてすでに見られ始めている。

当事者意識の欠落したスタティックな“中立”ではなく、今こそ本来の能動的で生産的でダイナミックな“中立”の回復が求められる。

此の世が神と悪魔との戦いの場であるとするならば、少なくとも現在この日本では、マスメディアというツールを掌中に収めた悪魔の方が、圧倒的に優勢な状況である。この状況を放置したままで、われわれは変われるだろうか。

神と堕天使ルシファーとの間に天で戦いが起きた時、天使の三分の一は神の味方をし、三分の一はルシファーの支持をしたが、残りの三分の一は中立であったと云う。そして西洋の精神史において古代から中世を生き続けこんにちにその血脈を伝え続ける聖杯探索の伝説でも、幾多の苦難を乗り越えて富の源泉たる聖杯に辿り着くことの出来る英雄は、この最後の中立の天使たちの流れを汲む者、つまり「善悪の彼岸」に立てれる者でなければならないというのだ。

この選挙の結果如何にもよるが、政治の荒廃がこのまま継続されるか更に深化する様な事態が現在予想されている。本来大衆社会におけるまさに中立的存在であるべきとされるマスメディアが、悪魔の巣窟と化してしまっている現状を、こちら側から突き破って屹立する“中立”的冒険が決行されなければならない時も近そうである。その時に果たして「最後に残しておくべき矜持」を保持しているのかどうかは、自分にも分からない。



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2014年2月 7日 (金)

毒を食え、叫べ

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小泉純一郎は、まだ叫んでいない。



東京都知事選において、細川・小泉チームの街頭演説は、他陣営よりも動員数や聴衆の反応において勝っているようだ。小泉節も健在のようである。しかし、“黙殺”というマスメディアの対抗手段の前では、その効果も限定的である。

一昨年の衆院選から昨年の参院選において遂行されたのと同じ手法・過程が、この都知事選でもまたぞろ繰り返されている。“舛添圧倒的に優位、原発は争点に非ず”という各社一斉の世論調査結果という名目の世論誘導。“細川・宇都宮が接戦”とし続けることで、反舛添票を分断させる巧妙さである。

それでも“まだ態度を決めかねている3割~4割の層”の動向次第では選挙結果はどうなるか分からない筈なのであるが、投票率を極力下げるべく明確な意図をもって選挙報道は低調に進行されている。

<2014年、NHKはもう “要ラン”>という天からのお触れでもあったのか、新年初っぱなの放送を大越健介のイラン・レポートから始めたNHKの『ニュース・ウォッチ9』は、この都知事選について何一つ触れようとしない状態がずっと続いているが、選挙最終週の今週には、海の向こうのタイにはしっかり出掛けて、選挙中断を巡る与野党勢力の攻防を現地レポートしていた。

一日で帰って来たが、どうせなら都知事選の終わる日曜日までそのままずっとタイにいて、彼の地での選挙動向をレポートし続けていた方が、「NHKとは何者か?」ということを視聴者に知らしめる良い機会だったろう。



自民・公明の基礎支持票が230万票ほどと推定されるなか、投票率が60%を超えるようなら細川陣営にも勝機有り、と目されるが、特命ムサシ班の出動があれば、それもどうか分からない。

このままでは、小泉純一郎も敗れ去る公算が大となる。“小泉劇場”も、所詮はマスメディアの全面支援があればこそ、化けの皮を剥がされたB層アイドルの惨めさよ、と指差され蔑まれ、笑い者になって、すごすごと退場するに甘んじるのか。

尤も、小泉にハナから勝つ気が無かった、とするのなら話は別だが。昨年小泉が唐突に脱原発宣言し、マスメディアが嬉々としてこれを報道しているのを観た時、アァこれはまた国民眼目眩ましの政界再編劇への布石だな、と思ったものである。事実そうだったのであろう。

脱原発か否か、のワン・イシューで、政治の大勢をネオリベ対米従属AチームとBチームに振り分けて表面上の対立構図を演じることで、その他の対抗勢力を陰に埋没させておく事が出来る。それに今から布石を打って置けば、福島第一原発がいよいよニッチもサッチも行かなくなったり、第二の原発事故が起こったり、ガン患者が急増したりして国民世論の大勢が「原発はやっぱりもう駄目だ」という方向に大きく傾いた時にも、その動きを吸収する保険にもなる。その為には、敗けても敗けても地方首長選の応援演説に立ち、脱原発を訴える姿を国民に見せ続け、一定の支持を集めておくだけで現況は効果有り、と観る考えも在る。

しかし小泉純一郎には勝つ事に対する執着が有るだろう。彼は日本共産党ではない。現在のマスメディアの中でもっとも小泉シンパと思われる朝日新聞まで含めての右へ倣えの“黙殺”攻撃に、心中穏やかではない筈だ。

その真意は、いずれ分かる時が来る。

小泉に本気で勝つ気があるのなら、本気で脱原発の首長を誕生させ、本気で安倍政権に決定的打撃を与えたいと思っているのなら、周回遅れの「原子力ムラ」批判のような綺麗事を並べ立てているだけでは駄目だ。それは“小泉劇場”にはならない。

小泉純一郎が今、大観衆の前で叫ばなければならない言葉はひとつである。


「抵抗勢力はマスコミだ!」



ーみなさん、抵抗勢力はマスコミなんです!わたしと細川さんがこうして老体にムチ打って、みなさんの前で懸命に脱原発を訴えて、みなさんがそれを熱心に聞いて下さり、こうして暖かい声援と拍手を下さる。このみなさんの熱気を、マスコミは一向に伝えようとしない。無きものにしようとしている!

ーみなさん、知っていますか?この選挙戦中の先月30日、東電は福島第一原発の1号機で、格納容器下部の破損配管から、1時間あたり最大3.4㌧の汚染水が漏れているらしい、と公表したんです。1時間あたり4.4㌧の注水をずっと続けている、その8割がずっと漏れ続けているんです。三つ壊れている原発のそのひとつ、その一箇所の破損配管での話ですよ。他にももっと漏れているんです!漏れ出した汚染水の放射線濃度は、1時間あたり最大237万シーベルトですよ。みなさん、こんな大きなニュース、ほとんどの人が知らなかったでしょう?だってテレビを見たって新聞を見たって、ぜ~んぜんこんなニュースやってないんだから!

ーみなさん、これもこの選挙戦中の話ですよ。NHKのラジオ番組で、東洋大の中北徹教授という人が、20年間その番組にレギュラー出演していた人ですよ、やはり先月30日の放送で「原発稼動のコストとリスク」というテーマで話そうとした。それでNHKのディレクターに原稿を渡したら、「これは絶対にダメだ。都知事選中に原発の話はしないでくれ」とそのディレクターに言われたんで、中北さんは怒って仕方無く番組を降りちゃったんです!脱原発は都民の関心が薄くて都知事選の争点にはならないとマスコミは言っている。しかし違うんですよみなさん!マスコミが脱原発を争点にすまいとしているんだ!抵抗勢力はマスコミだ!



「抵抗勢力はマスコミだ!」「マスコミをぶっ壊す!」 東京都で、あるいは山口でも京都でも、全国を駆け巡り、街頭で、大観衆の前で、叫びまくる。第二の“小泉劇場”は、第一の“小泉劇場”を反転することによって出現する。NHKがボロを出し始めた今が好機だ。

彼に生来備わっている怒りのポテンシャルがどの程度のものなのか、オレには分からない。もし噂通りの三文役者のそれに過ぎないのだとしたら、オレが今ここで述べているようなことは、すべて絵空事に終わるだろう。

大いに怒れることの出来る人は、それ自体がひとつの天賦の才能だ。怒りのポテンシャルの低い人を世間では“善い人”と称して讃えるが、オレはそのような考え方には与しない。社会の上層の所謂エリートと称される人達の怒りのポテンシャルが総体的に低いから、世の中がどんどんオカシくなって行っても歯止めが利かず、なあなあ、なあなあで、ズルズル崩壊の道を辿って行くのである。宇都宮健児は安倍のヤバさに対して少々鈍感なように見受けられる。(細川護煕はこの点明確に意識している。この違いは大きい。)

大いに怒り、大いに悲しみ、大いに喜ぶ才能に富む人は、それ故に、毒を食らうことが出来る。毒に愛されるのである。この毒は、福島第一原発でダダ漏れしている毒や、石破茂が辺野古で撒き散らした毒とは、種類が違う。

小泉純一郎がもしこのような毒を食えたなら、嵐が巻き起こる。疾風怒濤が湧き起こり、すべての汚れ穢れしモノを洗い流す、真の大嵐が訪れて、国土を覆い尽くす。彼はB層専用のニセ英雄の烙印から脱却して、真の国民的英雄になれるだろう。それは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康以来の、真に歴史的国民的英雄と言う意味だ。

彼が生涯三文役者で終わる程度のタマなのであれば、ここで何を言っても仕方無い。しかし彼に未だ眠れるポテンシャルが秘められていたとしても、小泉純一郎が毒を食らう為には、まずわれわれが小泉純一郎という毒を食わねばならない。それが人間同士の互酬性というものだろう。



宇都宮健児について言えば、今回は共産党の帽子を真っ先に被ってしまった政治オンチ振りがすべてである。この点は、どんなに強調しても強調し過ぎる事は無い。死票製造マシーン=自民党の補完勢力・日本共産党にはホトホトうんざりである。

世の趨勢を大局的に鑑みず、“正義”という己の孤高のポジションに在る事それ自体の価値を重視する人達が、世の中に一定数居るという事実は従来より認めていたつもりだが、予想以上にそういう人が多いようなのには少々驚きである。特に若年層にその傾向が強いように思うが、思い起こせばオレも20代の時に国政選挙で一度だけ、政権に対する抗議票の意味で共産党の候補者に投票したことがあった。今では己の人生における汚点の一つとして認識している。考えねばならないのは、今が抗議票というカタチの意思表示で充足して居れる時なのか?と言うことである。
(ついでに附言しておくが、、脱原発運動もそれから反TPP運動も、共産党なんかにくっ付いて行ったら、いずれ世間からオウム真理教扱いされるのがオチである。そしてそれこそが、まさに敵の“思う壺”なのである。)

本来この都知事選の重要な争点となるべきものに、脱原発とともに、東京都がまさに主舞台のひとつとなるであろう国家戦略特区の問題があった。細川・小泉の参戦によって、こちらの方が争点として後退してしまった、と言う批判は当たらないだろう。争点を決めるのはマスコミである。現に今も、馬鹿の一つ覚えで「景気・雇用対策」が争点の第一位と言い募りながら、景気・雇用に直接重大な影響を与えるこの国家戦略特区の問題については、ほとんど議論の俎上に載せようとしていないではないか。

舛添は国家戦略特区の最大積極活用を明言している。舛添の連呼する「世界一・・・」「世界一・・・」は、安倍晋三の「世界一企業が活動しやすい日本(=世界一大資本が富を収奪しやすい日本)を目指す」の「世界一」と連動している。冷静に、舛添都知事誕生を阻止する可能性の少しでも高い方法を、今は考えるべきである。

小泉程度の毒も食えないと言うのなら、オレとしては何をか言わんやである。カロリーメイトとサプリメントでも食って、ジョギングでもしてろ、という感じである。

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2013年3月21日 (木)

があがあがちょうのお出ましだ!(2012年総選挙で何が死んだのか?)



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実は少々やらかしてしまい、しばらくおまわりさんのお家に居候になっていた。



おまわりさんのお家での生活は、静かなものである。頭を丸め、早寝早起き。欲望の集積体たる外界から隔離されて、単調な作業に明け暮れつつ、粗食を喰らい、尻拭きのちり紙一枚にも倹約を心掛けるつつましい日々である。会話という会話もほとんど無い。

しかし君は囚人ボク刑務官、オイお前、ハイ貴方のロール・プレイング・ゲーム的予定調和の坦々と進行する塀の中の“静けさ”は、期限付きだし、心の深部にまで侵攻してくる類のそれではないので、慣れてしまうと案外安穏としたものであり、そこかしこで見かける“絵っこ人間”達の身体に刻まれた色とりどりの図象さえも、どこかひょうきんで長閑(のどか)な風情である。

しかしその安穏とした均衡が、<情報の遮断>によって成立しているうわべだけの均衡であるという事実からは、どんなに目先の日常への順化に努める毎日を送っていても、逃れられるものではない。

一たび居室の小さな窓から塀の外の世界の方を見やる時(いつも同じ風景、いつも同じ角度)、そこからは不気味な別種の“静けさ”の進行している気配が立ち昇る。12月16日の選挙結果を、オレは知っていたのである。

窓の外に重苦しく充満するかのような“静けさ”の圧迫感を日々眺めているうちに、オレの想念は記憶の海馬のなかを漂い始め、いつしか少年時代のある地点に着地した。おまわりさんのお家は、オレの少年時代に過ごした街に近かったのである。




動物的段階


少年時代のオレは、ひどい鼻詰りに長く悩まされていた。たしかアレルギー性鼻炎という診断ではなかったかと思うが、小学生の頃から通院を始め、子供だから途中結構サボった時期もあったりはしたのだが、それでも何だかんだで数年、家から数キロ離れた耳鼻科医の所へ、時にはバス、時には自転車で学校帰りにせっせと通っていたのである。

しかしそんな努力にも拘らず、症状の方は一向に改善しないまま中学を迎え、さらに月日を重ねていた或る時、それまで平行線だった鼻の詰まり具合が、より一層急激に悪化し始めたのである。その病院では普段は医師に診てもらえる事はほとんど無く、看護婦に処置してもらうだけが通例であったのだが(今考えるとそれだけで眉唾な病院である)、堪らず医師の診察を願い出た。

レントゲン撮影などした後、診察室であらためてオレに向かい合ったその老医師は、威厳に満ちた態度で静かに、無感動に、しかし自分の声の効果に自信を持っている人のやり方で一言、「君も第二段階に入ったね・・・」と言い放ったのである。

(残念ながら・・・)というような言外の含意すら無いのだった。彼の顔の表情からは何らの感情も読み取ることが出来ない。悟りきったような、当然そうなるべき事態になるべくしてなった、という事実報告を坦々と述べる事務員の、さざ波ひとつ立たない凪いだ湖面を見つめている人のような顔で、オレの前に坐っている。

オレはその時生まれて初めて、“気の狂っている大人の人”を、眼の前に見たのである。



アガサ・クリスティーの探偵小説 『NかMか』において、ベレズフォード夫人が遂に正体をあらわした敵(ナチス)の間諜(スパイ)と正面から対峙した時、彼女の口を衝いて出たのは、“があがあがちょうのお出ましだ!”というマザーグースの童謡の一節だった。

狂気というものが静かに、穏やかにやって来るものだという事、そしてそれへの対抗手段について、アガサ・クリスティーは経験的にか直観的にか、識っていたのである。狂気に浸された人の心のなか、そしてその生活も、おそらく静謐なものである。たとえそれが表面的には確信的な力強さに漲っているように見える場合でも。

精神の病が無意識の歪んだ抑圧によってもたらされている事を、現代心理学は明らかにしてきた。狂気に対抗するには、抑圧されていたものを甦らせなければならない。極限的な危機的状況の中で主人公にマザーグースの童謡を叫ばせたクリスティー女史の直観は、だから科学的にも、まったく正しいものだったのである。

があがあ鵞鳥のお出ましだ、さてさてどこへ出かけよう、階段あがって階段降りて、お嬢様のお部屋のなかへ・・・

さてさてどこへ出かけよう。いざ娑婆へ出てみて、想像通りではあったが、この重苦しい静けさの原因は何だろう。オレは山崎行太郎氏の矜持に満ちた言説が嫌いではないが、氏とは立場の違う無名のブロガーに過ぎないので、やはり12月16日の総選挙における巨大不正選挙疑惑については、大いに騒ぎたくなる。

オレも父方は九州の武家の出であるが、どうもあまり高級な家柄ではないようだ(笑)。それにこの選挙結果を小選挙区制の産んだマジックとして無理やりに咀嚼(そしゃく)しようとすると、眼の前にあの老医師が現れるのだ・・・。

小沢一郎には威風堂々毅然と構えていてもらわなければ困るが、しかしわれわれの相手にしているのは、楠木正成の軍をさらに数段低劣にしたような、こちらが開戦前の名乗り口上を歌い上げているさなかに、石つぶてやら糞やらを不意打ちでぼんぼん投げつけてくるような連中である。

最後に残しておく矜持として、飛んできた石を拾って投げ返すまではしないでおくが、「卑怯だぞコノヤロウ」とは、自分の行動範囲至る所で大いに喚(わめ)きたいものである。それに武士が滅んだのは、自分達を高級な存在と見做してしまった処にも、起因したのではなかったろうか?



マザーグースの童謡には続きがある。“お嬢様のお部屋のなかへ”入って行ったがちょうさんは、そこで“お祈りをしないおじいさん”を見つけて、追い出すのである。この件(くだり)は、われわれにとって非常に示唆深い。

敵に勝利する為には、敵陣営を仲違いさせ、分裂させてしまうのがひとつの有効な手立てなのだが、破壊因子が誰だったにせよ、それを今回はまんまと相手側にやられてしまったような選挙後の未来の党と生活の党の分党があり、オレは塀の中だったので良くは分からんが、それがこの重苦しい空気に拍車をかけたであろう事は、容易に想像が付く。

オレ自身も、嘉田由紀子氏は政治家としては未知だが人間的にはバランス感覚のありそうな人のように思えたし、大飯原発の再稼動の可否を巡って権力闘争のとば口ぐらいは肌身で経験した人でもあること、そして彼女が女性であること等を事由に,彼女には期待したし、選挙前にはエールも送ったが、しかし彼女は、狂気を眼前にして“があがあがちょうのお出ましだ!”と叫んだタペンス・ベレズフォードには、成れなかったのである。

たった一声叫ぶだけで良かったのである。選挙期間中、彼女は政党党首として何度かテレビの全国放送の生放送に出演する機会があったのだ。その度に悪意に満ちたキャスターやコメンテーターどもに取り囲まれていたが、その悪意の最高潮の狂気として発現しているさなかに、「 しかしマスコミの世論調査というのは、私にはどうも腑に落ちないんですよ!インターネットのYahoo!やロイターのサイトで行なっている世論調査では、いずれも未来の党が政党支持率30%超で第1位なんですけどね。貴方のとこの調査(2%?)とのこの違いは、何なんでしょう?どうなんです?」と一発かましてやれば良かったのである。そうすれば、その小さな一刺しで穿たれた僅かな穴から、いずれがちょうの大群がどどどと押し寄せてきたかも知れないのだ。

もしかしたら彼女は、がちょうではなく、自分を琵琶湖に舞い降りた白鳥ぐらいに空想していたのかも知れない。そうだとしたら、既得権益を守る為に死に物狂いになっている“彼ら”との権力闘争に、勝てるわけが無い。

白鳥だって、すっくと凛々しく優雅に水面を滑っているように見えるときでも、抑圧された無意識がそうであるように、水面下では必死にばたばたと水を掻いているのだ。無意識の抑圧を内面に抱え込んで生きている患者が、しばしば自分の心の奥の内部と、外部の事象との“取り違え”を犯してしまうというのも、現代心理学ですでに多数報告され明らかにされている事実である。

ユング心理学における「投影」などがまさにそれであろう。嘉田由紀子という“お嬢様”は、自分の心の内に知らず知らずのうち巣食っていた“お祈りをしないおじいさん”をこそ追い出さなければならなかったのに、“取り違え”て小沢一郎を追い出してしまったのである。もし河合隼雄あたりがまだ存命であったなら、彼女の言動に対する興味深い分析が聞けたかも知れない。

おそらく彼女は、環境工学やジェンダーに関する論文などは多数読みこなしていても、マザーグースなどはあまり読んだことは無かったのだろう。またわざわざ外国の古い童謡集などにあたらなくとも、わが国でも古く子供らが「かあかあかあ 山の神のさいでん棒」などと唄いながら婦人の尻を棒で叩いてまわっていた、というような風習に対する民俗学的知見も、やはり彼女には縁遠いものだったのかも知れない。



<無憂荘>

実はここからが本題である(笑)。

今まで言ってきた事を一言で言えば、嘉田由紀子と未来の党は今回少々お上品過ぎた、という結論なのだが、しかしその責任を彼女一人におっ被せてしまうと、逆に問題の本質が見えなくなってしまうのではないかと危惧するのだ。

彼女は1950年生まれだが、オレにはどうもこの「戦後民主主義」という名で括られる60余年の生活空間及び言論空間の推移の全体が、少々お上品過ぎたように思えてならない。たとえば大江健三郎のようなタイプの知識人は、今回の総選挙の顛末をどのように概観し、今どのように考えているのだろう。先日3月9日に行なわれた反原発集会では健在振りを見せていたが、しかし彼がこれまでずっと信奉し、唱え続けて来た「戦後民主主義」なるものの“底が抜けた”のが、まさに今回の総選挙だったのである。

若い頃の彼なら、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」とオーデンの詩のひとつも引用して嘆いているのではないかと思われる今日の状況であるが、やはりここでもオレはオーデンではなく、同じイギリス出身の文学者でも大衆娯楽小説の方の大家、アガサ・クリスティー女史の直観の方に、ヒントを求めてみようと思うのだ。

しかしその前に、彼女ほどではないがやはりなかなかの直観力を備えた書き手、市井の一ブロガーあいば達也氏が、まさしくあの12月16日の総選挙の前日、昨年12月15日に、「朝日・読売が投票前日 未来の党に向け、“ネガキャン手榴弾”を投げつける!」と題して、おそらくそれほど多くの人が注目しなかっただろうと思われる朝日と読売の、投票日前日という段階での未来の党に対するジェンダー論的ネガキャンに鋭く反応している点に、まず言及しておく必要があるだろう。

つまり自らも女性である嘉田由紀子が、子育て世代の女性が外で働きやすくなるような環境整備を、と選挙戦で訴えていた事に対する露骨な鞘当ての、「夫は外、妻は家庭」という考え方に賛成の人が増えているという世論調査結果を、朝日・読売が内閣府と結託して投票日前日にぶつけて来た、その特定政党狙い撃ちの彼らの露骨なネガ・キャンに対してあいば氏は呆れ立腹しているのであるが、この小トピックはしかし、おそらく氏が意識していた以上に、重要な問題を孕んでいる、われわれの問題の核心の、そのとば口に触れている、とオレは考える。

なぜならここで問われているのは、“母”の在り方そのものであるからである。



母親は子供に何を望むのであろうか?そしてその為に母親は、どのような行動を取るのであろうか?将来安定した収入のある職業に就いて貰いたいと願い、その為にいい学校に入って貰いたいと願い、その為にはいい学習塾を探すだろう。そして今なら、わが子の放射線被曝を心配し、食品や空間線量に日々気配りしているかも知れない。しかしその先は?

動物的段階へとわれわれを励ますアガサ・クリスティーの『NかMか』の、それと関連するもうひとつのテーマが、まさにそれなのである。

『NかMか』の舞台となるのは、イギリス南部のリーハンプトンという保養地に在る<無憂荘>(!)という名のゲストハウス(賄い付き旅館)である。有閑マダムや退役軍人らが集うそのゲストハウスに潜伏していると思われる、「NかMか」というコードネームの悪しき敵国のスパイを、ベレズフォード夫妻が探偵するという筋書きの推理小説である。

N(HK)かM(inpou)か。あまり語りすぎると小説の種明かしになってしまうので程々にしておくが、しかしここが問題の核心部分であるのでこれだけは言うが、事件が解決する為には、<無憂荘>に暮らす可哀想なテレビっ子=ベティーの母親は、象徴的に死ななければならないだろう。

なぜテレビっ子か?それは他ならぬテレビこそが、現在の日本に暮らすわれわれにとっての<無憂荘>に他ならないからだ。

彼らは常に<無憂荘>だ。「楽しくなければテレビじゃない」という悪い冗談のようなスローガンがかつてあったが、自国を未来永劫にわたって壊滅させるような破壊的諜報活動が現在進行中の時でも、辺りに激しい爆撃弾の嵐が飛び交っているような時でさえも、彼らはそこが平穏太平な<無憂荘>であるかのように見せかけ、振舞うのである。

現に今も、資本の論理の絶対的覇権によって、一国の築き上げてきた社会的セーフティー・ネットの全域を立ち直り不可能なまでにずたずたに破壊し尽くそうというTPPなる怪物を、一介の貿易協定に過ぎないものかのように矮小化して見せることで国民に受け入れさせようと謀り続けているし、安倍首相がTPP参加表明した日には、NHKのスタッフが選りすぐった「ニュースウォッチ9」“街の声”第一声は、身なりは整っているが頭の中はお花畑な初老のサラリーマンの、「消費者としてはありがたいですね」というやはり度外れた<無憂荘>の住人が登場するのである。

あれはいつから放送されているのだろう。塀の中から戻ってきてから見たが、キリンの淡麗グリーンラベルの新CMで、「嵐」というよりは「無憂荘」というグループ名の方が似合う24時間和みっぱなしキャラで地上波テレビ局ネット群を席巻しているアイドル・グループが、とある牧羊地で羊を追い立てると、羊達の群れが人文字ならぬ羊文字で、peaceと形作り従順に整列するのである。

あたかも昨年末の総選挙の勝利の美酒に酔う“彼ら”が、その後の既定路線としてあった安部自民の選挙公約詐欺のTPP参加表明まで含意して、われわれ日本国民を嘲笑しているかのようなCMである。(そういえばわれらが売国宰相の滑舌も、羊か山羊か駱駝か驢馬か、といった連想を誘起させるものであるな。)

30代より上のまさに子育て世代か子育て終了世代に根強い人気の彼らであり、もちろん彼女達がかわいい男の子を見て癒されている事自体にケチを付けるつもりは無い。オレだって若い女を見るのは好きである。しかし事ここに及んでは(昨年12月16日以降、この国は発狂段階に突入した、というのがオレの認識であり、しかもそれは加速度的に(静かに)進行中である。その表層は投機バブルの熱によって覆われてはいるが、それさえもわれわれの“狂気”には相応しい現象なのだ。)、もう客寄せパンダも同罪だぜ・・・という気分にも段々なってくる。暗黒日テレの「NEWS中身ゼロ」とか出んなよな・・・。



本題に戻ろう。“母”である。マスメディアの作り為す人為的で意図的な雑音の中で、反消費増税の声も反原発の声も反TPPの声も掻き消されてしまった未来の党は、母親と女性の立場の主張を前面に打ち出し、それはそのまま婉曲的かつ通底的に、反消費増税と反原発を生活者として望んでいるであろう多くの母親達への共鳴の呼びかけでもあったわけだが、最後にはそれさえもマスコミのネガキャンの標的にされていた、というのは先述した通りであるが、しかしその“母”の主張は、たとえマスメディアの無視または中傷及び票集計時の不正が無かったとしても、世の中を大きく動かすまでの力には足りなかっただろうというのが、オレの印象なのである。

志は間違っていない。女が立ち上がらなければ、おそらくこの国では大きな社会の変革は実現出来ないであろうとは、当ブログでも以前から主張してきたところである。男はその点どうもイマイチである。仕事も身なりも立派でも、愛読書が日経新聞ではお花畑もしょうがないのかも知れないが、小沢一郎の「自立と共生」の社会の実現に向けては、男はなまじ自分が自立していると思い込んでいるだけ、障壁なのである。

それに比して、今回の総選挙では比較的若い世代の母親層を中心として、女性達の「自立と共生」へのムーブメントはあったように思う。しかし実は「自立と共生」というのは、言うほど容易なことではないのである。

「自立」と「共生」とは、ある意味対立する概念なのだ。その信念と理想との発芽としてそれは両方とも当初のわれわれの心のうちにあるが、それは対立する概念であるが故に、同時に手を取り合って成長していくようには、成長していかないのである。

父権性社会の西欧ではその為強い父親の下、まず自立した個人の形成があり、彼らの共生はその確立した個人間の社会契約としての共生という意識が強いのだが、強い父親の元々存在しない(その空隙を衝いて戦後父親面して入り込んで来たアメリカが、モンスター化してDV的破壊をおっ始めたというのが、昨今の状況である)日本で同じモデルの形成を望むのは難しいとオレは思うし、小沢一郎の考えている「自立と共生」も、表現上では類似的でも思想的な深みのレベルにおいては、やはり明確にそれとは異なるものなのである。小沢一郎の「自立と共生」は、今までにない新しい日本独自の近代超克モデルを目指している。

西欧モデルの場合には実際的にどのような心的過程を踏まねばならないのか、踏んできたのか、オレも彼らではないので詳細は分かりかねるが、もとより母権性社会であるこの国で「自立」を指向し始めた母親達は、たちまちのうちに挫折を味わわなければならないだろう。

なぜなら“母”としての女の本質は元々が「共生」指向だからである。実は日本人の「自立」を妨げているのも、この“母”としての女の「共生」指向が、社会全域に広く支配的に通底いているからなのである。この“母”の共生指向が支配的であるが故に、「人様に笑われないような」人間になりなさい、という形での人格形成が連綿と為され、西欧的な意味での「自立」した個人の形成を阻んでいるのである。「空気を読め」というのも、実は母性原理の側からの要請による社会的通念に他ならない。この国には強い父親はいないのだ。

“母”の側からの「自立」への旅が始められなければならないだろう。しかし、するとどうなるか?それはいずれ遅からず、自家撞着の罠に陥穽(かんせい)してしまうのである。

「自立」に目覚め我が子の教育にも「自立」を求めるようになった“母”は、今までは「人様に笑われないような」人間になってくれれば良いぐらいにしか思っていなかったのが、より高い教育を強く望むようになり、今までよりもっといい学習塾を探して血眼になるかも知れない。或いはその逆に、理想と現実とのギャップに疲れて、育児放棄や虐待の方へと道を外してしまう可能性も有るだろう。父親は当てにならない。子供の放射線被曝が心配で「自立」的に色々調べるのだが、そのことに過敏になるにつれて、周囲から孤立していくようにも感じる・・・。そして仕事と家庭との両立・・・。

これらの現象はいずれも、元々「共生」的な資質をその本性とする“母”が、「自立」を指向した時に体験する自家撞着の苦しみである。この時彼女達は自立する事がすなわち孤立する事であるかのように感じられる状態に置かれるのである。「共生」的なサロン的空間からの孤立感は、彼女達を益々我が子との個人的紐帯の方へと純化させるよう働くかも知れない。

オレは今“母”としての個人的体験について述べてきたが、2012年の総選挙における精神の深層域の運動において、まさにこの“母”の「自立」という巨大なウェーブの上に屹立せんとしていた日本未来の党の運動が、これと同様の過程にあったと考える。“母”の側からの「自立」へと踏み出したこの世界的にもまったく新しいわれわれの運動は、だからあの段階で、挫折しなければならなかったのは寧ろ必定だったのであり、朝日と読売の変化球的ネガキャンも、彼らは意識していなかっただろうが、案外核心を衝いていたのである。

大敗に終わった選挙結果とその後の分党顛末を見て、これならば「国民の生活が第一」で戦った方が良かった、とする向きは多いだろう。しかしオレは不正集計はほぼ100%有ったと考えているので、その場合も選挙結果は変わらなかったと思う。司法・検察権力と言論権力による人物破壊工作の被害者・小沢一郎を前面に立て、白日の下に正々堂々全面権力闘争に挑んで、その結果があの不可解な大敗では、やり切れなさも多分同じであったろう。むしろ禁じ手に手を染めてしまった“彼ら”の方が、これからジワジワとボディーブローに苦しめられる筈である。

「自立」を目指した“母”は、自家撞着の海の中で死ぬのである。われわれの「自立と共生」の運動は、どうやら西欧モデルのそれとは、大いに異なる過程を歩まなければならないようだ。

死んだモノは甦える。死ななければ甦らない。

があがあがあがあがあがあがあ・・・



TPPと深沢七郎

かあかあかあかあかあかあかあ・・・

アガサ・クリスティーによって動物的段階に誘(いざな)われたわれわれは、ほどなく時空を超えて、甲州地方の山あいの小さな寒村に佇みながら厳しい夕暮れの風景を眺めている、己の姿を見い出すことになるだろう。あの総選挙で象徴的な“母の死”という挫折を経験したわれわれが、そこに未来的な積極的意義を探ろうとする時、一人の偉大な先駆者の存在に思い至らざるを得ないからである。

深沢七郎が『楢山節考』を引っ提げて文壇に登場したのは、丁度高度経済成長期に突入し、日本全体が熱に湧き立っていた昭和30年代の初めであった。『楢山節考』は第1回中央公論新人賞の受賞作として世に出たのであるが、その当の選者達すらも、正宗白鳥のような例外を除いては、この自分達の間に突然現れた“異物”のような作品に戸惑いを隠せなかったようである。深沢七郎の登場は当時の日本近代文学の文壇およびその読者層において“事件”であり、”衝撃”であり、“驚愕”であったが、その大部分の反応は「何だか訳の分からないもの」として彼を内心“畏怖”しつつも、敢えて見なかったことにして“無視”するというようなものが多かったのである。

かく言うオレも、20代で初めて『楢山節考』を読んだ時は、似たような反応であったと思う。お勉強の出来る子供として少年期を過ごし成人したオレは、怠け者ではあったが、いわば近代教育の優等生という一面も同時に備えていた訳で、同年代の平均水準よりも意識上では却ってより“近代人”であった可能性もあるわけだ。

民間伝承の棄老伝説を題材としたこの小説は、現代社会に暮らすわれわれにとって全編が驚愕に充ちているが、小説の冒頭に近い部分で、おりんが平然と自分の歯を折ってしまう場面に遭遇した時、その圧倒的なリアリティーとインパクトに、読者はいきなり打ちのめされてしまうのである。

おりんは「空気を読む」女である。おりんは来年には70歳で、楢山に捨てられに行く年齢なのだが、その歳にもなってびっしりと生え揃った健康な歯でいることが、恥ずかしいのである。恒常的に食糧の不足気味であるその村では、年寄りが健康な歯をしているだけで、若い者の食い分を奪う強欲婆ぁのように見做されて、馬鹿にされるのである。

深沢七郎の描く“庶民”は、皆おりんのように「空気を読む」人達ばかりである。その空気読み振りは徹底していて、常に気を回し相手の様子を伺い先回りしようとするので、時に気が急き過ぎて失敗してしまうほどであるが、おりんの歯折りもやはりある種の逆効果を生み失敗してしまうのである。

しかしおりんは現代のそれのように、「空気を読め」と権威の如く振舞うことはしない。逆なのである。おりんの歯折りの場面を目の当たりにし、超然として楢山参りに向かうおりんの透徹した思考に触れた時、われわれはそこに「空気を読む」女の「共生」指向の最深部に潜んでいた、強靭な“母”としての社会思想を、再発見することになるのである。

おりんがみずからの歯を叩き折るとき、そこには「自立」した近代的自我というものは、まったく存在していない。そのことを、深沢と同じ甲州出身である中沢新一が、分かり易い言葉で解説してくれている。

 -自分が健康だとたくさんの物を食べてしまうから、他の人たちに食べ物が行き渡らなくなる。少ない食糧を皆で分け合っているので、自分が年をとっているのにたくさん食べてしまっては、若い者や子供を飢え死にさせてしまうかもしれないから、自分は物を少なく食べるようにしていかなければならない。このように考える時、おりんは自分の事をほとんど考えていません。自分という意識が無いのです。自分もそのメンバーの一員である、もっと大きい世界のことを考えています。(中略) おりんの行動は、おりんの個人意識によるものではありません。おりんは常に他の人のこと、そして人を超えたもっと大きい集合体のことを考えている。それは、個人で構成されてはいても個人意識を持っているわけではなくて、動物の種のような大きな一塊(ひとかたまり)をなしています。おりんは「種」という考え方に立って思考しているのです。しかし、近代文学は、この種を否定して、私という個人として近代的な自我を確立した。

             奇跡の文学-深沢七郎が描く「庶民」 (『野生の科学』 所収)


ここで語られているのは、われわれ日本人の社会福祉思想、社会的セーフティー・ネットの形成思想の、根幹に存在していたものである。その後日本は飛躍的に経済成長を遂げ、昭和43年にはGDP比で世界第二位の経済大国となり、資本の勝利の恩恵を皆で享受して来たわけだが、しかしあの小泉・竹中の「構造改革」という破壊工作で変質される前までは、その実態は社会資本主義ともいうべき、資本の論理と福祉の論理の均衡した折衷社会として成り立っていたのである。

資本の論理=「自立」の論理、福祉の論理=「共生」の論理と言い換える事も或いは可能だろう。(ただしこの場合の「自立」は、運動主体が個からマネーに転移していることに、留意しなければならない。)われわれは資本の論理を野放図に任せるなどという事は決してしてこなかったのである。

小泉以降崩壊してしまった(今や全雇用者の3分の1超が非正規雇用という現状)家族的な雇用体系。簡易保険や各種共済基金、そして世界に誇れる国民皆健康保険制度。下支えのある社会であると同時に、上も極端な高報酬となることを抑制していた。王貞治の最高年俸は物価水準の変動を考慮しても現在の阪神の新井貴浩の半分ぐらいであったが、王貞治は文句を言わなかった。 - われわれは深沢七郎を“畏怖”し、“無視”し、“異物”として除け者にしてきたが、その間も彼と彼のおりんは、片時も離れず、ずっとわれわれの傍で伴走し続けてくれていたのである。



3月15日、安倍晋三が、ウソで塗り固めたTPP参加表明記者会見を行った。安倍晋三は選挙の前から、TPP協議に参加する事を決めていたのである。その為にまず選挙公約に細工を施した。

先の衆院選における自民党のTPPに関する選挙公約は、6項目から成っている。(1)「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り、交渉参加に反対する。(2)自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない。(3)国民皆保険制度を守る。(4)食の安全安心の基準を守る。(5)国の主権を損なうようなISD(投資家と国家の紛争解決)条項は合意しない。(6)政府調達・金融サービス等は、我が国の特性を踏まえる。

しかしこの公約を本気で守ろうとすれば、TPP協議に参加するという選択肢は無い。TPP協議に参加すること自体が不可能になる。そこで安倍自民は、このなかの玉虫色の公約(1)だけを衆院選の公約本体に記載し、(2)~(6)を同時発表した「総合政策集」に別記載して選挙戦に臨み、茶番劇のオバマとの共同記者会見で露払いを終えると、早速開き直って、同時発表した総合政策集は「正確には公約ではない。目指すべき政策だ。」との国民を愚弄した誤魔化しの詭弁を繰り出すのである。(東京新聞3月3日記事

オレはこの安倍晋三という男が「国柄」を守る、「美しい故郷」を守る、「日本の農と食」を守る、「国民皆保険制度」を守る等と口にするのを聞く度に、心の底から憤りを覚える。人々にある種の憐憫の情を喚起する彼のあのたどたどしい滑舌も、一見柔和な印象を与えるあの容貌や物腰も、人心を欺き易くするよう、悪魔が彼に与えたものである。もしおりんがこれらを聞いていたら、何と思うであろうか - たぶん彼女は、「バカー」と一言言ったぎり、そっぽを向いてしまうだろう・・・。

平成の悪魔・安倍晋三によって、TPP批准に向けての事態が進行している。われわれは今こそ深沢七郎を、深沢七郎の『楢山節考』を、貪り読まねばならない。(もしあなたが財界やマスコミの関係者なら、なおさらそうだ。)この一介の無名の新人作家の作品に過ぎなかった小品を、正宗白鳥がこれはわたしの「人生永遠の書」だ、とまで断言したことの意味が、今ならば、骨身に沁みて分かるだろう。



2012年総選挙の挫折と敗北ののち、思いがけずアガサ・クリスティーに出会ったわれわれは、彼女によって自己省察と再起に向けての奨励を授かったが、クリスティー女史のさらにその先では深沢七郎が、あの人懐っこい笑顔を浮かべながら、今川焼きを焼いている。

深沢七郎の今川焼き屋は、消費税が10%になるというだけで万事休すである。

「まずあの消費税っていう名前がペテンでさ。売上税なんでね・・・売上税って言ってたんだよ、中曽根の頃までわね・・・われわれ庶民を煙に巻くために名前を変えたんでさ。」

深沢七郎の今川焼き屋は、近所にスーパーやコンビニが林立したため価格競争の波にさらされていたが、それでも奮起して小さいながらも複数店舗を構え、アルバイトも何人か雇っていた。しかし生き残る為には、薄利多売である。ここ数年は利益が上がらない。

「年間の総売上が一千万ぐらいでさ・・・でも人件費を払ったら利益は20パー、年間200万の収入だよ。それでも人様に迷惑かけるでなく自分ひとりつつましく生きていくには、オレもこの歳だし贅沢しなきゃギリギリ何とかなるんだけどね。でも消費税が10%になったら・・・」

消費税が10%になったら、売上げ一千万円に対し10%で、年間100万円の徴税が来る。つまり深沢七郎は、年収200万円のなかから100万円の税金を支払わなければならないのである。これが消費税というものの正体である。たとえ収入がマイナスであっても徴税される。消費税制は、自営業・中小零細企業潰しの税制なのだ。その一方で消費税制は、輸出戻し税という輸出型大企業に対する大規模補助金制度のような抜け道が設けられているのであるから、まるで自営業・中小零細企業からカネをまきあげて、経団連の大企業に横流ししているようなものである。

「増税分を価格転嫁も出来ねえしな・・・」

人間には色々なタイプがある。サラリーマンに向いている人もいれば、そうでない人もいる。深沢七郎はサラリーマンに向いていない。それで自営業をしているのだが、このままでは店を畳んで、イオンにでもアルバイトの職を求めに行かなくてはならなくなりそうだ。しかしオレのような爺さんを雇ってもらえるだろうか・・・。

(アルバイト・・・)

ふと深沢七郎は、日本維新の会が最低賃金制度の廃止を言っていた事を思い出した。日本がTPPを締結・批准したら、最低賃金制度も“非関税障壁”と見做されて、「ガイアツ」により本当に廃止されるかも知れないな・・・。するとアルバイト時給800円の相場が600円、500円、400円と下がり・・・・・・。

(ちょっと待てよ・・・)

不意に深沢七郎の脳裏をある考えが掠めた。ウチで働いているアルバイト達の時給も今より2~300円、いやそれ以上安く出来れば、消費税が10%、15%、それ以上になっても、なんとか店を維持してやっていけるかも知れない・・・・・・

(イヤイヤ駄目だ!)

深沢七郎はハッとして我に返った 。( それじゃ負の連鎖だ!それじゃオレが官僚と大企業から搾り取られた分を、アルバイトから搾り取っているだけじゃないか!おそろしい、おそろしい負の連鎖、搾取の連鎖だよ!!そんな事をしてまで店を維持するのであれば、思い切って店を畳んじまった方がよっぽどマシだよ・・・)そして束の間とはいえそんな事を考えてしまった自分をいまいましく思うのだったが、そこで眼の前に立っていたオレの視線に気付くと、急にあわてて赤面してしまうのである。

オレはただ客としてそこで今川焼きが焼けるのを無言で待っていただけなのであるが、深沢七郎はまるで自分が一瞬よこしまなことを考えてしまったのをオレに咎められている様な気がしてきてしまい、急にあたふたと身体を動かし始めたかと思うと、「はい、これサービスな。」と言って今川焼きを一個多くオレに寄越すのである。

客を見送ってひとりになると深沢七郎はあらためて「TPP・・・」と一言呟いた。その顔からは、先程までの笑顔は、完全に消えていた。



<無憂荘>=sans-souci というネーミングには、確かに美しい理想が込められている。しかし自分の経営するゲストハウスに<無憂荘>と名付けた女主人は、かつて自分の夫をアイルランド独立運動の闘士として銃殺され喪ったという過去を持っていたのである。

現代の<無憂荘>、われらが大マスコミは、今までに一度でも自分達の保身以外のものの為に闘ったことがあったであろうか?「自分達さえ良ければ、世の中なんてどうなったって構やしない。」テレビを観ていると、どんな種類の番組を観ていても、彼らがそう言っている様にしか聞こえない。

-君も、第二段階に入ったね・・・

権威の象徴たる白衣を身にまとってオレにそう語りかけてきた老医師は、そのあと続けてこれからの治療方針の変更プラン等をオレに説明し始めたが、オレはもうそれを聞いてはいなかった。オレはもうお前には従わない。オレは動物的段階に突入したのだ・・・。

薄ぼんやりとしたまどろみの中に生きて来た少年のオレは、それまで一度も思い付きもしなかった行動に出る事にした。病院を変えたのである。子供の行動範囲は意外に広いとも言えるが、しかしやはり子供なりである。それまで数年間通い続けたその病院も家から数キロ離れていたのだが、そこからさらに数キロ離れたもうひとつの病院がある街は、オレのテリトリー外だったのである。

動物的本能に帰り危機を直感したことで、少年のオレはテリトリーから足を踏み出し、鼻詰まりも数ヵ月後にはあっけなく回復した。しかし今われわれの直面しているこの危機はどうだろう。これからもずっとこの日本で暮らしていこうと思っている限り、この危機は逃走によって解決することは出来ないのだ。逃げることは出来ない。

「戦後民主主義」の“底が抜けた”。重ねて言うが、それが今の状況である。手をこまねいて傍観していれば、おそらくわれわれ自身が谷底に転げ落ちていくだろう。しかしその底穴からこちらの方へと、流入して来るモノがある・・・。

われわれが除け者扱いして忘却しようとしていた、深沢七郎がそれなのである。深沢七郎はわれわれが来るのをずっと待っていて呉れたのである。“庶民”を描き続けた彼は、「戦後民主主義」の底流を彷徨する人だった。「戦後民主主義」の時代を、もっともいい加減に、自由奔放に、そして「ゲヒン」に生きた深沢七郎は、しかし「自分さえ良ければ、世の中なんてどうなったって構やしない」などとは、決して考えない人だったのである。



2012年総選挙の挫折にわれわれは地に伏し、跪いたが、顔を上げてみるとそこには、『楢山節考』のおりんが、超然と立ってわれわれを見つめていた。しかもその背後には、あの総選挙からまだ3ヶ月しか経っていないというのに、早速の公約詐欺(公約破りより邪悪だ)のTPP参加というどす黒い大嵐が、今まさにわれわれの方に襲い掛かって来ようとしているのだ。

TPPとはなにか?それはおりんとわれわれの、際限無き欲望の膨張体たる悪魔達との、おそらく最大にして最後の闘いである。もしこの闘いにわれわれが敗れれば、われわれはおりんを失い、そしてすべてを失うことになるだろう。

本質を見失い無言の社会的権威と化してわれわれを苦しめていた「共生」指向の最深部には、楢山に鎮座する強靭な“母”としてのおりんがいたのである。おりんを守る為に、われわれ一人一人がそれぞれの立場で何を為すべきか考え、行動すること。おそらくそれが、独自の道を歩み始めたわれわれの「自立」への旅の、唯一の方法である。

われわれが思いを滾(たぎ)らし、声を挙げ続ければ、今はやはり山の神になっている深沢七郎が、きっと胸躍るようなリズムと音色で、ギター伴奏を奏でてくれる筈である。








おまわりさんのお家が長かったので、その分考えることも多く、ついつい長々と書き綴ってしまった。疲れたので、ブログの更新はまたしばらく滞りそうである(笑)。TPPに関してまだ自分は少々<無憂荘>の住人であるなと感じる向きには、たとえば兵頭正俊氏のブログなどが参考になるのではないか。



『NかMか』
アガサ・クリスティー(深町眞理子訳)

Norm




『楢山節考』
深沢七郎

Narayama






安倍総理のTPP交渉への参加表明を受けて
http://www.seikatsu1.jp/activity/act0000039.html

平成25年3月15日
生活の党代表 小沢一郎

 本日、安倍晋三首相が環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加表明を行った。生活の党はかねてより、TPPが単なる自由貿易協定ではなく、日本国民の命と暮らしを脅かし、社会の仕組みの改変を迫る異質な協定であることから強く反対してきた。しかし自公政権が日本の国益を守るより、米国の言いなりになり、TPP交渉に参加表明したことは、国家百年の大計にもとる重大な誤りであり、即時撤回を強く求める。

 世界やアジア各国の成長を日本に取り込むために自由貿易を促進し関税や非関税障壁を撤廃し、人、モノ、金、サービスを自由に行き来させることによって、新たな可能性が広がることは事実である。しかしTPPは、農業生産者が指摘するように、「単なる農業分野の関税引き下げ問題ではない。米国主導であらゆる規制の緩和、ルール改正を同時並行で進め、国民の命と暮らしよりも大企業の利益を最優先する。食の安全・安心、医療、外国企業からの訴訟など多くの問題を抱えている」など、国民の生命と財産を守るための協定では全くないのである。

 加えて、今参加表明しても、先般シンガポールで開催されたTPP準備会合で明らかになったように、米国側は各国交渉者に「日本が交渉に参加した場合、すでに確定した内容について再交渉も文言修正も認めない上、新たな提案もさせない」と伝えている。この交渉実態を見れば、安倍首相の「TPP交渉は聖域なき関税撤廃が前提ではない」との主張が全くの欺瞞であることが分かる。自民党の衆院選公約である6項目は到底守られず、公約破りは明白である。

 米国の市民団体もTPPの草案文書を基にして「TPPは表向きは貿易協定だが、完全な企業による世界統治だ」と告発している。国民の生命、財産を守ることが国政を託された国会議員の最大の使命であり責務である。自公政権は今すぐ、TPP交渉への参加表明を撤回すべきである。

 今、日本政府が最優先すべきは、命、暮らし、地域を守るために震災復興、被災地域再生、原発事故の早期収束、原発ゼロへのエネルギー政策の大転換である。生活の党は引き続き、日本政府のTPP交渉参加阻止に向け、各界各層と連携し闘っていく。

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2012年12月15日 (土)

いつか来た道・・・消費増税の「信を問う」、3.11後初の国政選挙が、マスコミの止められない止まらない“禁句ゲーム”の結果、いつの間にか大政翼賛会軍国政権の承認選挙に・・・



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先月末のYahoo!サイトの世論調査でも政党支持率44%で断トツ1位だった「国民の生活が第一」が、NHKや朝日新聞の世論調査では0%。「日本未来の党」に脱皮した現在でも、マスコミの公表する世論調査の数字には大差ない。

NHKの「ニュースウォッチ9」は選挙公示日の12月4日、いつもの大越・井上コンビに小池政治部キャップも加えて30分強の選挙特集を組んだが、その間誰一人として、唯の一度も“消費税”という単語を口に上らせなかった。あたかも“消費税”と口に出したら負け、というルールの禁句ゲームを仲間内でやっているかのようであった。

そしてこの”禁句ゲーム”の暗黙のルールが支配する“嫌な感じ”が、選挙戦が進む日毎に質量を増し、領域を拡大エキスパンドし、電気的に増幅されて、日本国土全体を包みこんでいる感じだ。『革命前夜』という映画があったが、この感じは“発狂前夜”とでも形容しようか。重苦しい今にも破れそうな均衡。あるいは“革命前夜”というものは、“発狂前夜”と等号で結ばれるべきものなのかもしれない。

“消費増税”の「信を問う」解散・総選挙が、メディアスクラムの歪曲的なウソによって、いつの間にか“景気・雇用対策”を問う総選挙ということになり、十数も有る政党の経済対策の差異が、饒舌に微細にマスメディアから語られる。(基礎的な経済学的知識の無い人間なら、聞けば聞くほど混乱し、選挙に行きたくなくなるだろう。)

在京新聞社・テレビ局は言うに及ばず、地方のラジオ局のニュース・アナウンサーやローカル情報番組のパーソナリティにいたるまで、“景気・雇用対策や社会保障政策などが主な争点となる今回の総選挙ですが・・・”と滔々と落着き払って喋っている。漫画の世界なら、カーラジオを聴いていた車がそこら中で同時多発追突事故を起こすところだが、現実にはそういうことは起こらない。発狂しているのは彼らの方で、われわれの方はまだ正気を保っているからだ。

国民経済がジリ貧状況に突入してから二十年余、何をするにも身銭が無くては始まらない世なのであるから、景気・雇用が最大の関心事であるというのは、「今更お前に言われなくとも・・・」という類の話なのであるが、

しかし、「景気・雇用」を重視するなら、「消費税増税」問題を避けて通ることはできない。

「消費税増税」問題こそ、今回の総選挙後の日本経済を左右する主軸の問題であるからだ。

年額13.5兆円の超巨大消費税増税を実行して「景気・雇用」問題を重視するということ自体が、根本的な論理矛盾なのである。

「景気・雇用」問題とは、今回の総選挙に当てはめれば、まさに「消費税増税」問題そのものということになる。

   (植草一秀の『知られざる真実』 12月10日


しかし“嫌な感じ”の“禁句ゲーム”に支配された言論空間では、こうした本質的な議論は徹底的に無視されている。

TPP・オスプレイ(=沖縄基地問題)も重要な問題だが、どちらも他人事のように思っている国民が多い現状、選挙の争点としては浮上しにくい状況である。あの3.11後初の国政選挙であるという意味で、国民の意識の変革の有無が(国際的にも)大きく問われているのが、原発・エネルギー政策問題ということになるのだが、こちらの方面でもマスコミは意図的に正確な情報を伝えないので、再稼動・再建設を容認する民主党と、再稼動即時ゼロ、10年後を目途に全原発を廃炉に、というロードマップを提示している未来の党との差異も、テレビを見ていたら良く分からない。党もろとも“フェードアウト”しそうなデタラメ維新はともかく、自民党候補者でさえ地元では原発反対を唱えていたりするので、尚更である。

するとこの禁句ゲームのルールはなかなか複雑なように思えてくる。ここでは一転誰もが脱原発を叫び、自他の差異を無化しようとしているのであるから・・・。



しかしこのふたつの現象から導かれる結論は、実はとても単純なものだ。ふたつの人為的現象が二重蓋のように丁度重なる、その埋没点に「未来の党」があり、「小沢一郎」があるという事が、ちょっと視点をずらすと鮮やかな図象が浮かび上がる透視細工図のように、客観的な視点からは明々白々であるからである。

三年前の総選挙の民意を反故(ほご)にする民主・自民・公明三党の談合消費増税法案成立の動きに対し、最後まで正論を説き続け、結果毅然として反旗を翻し、民主党と決別したのが、小沢一郎率いる「国民の生活が第一」という集団だったのであり、うわべ口先だけの「脱原発」でなく、本気でそれを実現するために一足先に10年内全原発廃炉を決定したドイツに調査に赴き、現地の関係者と協議してその実現可能性を確かめてきたのも、小沢一郎と「国民の生活が第一」であり、その彼らが大飯原発再稼動停止を目指す過程で中央政府・財界の強大な圧力を身をもって感じ、国政進出の可能性を模索していた嘉田由紀子滋賀県知事と合流したのが、「日本未来の党」であるからである。彼らこそが、脱消費増税・脱原発・脱中央官僚統治を体現できる最大政治勢力であることは明白な客観的事実であり、この“禁句ゲーム”の主催者達が死に物狂いで覆い隠そうとしているものである。



日本全体を巻き込んだこの“禁句ゲーム”が執拗かつ徹底的に敢行され続けた先に、どのような結果が待ち受けているのであろうか?大手新聞各社の発表した選挙戦中途の情勢分析によれば、自民党が単独過半数越えで圧勝である。

今の自民党は、タカ派と保守、中道リベラルが拮抗し、多様な考え方を取り込む国民政党として機能していたかつての自民党ではない。右傾化と小泉以降の格差拡大・弱者切捨て経済政策の方向に純化されつつある政党である。そのなかでも右傾化の急先鋒でやや思慮深さに欠ける感のある安倍晋三が再び総裁となり、軍事費増強、国防軍、憲法改正等を選挙公約に打ち出して、中国と事を構えたくてウズウズしている感じだ。その一方で自民党は福祉費の削減を明言している。

そこに同根仲間の維新やみんなの党、談合仲間の公明党や民主残党までが加わって、すさまじいまでの大政翼賛会政治が眼の前に現れようとしているのである。彼らはこれからも表面的にはお互いに対立しているように見せるだろう。しかしそれはほとんどの場合ウソであり、実態はジャレ合いと取り分争いの小競合いでしかない。

これが“禁句ゲーム”の行き着く先である。この三年間の民主党政治に失望し憤慨した国民が、“禁句ゲーム”の支配する言論空間のなかで投票先が分からなくなり、そのお仲間の自民党(しかも変容した悪しき自民党)に投票したり、棄権したりするのである。

われわれはこのような“禁句ゲーム”が、かつてこの日本でやはり同じ様に大々的に行なわれ、悲惨な結果をもたらした過去を、歴史の事実として持っている。その時も主役を務めたのはやはりマスコミであり、国民の戦意を煽り、悲惨な戦争へ突入させ、戦中もウソの大本営発表を垂れ流して、三百万人以上の戦死者をもたらしたわけであるが、その間その意に反する言動を唱えたものは“非国民”とまで言われて、虐げられたのである。

なぜそのようになるのか?ならざるを得ないのか?

それは彼らの“禁句ゲーム”において禁句となるのが、“真実”に他ならないからである。“真実”をあらかじめ迂回すべく定められた社会の行き先は、“集団発狂”しかないのである。

彼らはすでに発狂段階に在る。そしてわれわれにも発狂せよ、となお執拗に訴えている。止(や)められないのだ。このような状況では、われわれは己のなかの正気と照合して、自分の足が地面に着いている事をいちいち確認しなくては生きられない。それが“嫌な感じ”の正体である。



“禁句ゲーム”は際限無くエスカレートする。禁句を人々の口にのぼらせないようにする為には、飛び道具だって使う。目眩ましのイミテーション・ゴールドは、まばゆければまばゆいほど、勇ましげであれば勇ましげであるほどよい。北朝鮮の“事実上のミサイル”(?)が発射されたとされる12月12日の翌13日、TBS(同じ下っ端のフジ・産経グループが“汚れ役”担当なら、毎日新聞・TBSは“特攻役”担当とでも称するべきか?こう言うとなんだか格好よく聞こえるが、偏向捏造報道記者クラブ集団のなかでも、そのキモチワル度は断トツNo.1である)の「ニュース23クロス」は選挙特番で各党党首をスタジオに招き、討論会形式で総選挙における争点を議論する、という趣旨であったが、案の定、“ミサイル”よ、待ってました!とばかりに軍事防衛・憲法改正・集団的自衛権問題にそのほとんどの時間を割いた。

軍事会議さながらの議論が飛び交うなかで、それまで沈黙していた未来の党の嘉田由紀子は、日本は現在原発という危険な爆弾を54基も懐に抱えており、これらが敵対者の標的になったら、それこそ国土に取り返しのつかない壊滅的な被害を受けることになる事の危険性を訴えた。嘉田はこの時、それまでその場で展開されていた表層的な議論を無化して、日本の安全保障問題の核心部分に触れようとしていたのだが、司会者はその話を継ごうとはしなかった。

この時以外にも、嘉田が発言した時には司会進行役の播磨卓士はことごとく話を中途でさえぎっていたが、そもそもこの討論会企画自体が未来の党を埋没させる目的で企図されたものである。12党の党首にその現有議席数に比例する時間を割いて話を聞くというのではないので、一応挙手発言方式で公平なように見えるが、次期総理大臣候補筆頭の安倍晋三と現総理大臣野田佳彦が議論の中心となる一方で、弱小政党の党首はここぞとばかりに目立とうとして前のめりになるので(笑)、現有議席数62で数的に第三勢力である未来の党が one of them となる仕掛けである。

正論を訴え続ける未来の党だが、悪企みに関しては敵の方が上手である。彼らの土俵に乗っかって闘って行く方法論には、いずれ限界があるようだ。なぜなら“禁句ゲーム”のルールに則ってゲームに参加している限り、主催者たる彼らの止められない止まらない“禁句ゲーム”はどんどん増幅エスカレートして、われわれを終局的な破滅に導くまで、ゲームを止めそうにないからだ。相手は発狂しているのである。

明日投開票が行なわれる総選挙の結果の如何に関わらず、その後のみちすじはわれわれに見えている。このゲーム自体を終わらせるのだ。 ”禁句”について、堂々と語るのである。そしてゲームのルール自体を無効にするのだ。



「日本未来の党」の結党が発表された直後の11月29日、会見で記者に嘉田知事と小沢一郎を引き合わせたのはあなたか?と問われた達増拓也岩手県知事は、「二人を引き合わせたのは民意です。」と答えた。その場に居合わせた記者達からは失笑が漏れたという。毎日新聞の記事は知事が「はぐらかした」と揶揄している。

しかしそのニュース映像を偶々観ていたオレは、そう言った時の達増知事のキッパリした口調と、晴れやかな前を見据えた表情に、少なからぬ感動を覚えた。

今こそわれわれは「小沢一郎」について語らねばならない。今までのような仕方ではまだ不充分なのだ。「小沢一郎」こそが、彼らの“禁句ゲーム”のその核心にあるものなのだ。昨日のプロ野球の結果について語るように、今日の天気についてそうするように、小沢一郎について語るのだ。 太平洋戦争という悲惨な結果を導いた兇悪な“禁句ゲーム”の化身が、六十余年を経て、再び鎌首をもたげている。おそらく「小沢一郎」とは、この六十余年の戦後日本史における、最大の禁句(タブー)として現存する者なのである。このタブーを破らなければ、われわれに新しい未来は無い。

嘉田由紀子は、その為の最高の語り部となるべく、選ばれたのである。彼女の国政政治家および政党党首としての手腕はまだまだ未知数だが、その語り口とそこから滲み伝わる思想からは、少なくとも菅直人や野田佳彦などといった連中とは、人間の器が違うことはハッキリ分かる。

良き語り部を得て、小沢本人もじわじわと、しかし堂々と、前面に出て行くだろう。ゲームのルールのなかで闘うのではなく、ゲームそのものを破壊するのである。自分が前に出て行かないとこのゲームは終わらないと、小沢自身も悟りつつあるのではないか。或いは彼の事であるから、その時機が来るのをじっと待っていただけかも知れないが。




悪党と女のエロスが手を結ぶ時、社会に変革が訪れる。




再稼働反対集会に小沢氏登場 参加者「マスコミ帰れ」の怒号
(田中龍作ジャーナル)







“発狂前夜”≒“革命前夜”




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2012年5月12日 (土)

Mr. Saxobeaaaaaaat !



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暗黒司法?いいえ、暗黒国家です。

尻に火のついた悪魔達が、ついに阿波踊りを始めました。

どうせ死ぬなら踊らにゃソンソン。音頭取りが仙石由人というのなら、
良く出来た漫画だが・・・。

今年に入ってブログの壁紙が変わったあいば達也氏、あるいは酒を手控えているのであろうか(笑)、5月10日付記事の筆致が冴えている。熟読すべし



指定弁護士が控訴?フーン。

検察が自分達の体面を守るために無理筋を承知で控訴というのなら有り得そうな話だが、検審起訴裁判で只の代理人に過ぎない指定弁護士が控訴するというのは、一体誰の為なんだろうね?しかも被害者も何もいない瑣末な形式犯の有無を問う裁判でさ?一審判決直後の記者会見でもお互いに顔を見合わせて「控訴審は勘弁だよな~」という空気感全開だったのが、どういう風の吹き回しで豹変したのかね?

まあ、主謀者が海の向こうだろうが、腐れ司法官僚を中心とした取り巻き勢力だろうが、この際どうでもいい。まとめて面倒見てやろう。海の向こうはどうせ尻尾をあらわしゃしないし、先ずはあいば氏の言う通り、これほどまでに鼻先で愚弄されたのである、心置きなく国内クズ勢力を一掃して、「米国からの独立と自らの足で立つ、自己責任の日本政治の確立(すること)が急務なのである。 」そして海の向こうと向き合うことだ。


クンクンクンクン、燃えているのが自分の尻とも気付かず、何かが焼ける甘やかな匂いに誘い出され、この機を窺っていた悪魔の手先の先鋭どもが、ここぞとばかりにしゃしゃり出てきて、見るに堪えないへっぽこ踊りを始め出す。

やれ証人喚問だ、説明責任だ、国民の理解が得られない、云々。

暗黒NHK(キモチワル・・・)の『ニュースウォッチ9』大越健介は控訴決定の当日、したり顔で「国会の場と司法の場のニ正面から、あらためて説明責任を問われることになります。」などと解説垂れていたが、悪魔の論理にそもそも「正面」などというものは存在しないだろうに。正義と真正面から対面したなら一瞬のうちに燃え尽きて塵と化すのが、悪魔の業である。だから謀略裁判の内実についても一度たりとも正面から向き合わないし、どこまでも国民に嘘をつき続ける。

控訴決定に喜びを隠せないCIAパシリ印刷局(キモチワル・・・)読売新聞の以下のような希望的観測記事なども、われわれが意に介する必要などまったく無いものだ。


小沢氏、あわただしく自宅へ…復権戦略練り直し


民主党の小沢一郎元代表の陸山会事件をめぐる裁判の継続が決まったことで、9月の党代表選への元代表の出馬は困難になったとの見方が党内で強まった。

元代表の「復権」戦略は早くも練り直しを迫られることになった。

元代表は9日昼に東京・赤坂の個人事務所で側近議員と今後のグループの活動などについて協議した。しかし、正午過ぎには、あわただしく東京・深沢の自宅に帰り、午後の日程はすべてキャンセルした。

元代表に近い鳩山元首相は9日、「(控訴は)全く想定していなかった。残念だ」と記者団に語った。

小沢グループ内では、元代表の復権に向けて強気と弱気の声が交錯した。元代表が会長を務める「新しい政策研究会」のメンバー約30人は9日、緊急会合を開き、10日に抗議声明を出す方針を決めた。同会事務総長の東祥三元内閣府副大臣は記者会見で、「無罪は無罪だ。党員資格停止処分が解除されたから、今まで以上に日本再生に向けて全力で活動しないといけない」と強調した。

ただ、国会内の元代表の事務所に駆け付けた若手女性議員は「力が抜けた」と肩を落とした。

控訴審は来年まで続くとの見方が出ており、「裁判しながらの代表選は困難だ」と見る向きも党内には多い。仮に代表選に勝利しても、刑事被告人のまま首相の職責を果たせるのか疑問視されているためだ。

(読売新聞 5月10日)



「刑事被告人のまま首相の職責を果たせるのか疑問視されている」?その前に暗黒謀略裁判の実態全容が次々と国民衆目の前に明らかになって、読売新聞の職責と存在意義の方がよほど疑問視されるようになるだろうことを、心配した方がいいだろう。

「若手女性議員」が「力が抜けた」と言ったのは、読売はわざと曲解しているが、指定弁護士のトンデモ控訴の度し難い阿呆らしさに、思わずズッコケタということだろう。



私は元代表の控訴の件は国民の指定弁護人への疑惑や不信が高まっただけで「復権シナリオ」とやらが遠ざかったなどとは微塵も感じていない。意気消沈してる議員が誰だか知りたいものだ。これで得した人は誰もいない。消費増税の造反?マスコミの表現はおかしい。マニフエストを守るのは造反ではない。



マスコミの声は、国民の声ではない。国民を不幸に陥穽させる悪魔の声である。マスコミの死出の火炙りヘッポコダンスに付き合うほど馬鹿馬鹿しいものはない。

祝・国民政治家小沢一郎、党員資格停止処分解除!

悪魔達はこのトンデモ控訴で小沢一郎の座敷牢からの解放を食い止めたように思っているのだろうが、大間違いだ。

小沢一郎もそして彼を支える民主党議員達も、毅然として堂々と政権奪還の道を歩め。無罪推定の原理も弁えないキチガイどもが発狂したように何を喚きたてようが、一審無罪判決の事実は重い。追い詰められているのは奴らの方だ。

小沢一郎は堂々と9月の代表選に出馬すべきだ。悪魔どもはいよいよ発狂して「道義的、政治責任」などと自分でも意味の分かっていない言葉を持ち出して騒ぐのだろうが、国民の大半はそんな奴らにこそもう心底ウンザリしているのだ。オニキモオカマちゃんの朝日新聞あたりは多分、「あいた肛門がふさがらない」とでも嘆くのであろう。

小沢一郎の政治活動は何ら制約を受ける謂われはないし、それどころか、悪魔達が誰の目にも明らかな卑怯なる窮余の愚策を弄したことによって、却って今まで眠っていた大いなる存在達までもが真実の声の方に目覚め、大地より出で解き放たれいくことになるだろう。つまり彼らの最も畏れていた事態が起こるということだ。

キチガイどものこれ以上のヘっぽこ踊りは、国民に憎悪と嫌悪しかもたらさない。植草一秀氏も言っている。 「弘中惇一郎弁護士の真実を見つめる透明な眼と、指定弁護士の死んだ魚のようなくすんだ眼をよく比較していただきたい。目は口ほどにものを言う。本物と偽物を見分ける眼力が重要である。」

国民の大半はすでに気付いている。その数は今後増えることはあっても、減ることは無い。




前回記事に5月5日付で野郎どものWARRIOR’S SONGを紹介したので、今日は悪魔に捉われていたLADY達の大地母神を、今風に呼び覚まし、解き放してみることとしよう。

Alexandra Stan - Mr. Saxobeat  (Live)





サクソビーツ/アレクサンドラ・スタン

Saxobeats_





これ見てると、カルト一神教的な世界観にかなりの部分毒されている感のあるハリウッド・エンターテイメントの現況に比して、まだしもヨーロッパの芸能の方が、健全なるプリミティブへの回帰志向を保持しているように、オレには思えるな・・・。(サルコジも退陣だし。)

もちろんわれわれ日本人も、その先を行かねばならん。


HEY, SEXY BOY !
Mr.saxobeat



(小沢軍団、全くひるんでいません。・・・新政研H.P


※追記:われわれひとりひとりがそれぞれ小さなMr.Saxobeatとなって、大地母神に
働きかけていくことも肝要ですな。優しくネ。


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2012年1月27日 (金)

なでチンコJAPAN


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2011年の流行語大賞はてっきり「登石郁朗」(といしいくろう)だと思っていたのだが、候補にも上らないという茶番だったようである。

今年はさしずめ「勝栄二郎」(かつえいじろう)や「香川俊介」(かがわしゅんすけ)あたりが、目下のところ悪名を巷間にとどろかす最有力候補であろうか。通常国会の開会とともに財務省から再号令がかかったらしく、夜のテレビニュースはどの局も“政治家は増税から逃げるな!与野党協議せよ!”の大合唱。現実から眼を背けているのはお前等だろが。

野党も呼応して民主党に年金制度改革案の具体像を示せとやり出したが、これも財務省ペースのシナリオだ。権力の犬・テレ朝『報道ステーション』のクズペテン師・古館伊知郎がこれに先んじて、うやうやしく年金制度崩壊とやらについて今更ながらに熱弁振るっていたのが、その証左である。どのみちいくら議論の俎上に載せても、自民の反対している民主の年金改革案がいまのねじれ国会で進展するはずもなく、消費増税の“必要性”だけがクローズ・アップされるのである。消費増税の為に年金改革の旗だけ利用する、まさに本末転倒の、官僚どもの考えそうな策略である。

この消費増税を画策する主犯達の他にも、昨年末に週刊ポストがスクープ(しかし官僚様とオトモダチの新聞・テレビは完全黙殺)した、財務省から“天下り”の駐クロアチア大使で、現地女性職員にセクハラ行為を執拗に繰り返していた破廉恥国辱外交官・「田村義雄」(たむらよしお)なんていうダークホースも居るし、経産省きっての“知米派”、TPPに欲情する色魔女・通商機構部長「宗像直子」(むなかたなおこ)という存在も侮れない。

いずれ劣らぬ錚々(そうそう)たる流行語大賞候補揃いであるが、それらにも増してやはり今後その挙動を全国民が最注視すべきなのは、現在進行中の小沢裁判で裁判長を務める、「大善文男」(だいぜんふみお)なる人物であろう。

何しろ死せるマスコミ、暗黒新聞・暗黒テレビがほとんど取り上げなかったので未だに知らない人も多いのかも知れないが、昨年末12月15日の小沢一郎に対する“強制起訴”裁判内において、大阪地検特捜部によるフロッピー改竄事件に匹敵する重大な検察の不正が、当の捜査担当検事の証言によって明らかになっているのだ。

石川知裕議員の調書を取った元東京地検特捜部の田代政弘検事が、捜査報告書を捏造し、架空のやり取りを虚偽記載していた事が、弁護側の尋問によって明白になったのである。しかもこの田代検事の虚偽の報告書が検察審査会の小沢氏起訴議決の重要根拠となっているのであるから、この裁判自体が即刻取り止めになって然るべき重大不正の発覚である。

小沢裁判でも捜査報告書の捏造疑惑 フロッピーだけではない 検察の大罪再び!?-「週刊朝日」1月20日号
捜査報告書「捏造」検事を市民団体が刑事告発 陸山会事件、衝撃の事実-「週刊朝日」1月27日号 


事ここに及んで、小沢裁判とは一体何なのか?
われわれ日本国民はここであらためて、田中良紹氏の以下の言葉に、心して耳を傾けるべきであろう。


田中良紹の「国会探検」 2011年12月18日

検察崩壊

 検察審査会によって強制起訴された小沢一郎氏の裁判で、陸山会事件を担当した二人の検事が重大な証言を行なった。その証言を聞いて、検察組織をいったん解体して作り直さなければならないと痛感した。

 この裁判が終ったら、結論が有罪だろうが無罪だろうが、立法府は国政調査権に基いて検察組織を徹底調査し、民主主義国家にふさわしい捜査機関に作り変える必要がある。日本が民主主義国家たらんとすれば、それは立法府の当然の使命である。

 一昨年の3月に私は『予言が現実になった』というブログを書いた。小沢氏の大久保隆規公設第一秘書が西松建設事件で突然東京地検に逮捕されたからである。07年の参議院選挙に自民党が惨敗した時、私は「自民党は民主党の小沢代表をターゲットにスキャンダルを暴露するだろう」と予言した。それが私の知る自民党のやり方であり、それ以外に政権交代を阻止する手立てはないからである。その予言が現実になったのである。

 しかし大久保秘書の容疑は政治資金規正法の虚偽記載という形式犯で、しかも西松建設からの献金を実体のない政治団体からの献金と偽ったというものである。ところが政治団体には実体があり、検察の言いがかりに過ぎない。普通なら逮捕も考えられないし、起訴しても無罪の可能性がある。狙いは他にあると私は思った。

 それは小沢氏に代表を退くか、もしくは政界引退を促す検察の脅しである。大人しく言う事を聞けば秘書は起訴しない。しかし言う事を聞かなければ捜査を拡大し、必ず犯罪の証拠を握って見せるという脅しである。政権交代が確実な情勢なのにあなた一人が頑張ると民主党全体に迷惑をかけますよと検察は言っているのである。これに小沢氏がどう対応するかを私は注目した。すると小沢氏は痛烈に検察を批判し戦いを宣言した。

 恐らく検察は怒り心頭に達したに違いない。しかし追い込まれたのは検察である。いかにバカなメディアを煽り、バカな国会議員を煽っても、西松建設事件だけで小沢氏を政界から葬り去る事は出来ない。検察は有罪に出来る保証のない形式的な事件で大久保秘書を起訴せざるを得なくなった。

 その起訴を見届けてから小沢氏は鳩山由紀夫氏と代表を交代し、幹事長として選挙の采配を振るった。西松建設事件の影響は最小化され、日本で初の政権交代が実現した。これで検察はますます窮地に追い込まれた。何とか小沢氏と企業との関係を洗い出し、裏金を見つけ出さなければならない。必死の捜査が始まったのは政権交代の後である。

 ところが何も出てこない。出てきたのは嘘を言って前の福島県知事を逮捕させた水谷建設だけである。小沢氏側に1億円の裏金を渡したとの証言を得た。水谷建設は札付きの企業で、金を貰った政治家は政界にも地方自治体にもごろごろいる。水谷建設は叩けばいくらでもホコリが出る。だから検察がお目こぼしをすると言えば嘘八百を言ってでも検察に協力する。そんな企業しか見つからなかった時点で検察の負けなのだが、それでも叩けば何か出ると検察は考えた。

 そこで無理をして陸山会事件に着手する。これも容疑は政治資金規正法の虚偽記載である。小沢氏から一時立て替えてもらった4億円が記載されていないのを「裏金だからだ」と踏んで、「期ズレ」を虚偽記載として秘書3人を逮捕した。私にはこれも言いがかりに見えるが、秘書3人を叩けば何か出るだろうという「思い込み」捜査が始まった。

 それにしても検察は政権交代がかかる選挙直前に西松建設事件を摘発し、陸山会事件では現職の国会議員を通常国会の直前に逮捕した。かつて検察や警察を取材した経験のある私には信じられないやり方である。民主主義国家で最も尊重されなければならないのは国民の民意を問う選挙であり、国民の税金の使い道を議論する国会の審議である。捜査機関がそれに影響を与えるような事は決してやってはならない。それが民主主義国家の民主主義国家たる由縁である。その原理原則がいつの間にかこの国から消え失せていた。

 そこで『国民の敵』というブログを書いた。「思い込み」によって現職の国会議員を逮捕し、「ガセ情報」をマスコミに書かせ、国民生活に関わる予算審議を妨害した日本の検察は民主主義の原理を無視した「国民の敵」だと書いた。また起訴された石川知裕衆議院議員の辞職勧告決議案を提出した自民党、公明党、みんなの党は国民主権が何かを知らない哀れな政党だと書いた。

 結局、検察は裏金の存在を立証する事が出来ず、また政治資金規正法の虚偽記載についても小沢氏を起訴する事が出来なかった。完全敗北である。すると政治的に小沢氏を葬り去ろうとする連中が動き出した。検察審査会が小沢氏を強制起訴に持ち込んだのである。理由は検察が「シロ」としただけでは納得ができず、裁判所の判断も聞いてみたいというのだから呆れた。

 「11人の愚か者が1億3千万人の国民生活の足を引っ張る判断をした」とブログに書いた。政治を裁くという事の重さを知らない凡俗が日本を世界に類例のない『痴呆国家』にしようとしたのである。しかしこれは小沢氏を追い詰めるどころか検察を追い詰める事になる。検察は唯一起訴する権限を有するから権力を持っている。それが起訴できず、一般市民に起訴してもらうのでは自らの存立基盤を壊す。それに気づかず強制起訴に協力した検事がいたら相当におめでたい。「検察審査会の強制起訴は逆に検察を追い詰める事になる」と『オザワの罠』というブログに書いた。

 その時がやってきた。石川知裕衆議院議員を取り調べた田代政弘検事と大久保隆規氏を取り調べた前田恒彦元検事が証人として小沢裁判に出廷した。人間はどんなに本当の事を喋ろうとしても本能的に自分を守るものである。法廷の証言でも証拠がなければ嘘をつく可能性がある。だから二人とも自分の取り調べに間違いはないと証言したが、それを私は信用しない。

 その部分を除くとしかし二人は実に興味深い証言を行なった。田代検事は「合理的であれば調書に取り入れるが、合理的でない供述は入れない」と証言した。「合理的」とは検察のストーリーに合致した事を言う。つまり取調べとは真相を究明する事ではなく、検察のストーリーに都合の良い言質をつまむ事だと言ったのである。それなら取調べの意味はない。

 そして田代検事は昨年5月に石川議員の取調べを行った際、実際のやり取りとは異なる架空の話を捜査報告書に書き入れた事を認めた。その嘘の捜査報告書が検察審査会の強制起訴の議決に影響を与えた可能性がある。大阪地検の前田元検事による証拠改竄は事件になったが、同じような証拠改竄が東京地検でも行なわれていたのである。田代検事は「記憶が混同した」と弁解したが、前田元検事も当初は「意図的でなく誤ってやった」と弁解した。

 その前田元検事は、検察に忠実であろうとして検察から切り捨てられた立場だけに、陸山会事件の捜査に批判的だった。応援要請を受けて大阪地検から東京地検に来た時「これは特捜部と小沢との全面戦争だ」と言われたと言った。そして捜査は「虚偽記載」ではなく「裏献金」に主眼が置かれていたと言い、しかし現場は厭戦ムードで捜査に積極的だったのは特捜部長と主任検事だけだったと明かしている。

 小沢氏の4億円を企業からの献金とするのを「妄想」と言い、事件の見立て、つまり検察が描いたストーリーが間違っていたと言った。だから「私なら小沢氏に無罪の判決を下す」と言うのである。水谷建設から石川議員への裏金も検察内部では「石川は受け取っていない」と言われていた事を明かした。

 ところが前田氏も「検察の想定と違う内容は証拠にしない」と言うのである。つまり検察に都合の悪い証拠は検察によって「隠滅」されるのがこの組織では常識なのである。これは立派な犯罪ではないか。

 国民の代表である政治家と「全面戦争する」と言うのは、国民主権を認めない組織がこの国に存在する事を意味している。その組織に都合の悪い証拠は隠滅される。これほどの感覚のズレを正すのに自己改革など到底無理な話である。行政権力を監視し、それを変える力は立法府にしかない。立法府がこの問題に真剣に取り組まなければ、日本は民主主義の名に値しない国の烙印を押される。


この田代・前田証言を黙殺する一方で、年が明けての1月10、11日の公判において行われた小沢一郎に対する被告人質問の際には、新聞・テレビ報道がまたも各社一斉に低劣な小沢ネガティブ・キャンペーンを繰り広げたのは、記憶に新しいところである。田中氏の言葉を続ける。


田中良紹の「国会探検」 2012年1月12日

政治家の金銭感覚

 強制起訴された小沢一郎氏の裁判でヤマ場とされた被告人質問が終った。法廷でのやり取りを報道で知る限り、検察官役の指定弁護士は何を聞き出したいのかが分からないほど同じ質問を繰り返し、検察が作り上げたストーリーを証明する事は出来なかった。

 検察が起訴できないと判断したものを、新たな事実もないのに強制起訴したのだから当たり前と言えば当たり前である。もし検察が起訴していれば検察は捜査能力のなさを裁判で露呈する結果になったと私は思う。従って検察審査会の強制起訴は、検察にとって自らが打撃を受ける事なく小沢一郎氏を被告にし、政治的打撃を与える方法であった。

 ところがこの裁判で証人となった取調べ検事は、証拠を改竄していた事を認めたため、強制起訴そのものの正当性が問われる事になった。語るに落ちるとはこの事である。いずれにせよこの事件を画策した側は「見込み」が外れた事によって収拾の仕方を考えざるを得なくなった。もはや有罪か無罪かではない。小沢氏の道義的?責任を追及するしかなくなった。

 そう思って見ていると、権力の操り人形が思った通りの報道を始めた。小沢氏が法廷で「記憶にない」を繰り返した事を強調し、犯罪者がシラを切り通したという印象を国民に与える一方、有識者に「市民とかけ離れた異様な金銭感覚」などと言わせて小沢氏の「金権ぶり」を批判した。

 しかし「記憶にない」ものは「記憶にない」と言うしかない。繰り返したのは検察官役の指定弁護士が同じ質問を何度も繰り返したからである。そして私は政治家の金銭感覚を問題にする「市民感覚」とやらに辟易とした。政治家に対して「庶民と同じ金銭感覚を持て」と要求する国民が世界中にいるだろうか。オバマやプーチンや胡錦濤は国民から庶民的金銭感覚を期待されているのか?

 政治家の仕事は、国民が納めた税金を無駄にしないよう官僚を監督指導し、国民生活を上向かせる政策を考え、謀略渦巻く国際社会から国民を守る備えをする事である。そのため政治家は独自の情報網を構築し、絶えず情報を収集分析して対応策を講じなければならない。一人では出来ない。そのためには人と金が要る。金のない政治家は官僚の情報に頼るしかなく情報で官僚にコントロールされる。官僚主導の政治が続く原因の一つは、「政治とカネ」の批判を恐れて集金を自粛する政治家がいる事である。

 今月から始まったアメリカ大統領選挙は集金能力の戦いである。多くの金を集めた者が大統領の座を射止める。オバマはヒラリーより金を集めたから大統領になれた。そう言うと「清貧」好きな日本のメディアは「オバマの金は個人献金だ」と大嘘を言う。オバマが集めたのは圧倒的に企業献金で、中でも金融機関からの献金で大統領になれた。オバマは150億円を越す巨額の資金を選挙に投入したが、目的は自分を多くの国民に知ってもらうためである。そうやって国民の心を一つにして未来に向かう。これがアメリカ大統領選挙でありアメリカ民主主義である。政治が市民の金銭感覚とかけ離れて一体何が悪いのか。

 スケールは小さいが日本の政治家も20名程度の従業員を抱える企業経営者と同程度の金を動かす必要はある。グループを束ねる実力者ともなれば10億や20億の金を持っていてもおかしくない。それが国民の代表として行政権力や外国の勢力と戦う力になる。その力を削ごうとするのは国民が自分で自分の首を絞める行為だと私は思う。

 日本の選挙制度はアメリカと同じで個人を売り込む選挙だから金がかかる。それを悪いと言うから官僚主義が民主主義に優先する。それでも金のかからない選挙が良ければイギリス型の選挙制度を導入すれば良い。本物のマニフェスト選挙をやれば個人を売り込む必要はなく、ポスターも選挙事務所も街宣車も不要になる。「候補者は豚でも良い」と言われる選挙が実現する。いずれそちらに移行するにせよ今の日本はアメリカ型の選挙なのだから金がかかるのをおかしいと言う方がおかしい。

 ところで陸山会事件を見ていると1992年の東京佐川急便事件を思い出す。金丸自民党副総裁が東京佐川急便から5億円の裏献金を貰ったとして検察が捜査に乗り出した。捜査の結果、献金は「金丸個人」ではなく「政治団体」へのもので参議院選挙用の陣中見舞いである事が分かった。しかも既に時効になっていた。要するに検察が描いたストーリーは間違っていた。

 ところが検察はメディアを使って「金丸悪玉」イメージを流した後で振り上げた拳を下ろせなかった。しかし金丸氏を起訴して裁判になれば大恥をかくのは検察である。検察は窮地に立たされた。そこで検察は取引を要求した。略式起訴の罰金刑を条件に、検察のストーリー通りに献金の宛先を「金丸個人」にし、献金の時期も時効にならないよう変更しろと迫った。「拒否すれば派閥の政治家事務所を次々家宅捜索する」と言って脅した。その時、小沢一郎氏は「裁判で検察と徹底抗戦すべし」と進言した。法務大臣を務めた梶山静六氏は検察との手打ちを薦めた。この対立が自民党分裂のきっかけとなる。

 金丸氏が取引に応じた事で検察は救われた。そして金丸氏は略式起訴の罰金刑になった。しかし何も知らない国民はメディアの「金丸悪玉説」を信じ、余りにも軽い処罰に怒った。怒りは金丸氏よりも検察に向かい、建物にペンキが投げつけられ、検察の威信は地に堕ちた。検察は存亡の危機に立たされ、どうしても金丸氏を逮捕せざるを得なくなった。

 総力を挙げた捜査の結果、翌年に検察は脱税で金丸氏を逮捕した。この脱税容疑にも謎はあるが金丸氏が死亡したため解明されずに終った。世間は検察が「政界のドン」を追い詰め、摘発したように思っているが、当時の検察首脳は「もし小沢一郎氏の主張を取り入れて金丸氏が検察と争う事になっていたら検察は打撃を受けた」と語った。産経新聞のベテラン司法記者宮本雅史氏の著書「歪んだ正義」(情報センター出版局)にはそう書かれてある。

 小沢一郎氏は金丸氏に進言したように自らも裁判で検察と徹底抗戦する道を選んだ。検察は土地取引を巡って小沢氏が用立てた4億円の原資に水谷建設から受け取った違法な裏金が含まれているというストーリーを描き、それを隠すために小沢氏が秘書と共謀して政治資金収支報告書に嘘の記載をしたとしている。それを証明する証拠はこれまでのところ石川知裕元秘書の供述調書しかないが、本人は検事に誘導された供述だとしている。

 その供述調書が証拠採用されるかどうかは2月に決まる。その決定は裁判所が行政権力の側か国民主権の側かのリトマス試験紙になる。そして小沢氏に対する道義的?責任追及も民主主義の側か官主主義の側かを教えてくれるリトマス試験紙になる。


常識的に考えれば、この大善文男なる人物が一躍流行語大賞の有力候補に躍り出るような暴挙に出るとは考えにくいのだが、 登石郁朗という前例もあるし、司法におけるこの国の権力構造の実態(小沢強制起訴“黒幕”は最高裁事務総局 「ゲンダイネット」1月18日)を考えると、楽観ばかりもしていられない。

この国の裁判所は公正・中立な判断を下す機関として存続し得るのか?
この国の司法は民主主義を選ぶのか、官主主義を選ぶのか?
そしてわれわれ自身は民主主義を望むのか、官主主義を望むのか?

 ― 君は三権分立をどう考えているの?

国会での“説明責任”を問う記者に対する小沢一郎のこの切り返しを、当時批判する声を散見したが、行政官僚(検察含む)と司法官僚がおかしくなってしまっている時に、国民の代表たる立法府が仲間割れの足の引っ張りをしていてどうするんだ?それで民主主義国家が成り立つと君は思うのか?小沢一郎はこうわれわれに問いかけているとも思える。


・・・おっと、変てこな記事タイトルについて説明するのを忘れていたが、 これはもちろん2011年を彩った、国民生活と民主主義の根幹をないがしろにし、見苦しい自慰的行為に耽っていた悪徳権力者達を象徴するオヤジギャグ(堂々)のつもりである。あるいはこれを肯定的に捉えれば、「風が吹いただけでも○つ」というような感度良好な男子諸兄が、田中良紹氏のような正当な力強い見識に触れて、身体の内裡に何かが駆け巡るのを感じる事を願うものである。さもなくば、この国からなでしこなども、いずれ姿を消してしまう事になるやも知れぬ。



“俺が登石だ”
1月29日(日) 小沢一郎氏は無実! 新宿デモ



2011年の表紙大賞はもちろん「週刊ポスト」

Coverpage1


こちらも

Coverpage2




 小沢革命政権で日本を救え
-国家の主人は官僚ではない

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2011年11月 6日 (日)

TPPは地獄行きのバス/腐敗した米国型の体制を強要される/TPP賛成論者に欠けているもの、それは【国家主権】

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新聞やテレビをいくら見てもTPPは絶対に分からない。TPPの要点と本質について簡潔明瞭に述べたコラム記事が有るので幾つか転載する。


    TPPは地獄行きバス
    olive!news 10.31 em5467-2こと恵美

「知れば知るほど危険なTPP」

この言葉は民主党国会議員の複数がツイッターでつぶやいた言葉です。では、具体的に私たちの生活に何が危険なのでしょう。

一、労働の自由化
自由という言葉とは裏腹に、加盟各国からの労働者を拒めなくなる条項が入っています。日本より賃金が安い国からは、安価な労働者が、米国からは弁護士や医師がやってきます。オバマ大統領は韓国とのFTAと日本とのTPPで70万人の雇用を作り出すと宣言しています。就職氷河期といわれる日本でその分、雇用が失われます。移民と異なり選別したり、拒んだりすることは違反になります。大企業製造業がTPPを促進せよ、と迫っているのは、日本人の非正規雇用者よりも安価な労働者が手に入るからで、競争力強化とは異なり、利潤を上げる為です。

二、日本人の税金が外資に流れる仕組み
全てにおいて自由競争ですから、公共事業も例外ではありません。公共事業の原資は私たちの税金です。その金は日本の土木・建設会社を通して国内を循環します。これが外資の参入によって国外に行きます。公共事業は、景気対策・雇用対策の側面も大きいのですが、震災復興の原資が東北の労働者・経済を潤せなくなるのです。

三、医療制度が崩壊します
現在の国民皆保険制度は、金持ちが沢山払い、収入が少ない人はそれなりの支払いです。ところが、医療が自由化され、米国の医療株式会社が参入すれば金持ちほど、そちらにシフトします。現在の保険制度が支えられなくなるのです。そうなれば、混合診療が導入され、あなたの保険の治療はここまでです。と、医療格差が深刻化します。これを税金で支えようとすれば、自由な経済活動を阻害したという名目で多額の賠償が科されます。TPPに霞ヶ関が総じて賛成なのは、国民サービスを最小化できるからです。

四、民主主義が崩壊します
TPPの最も恐ろしい事は、投資家が投資した国の政策に関れるという条項がある事です。ISD条項といい、憲法よりも上に位置します。投資家対国家間の紛争調停といわれるものですが、裁判はアメリカにおいて行われます。自由競争の阻害要因(例えばそれがセーフティネットであっても)には多額の賠償が請求できるのです。また、投資家は投資した国の政策に提言できるという項目すらあります。国民の文化的最低限度の生活を保障する憲法よりも投資家の意見が尊重されるのです。


(補足)さらに、投資分野全体での外国企業の「内国民待遇」が認められると、食糧自給率の低下と併せて、国民生活の基盤を支える安全保障まで危うくなることになるだろう。



    TPPが日本の政界再編成につながる?
    田中宇の国際ニュース解説 11.1
より一部転載

 日本がTPPに入ると、利得より不利益の方が大きい。それなのに、政府や外務省、マスコミなどがさかんにTPPに入った方が良いと言い続けるのは、米国が日本に入れと強く言っているからだ。TPPは、実は経済の話でなく政治の話、対米従属という日本の国是をめぐる話である。対米従属の話であるので、TPPの報道には、沖縄基地問題などと同様、マスコミ報道にプロパガンダ的な歪曲がかかっている。

(中略)

▼腐敗した米国型の体制を強要される

 TPPの要点は、ほかにもある。TPPは加盟国に、関税だけでなく、政府の監督政策、労働、環境、公共事業政策、安全基準など、規制や制度といった「非関税障壁」の撤廃を義務づけている。参加国の中で、米国の政治力と経済規模が圧倒的に大きいので、事実上、米国が、日本などの他の参加諸国に対し、米国型の規制や制度を押し付けるかたちとなる。

 米国の規制や制度が、日本よりすぐれているか、日本と同程度ならまだ良いのだが、この10年あまり米国の政府と議会は、金融界や防衛産業、製薬業界、医師会、農業団体など、各種の産業のロビイストに席巻され、各産業界が思い思いに米政府を牛耳り、自分たちに都合の良い政策を政府にやらせる傾向が年々強まっている。911以後、防衛産業(軍産複合体)が有事体制を作り、民主主義の機能低下が起きたことに他の業界が便乗した結果、米国の行政はものすごく腐敗したものになっている。

 その結果、金融界をはじめとする大金持ちに対する課税の比率が少なくなって貧富格差が急拡大している。リーマンショックで金融界が潰れそうになると、巨額の公金が注入され、金融界による連銀の私物化に拍車がかかってドルが過剰発行された。製薬業界や医師会が、メディケアなど管制健康保険の診療報酬や処方箋薬適用をお手盛りで拡大した結果、メディケアなどは支出過剰になり、米政府の財政赤字が急増している。これらの全体に対する米国民の怒りが「ウォール街占拠運動」などにつながっている。

 公的な事業であるべき、道路や電力網など公的インフラの整備が、市場原理重視策によってないがしろにされている。ここ数年の米国では、大都市で大規模な停電が起きている。電力自由化のなれの果ては、01年に起きたエンロン破綻事件だ。道路や橋の整備が不十分なので、民間企業が橋や道路を建設して高めの通行料をとるケースも増えている。

 米議会の共和党は、米国の産業界が守るべき環境基準を緩和し、環境汚染を今よりも容認することで、企業が環境保全に払ってきたコストを減らし、その分、雇用を増やせるはずだから、汚染容認が雇用対策になるのだと主張している。TPPに入ると、日本政府が企業に環境保護や消費者保護、厳しい安全基準の遵守などをやらせるのは非関税障壁だという話になっていきかねない。

 米国型の経済政策は、自由市場主義を表の看板として掲げているが、それは実は、企業が米政府を牛耳った腐敗構造の産物だ。そうした構図が露呈し、米国型の経済政策がうまくいかないことが明らかになった今ごろになって、日本はTPP加盟によって、米国型の経済政策を強制的に導入させられる方に進んでいる。




    TPP賛成論者に欠けているもの、それは【国家主権】
    olive!news 11.2 徳山勝

TPPに賛成する人の言い分の視点は決まっている。それは「関税と農業」である。

曰く、「自由貿易は経済理論上正しい」とか、自由貿易・加工貿易立国として日本が生きて行くには、TPP=関税撤廃だという。そして返す刀で、TPP加入により日本の農業を、国際競争力のある農業に改革すべきだと言う。このようにTPP賛成論者の多くは、TPPを「関税と農業」の問題だけだと誤解している。

これに対し、TPPに反対する人は、それ以外のことについて具体的な事柄を挙げてTPPの危険性を訴えている。将に好対照である。筆者は自由貿易・加工貿易立国論者であるが、だからと言ってTPP加入に賛成はしない。過去の農業政策が、高関税と補助金漬けであったため、農業が駄目になったとか、「TPPは『やる気のある農家』に生き残ってもらえるチャンスだ」とか言う古閑某なる評論家にも賛成しない。

中には、アメリカによる発展するアジア経済圏への橋頭堡であるとか、オバマ政権の景気浮揚策とか、アメリカの経済戦略であると認識した上で、中国との貿易自由化交渉を有利に進めるために、TPP加入は一つの方法だと言う者もいる。世界第一と第二の人口を擁する中国とインドの経済成長が、21世紀の世界経済の牽引車になる。日本がその市場拡大に備えるのは当然であるが、それがTPPだとは限らない。

TPP賛成論者には、決定的に欠けているものがある。それは【国家主権】への視点である。以前本欄で紹介したISD条項と呼ばれる「投資家vs国家の紛争解決条項」がある。国民の生活や健康を守るため、国が制定した法律や規制により、外資系企業の営利活動が規制された場合、その企業は現地国に損害賠償請求ができる、という取り決めである。こんな【国家主権】を無視した馬鹿な話があるのがTPPである。

東京大学名誉教授宇沢弘文氏は「世界各国はそれぞれの自然的、歴史的、社会的そして文化的諸条件を十分考慮して、社会的安定性と持続的な経済発展を求めて、自らの政策的判断に基づいて関税体系を決めている」と指摘したそうだ。確かにその通りであるが、TPPは関税・経済だけの問題ではない。非関税障壁の撤廃であり、さらには【国家主権】が侵害される問題なのだ。

既にTPPに加盟しているニュージーランドのジェーン・ケルシー教授が、今年の7月仙台でTPP問題について講演し、次のことが明らかになった。即ち、参加する場合は次の4点の承認が条件になるそうだ。①文書は協定に署名するまで非公開。②協定は脱退しない限り永続。③規則や義務の変更は米議会の承認を必要。④投資家は政策的助言に参加し、規制を受ければ投資家が加盟国政府を控訴可能。

先ず「文章は協定に署名するまで非公開」では、TPPの是非を国民が判断できないではないか。主権在民の民主主義に反する協定である。次に、なぜ「米議会の承認」だけを必要とするのかである。これでは加盟国は対等ではない。他の加盟国はアメリカの植民地乃至は隷属国ということになる。そして最後の「投資家は政策的助言に参加」ということは、他国の政策に外資が介入するということを意味する。

先月、外務省が民主党の「TPPに関するプロジェクトチーム」に提出した資料によると、ベトナムはTPP加盟により「脱中国経済とアメリカ向け輸出の増加」を、またマレーシアは「東南アジア諸国連合(ASEAN)での主導権」を目指す方針だそうである。経済小国ならば、アメリカに奪われるものは少なく、得るものが大きければ、アメリカの力を借りるという選択肢もある。だが、日本は違うだろう。

TPP賛成論者の多くが、なぜ【国家主権】への視点が欠け、「関税と農業」だけを言うのか。多くの場合は情報不足によるものだと思う。上記のジェーン・ケルシー教授の講演内容を報道したマスコミはおそらくゼロ。筆者も最近ネットで知ったばかりである。官僚は、国民に知らせて拙いことは一切隠して来た。そして先月末になって「TPP協定交渉の分野別状況」と題する79ページもの分厚い資料を出して来た。

マスコミもTPPの問題点を承知の上で、TPP賛成の世論誘導を図っている。上記の「分野別状況」について詳しく報道したマスコミは無いだろう。前回の本欄で紹介したように、「米国が最も評価するタイミング」だとかいう馬鹿げたことしか報道しない。官僚に完全に操られている野田首相、玄葉外相そして枝野経産相らが気にするのは、そのマスコミの評判だけである。どう叩いても「国民の生活が第一」という声は、彼らから聞こえてこない。



TPPはグローバリゼーションと国家・国民経済のこれからの関係を問う問題である。

グローバル化、多国籍化した大企業にとって国家などもはや邪魔な存在でしかない、という考え方の専行とその徹底的な敷衍を目指すものがTPPである。

デメリットを顧みない強行的なTPP推進気運の進行を見るにつけ、国際価格競争の激化と市場の奪い合いのなかで生き延びようとするグローバル企業と、現状の所得水準・社会保障水準の維持を求める経済的先進国家の国民の利益とは、もはやあきらかに相反するものとなりつつあるという厳然たる事実の認識に至るのである。

日本はその流れを一気に加速させて濁流に飲まれる道を選び、米国でいま進行しているような「貧困社会」を国内に移入するのか。日本と比べてきわめて輸出依存度の高い経済体制である韓国(参考記事:輸出依存度 韓国43.3%、中国24.5%に対し日本は11.4%だけ)でさえ、米国とのFTAの批准にいま国内が紛糾している。

「自由貿易の前提としてのセーフティーネットの整備」、「中央から地方へ」という小沢一郎・鳩山由紀夫が主導して政権奪取した時の民主党の理念と、いまの民主党政権中枢はまるで別物。なぜ今こんな政権になっているのかという反省も含めて、

国家とは何なのか?これからどうあるべきなのか?日本の戦後全体が問われているように思える。


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2011年10月28日 (金)

消される前に必見!『とくダネ!』でW中野共演TPPこれで解かる。第一声でブチかました怒れる魂、これが男の本気だ

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『とくダネ!』10月27日①








いわゆるB層洗脳番組というのは今どんな具合のものなのかと思い、テレビ朝日『そうだったのか!学べるニュース』という番組に目星をつけて、この『とくダネ!』前日の10月26日放送を観たのだが・・・。

(※プレゼントキャスト(電通の子会社)によって削除されていたら・・・)
http://www.youtube.com/watch?v=uo8NjoGi-Xk&feature=mfu_in_order&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=5_vc8igGMfQ&feature=mfu_in_order&list=UL


・テレビは国民を騙(だま)す


一応断っておくけど、何もオレは「B層」などという言葉で自分以外の他人を小馬鹿にするようなつもりは毛頭なく、この用語は2005年の郵政民営化推進キャンペーンの時に、竹中平蔵氏を中心とする推進グループがひそかにわれわれ国民をIQで分類したうえで、IQの低い層を「B層」と命名していた事実に由来する。

彼らがマスメディアを最大限活用して「B層」に狙いを絞ったラーニングプロモーション(洗脳活動)を徹底的にすべし、という企画を練っていたことが後日発覚したことから広まった語である。因みにこの時の彼らの企画書では、「B層」とは主として主婦、若者、高齢者のことだそうである。

テレビマンたちがわれわれ一般市民を「パンピー」と陰で称して蔑していたのと同じ発想だ。人の話を信じやすい素直な人、あるいは“権威”の言うことは常に正しいと考えてしまいがちな人達がターゲットにされる。

この『そうだったのか~』という番組をまともに観たのは初めてだったが、案の定と言うか、想像以上に悪辣(あくらつ)で何と言うかやっぱりヒドイ。初心者に一般論を説く体裁を取りながら、その実内容が露骨に偏って事実を歪曲している。フェアーで無い。こんな番組がゴールデン・タイムに堂々と放送されているのだから、いま世界で一番馬鹿なのは日本人、などと揶揄されるのも無理はないのかの知れない。

日本は今ひそやかな世界の注視の的である。

あの日本は、TPP参加などという馬鹿げた自滅行為にほんとうに突入して、あの老いさらばえて血迷い始めたアメリカからのあらたな帝国主義の発動に、みずから没入して行くつもりなのか?

この日の『そうだったのか~』でもTPP問題が取り上げられていて、石川和男という元経産官僚が“教師”役で登場、“生徒”役を演じるタレントと“流れるような”質疑応答を交わしていたのだが、

よーするに、この期に及んで相も変わらず農業VS他産業という単純図式の貿易論でTPPを語るのみ(『とくダネ!』動画前半の笠井アナの説明とほぼ同じ)だが、実はその構図自体が虚構。

彼ら推進派(マスメディアのことです)にはそれしか手がないのだろうが、実際のTPPの交渉分野は実に24項目に及び、農業はおろか、単なる貿易問題ですらなく、国の「カタチ」を根本からまるごと変えるというか壊しかねない問題。彼らは農業をスケープゴードにして国民を誤魔化している。


TPP交渉24分野

・市場アクセス(工業)
・市場アクセス(繊維・医薬品)
・市場アクセス(農業)
・原産地規制
・貿易円滑化
・首相交渉官協議
・サービス(クロスボーダー)
・サービス(電気通信)
・サービス(一時入国)
・サービス(金融)
・サービス(e-commerce)
・政府調達
・投資
・環境
・労働
・税関協力
・競争政策
・知的財産権
・SPS(衛生植物検疫)
・TBT(貿易の技術的障害)
・制度的事項
・紛争解決
・横断的事項特別部会
・貿易救済措置



しかもその場合に彼らは決まってコメの関税率778%を引き合いに出し、日本の現行関税率が諸外国に比べてさも高いかのような印象付けを視聴者に与えるが、日本の農作物に対する平均関税率はすでに韓国などよりずっと低く、EUよりも低い。干ばつ・洪水や投機マネー等による食糧価格の世界的高騰問題等が恒常化しつつあり、むしろ食糧自給率の低さの方に危機感を抱かなければならない状況であるのに、その危機感が余りに薄過ぎる。

そしてマスメディアの報道がコメ、コメと殊更にそちらの方に国民の関心を振り向けようとしているのには、さらに別の意図が隠されているとも考えられる。

 
   東谷暁「アメリカの狙いはコメじゃない!~」

   より一部転載

 アメリカはいまでも日本に36万tものカリフォルニア米を何の努力もなしに押し込んでいる。WTO(世界貿易機関)での取り決めで、日本はコメに高関税をかけることの見返りとして、毎年、77万tの「ミニマム・アクセス米」を輸入することを受け入れているのだが、その半分近くを、すでにアメリカ米が占めているのだ。

 そもそも、アメリカが作っているコメのうち、日本人の嗜好に合うジャポニカ種は30万tほどにすぎず、そのすべてを日本に押し込んだとしても、日本のコメの消費量は900万tだから、日本のコメが乗っ取られるという試算や報道じたいが、馬鹿げた妄想なのである。

 事実、アメリカのUSTR(通商代表部)が毎年発表する『外国貿易障壁報告書』でも、アメリカのコメが加工食品などで表示されていないことに不満を鳴らすものの、コメ輸出増加などにはまったく触れず、「アメリカ政府は、日本政府がWTOにおける輸入量に関する約束を引き続き果たしていくことを期待している」とだけ述べている。

(転載了)


「TPP例外認めぬ 米経済団体、大統領に圧力」と10月23日の日本農業新聞の記事にあるように、日本が一旦交渉に参加すれば、米韓(韓米)FTAの場合のように、アメリカは容赦なくあらゆる領域で強欲な自国企業の利益の為に、日本の非関税障壁(関税以外の様々な国内規制)をとっぱらうよう要求してくるだろう。

そして交渉の結果他の分野についてはアメリカの要求をほとんど呑まされながら、コメに関しては当分何とか勘弁してもらえたよ、あるいは段階的措置で譲歩してもらったよ、だから良かった良かった大成功、というアナウンスが国民向けに流布される、というシナリオが用意されていると推測されるのである。

大成功どころか、デフレと超円高からの脱却が最優先課題とされるべきいまの日本にとって、TPP参加はそれに正反する世紀の愚行となるだろう。新聞・テレビをまともに見ていたら、それだけで経済オンチになってしまう。

そして外国企業に利する為の社会基盤の破壊が「構造改革」「規制緩和」の名の下に(これらは使いようによっては実は一番効く「B層」洗脳用語である)粛々と遂行される。利益を得るのは外国企業と、その手足となって動いている彼らの代理人たち、一部の大企業の経営者とその大株主のみである。

輸出が増えてその結果GDPが増えても、われわれの給与所得水準はむしろ下降する傾向にあることはすでに先の「いざなぎ超え」景気(2002~2007年)の時のデータで明らかになっている事実だが(それがグローバリゼーションというものの本質だ)、実質日米FTAであるTPPなどに参加しても、その輸出の伸びすらほとんど期待できない。

そもそも日本のGDPに占める輸出の割合はマスコミの喧伝(けんでん)と事実は異なり諸外国と比べて低い(WTOの最新データで世界178か国中175番目)ものであり(日本は内需大国)、さらにTPPにより取り除かれるというアメリカの輸入関税も現時点で全体にすでにかなり低いのだから、当たり前なのだ。

5日にあらためて内閣府からのわが国がTPPに参加した場合の経済効果試算値が発表されたが、これは一年前に発表された同様の試算とほぼ変わらない約2・7兆円というもの。そしてこれは10年間での累積試算であり、一年間にならすと2700億円、GDP比わずか0.05%というほとんど誤差レベルの効果しか期待できないというのが政府の試算でさえ出ているのだが、これを新聞・テレビはどう報じたか?

その日のNHKの夜のニュースは「一定の期間で」2・7兆円円の効果、と報道。

さらに日本経済新聞読売新聞時事通信などは、「2・7兆円(GDP比0.54%)の押し上げ)」と報道。なんと日経・読売・時事10年間の累積数字を1年間のものと見做して対GDP比の計算までして、それを記事にしているという確信犯振りなのだ。

なぜそこまで姑息な手段を使って国民を騙そうとする?自己の主張が有るなら有るで、正々堂々と主張してみろこのウジムシども!国民を馬鹿にするな!!中野剛志の怒りも当然である。

この通り、別に『そうだったのか~』がバラエティー番組形式だからヒドイのではなく、報道番組に眼を転じてもやっている事はほとんど同じである。多少高等そうな専門用語を織り交ぜながら偽証に走っている分、むしろなお性質が悪いとも言えるのだ。

『そうだったのか~』で石川和男「経済学者はほとんどみんなTPP参加に賛成なんですよ~」とまでのたまっていた。

「へえ~」(タレント陣)

オレの知る限り、書店に行けば圧倒的にTPP否定派の書籍の方が多いし、専門家・知識人の間の趨勢でも同様な筈だ。ただテレビに出て来て発言するのは石川のようTPP推進派ばかりというのは本当だろう。この石川発言はまさに「The 偏向」。図に乗るのも大概にしろと言いたい。

そういう意味でも27日の中野剛志氏の地上波民放出演は貴重であったが、その迸(ほとばし)る憤怒のスパークに、ゲスいタレントなどからは早速非難の声が挙がったという。

しかし以上に述べてきたように、まさにいまの新聞・テレビの報道は朝から晩までウソばっかり、卑劣で卑屈なその偏向報道振りは娼けつをきわめている。

むしろ心有る視聴者には彼の態度からあらためてこの問題の重要性と、彼の真剣さが伝わったものと信ずる。

去年の暮れから今年にかけて小沢一郎を擁護する発言をした者が次々とテレビから出演機会を奪われたように、狡猾で用心深いテレビ局はこれで再び彼を使わなくなるかも知れない。しかしよしんばそうなったとしても、それはテレビの勝利を意味しない。中野剛志は真正面から正々堂々マスメディアの報道姿勢そのものを「それはおかしい」と批判したのであり、そこからの敵前逃亡はおのずと敗北の結果をもたらすであろう。

しかし『そうだったのか~』のように作為的な茶番を演じることが、いまのこの国の作法なのか?

確かにそこではすべてが滑らかに予定された結論に導かれ、波風は立たないだろう。いまのバラエティー番組では話の進行中にいちいち「へえ~」という大きな相槌の効果音が挿入されるが、いつから始まったスタイルなのか知れないけれど、アレ何かうるさくてキモチワルくないか?

・・・「へえ~」・・・「へえ~」・・・「へえ~」

いつもの位置より1メートル下がってテレビを観てみたらどうだろう?これも一種のラーニング・プロモーションではないのか?

繰り返される相槌の単調なリズムは、聞く者の精神をまどろんだ弛緩の沼へと誘い、その沼底にはきっと、狡猾な捕獲者が待ち構えていることだろう。

ぬるいまどろみにエロス(愛)は宿らないと知れ。



こちらも必見。AKB48大島優子が解説するTPP

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2011年9月25日 (日)

日本文化はほんとうは悪党文化

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重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだした- 「陽気と客観」中沢新一


野田首相が原発再開・維持政策を打ち出しつつあるが、これに抗する脱原発市民デモも、大江健三郎、落合恵子など多くの著名文化人が呼び掛け人となった効果もあり、9月19日の東京・明治公園「さよなら原発」集会デモにはこれまでで最高の六万人(主催者発表)が集まり、その熱気と興奮と感動を伝える多くのネット記事も眼にした。代々木公園まで続いたデモ行進がNHKを取り囲めなかったのは少々残念ではあるが、この日の集会を出発点に既存原発の計画的廃炉、もんじゅ及び六ヶ所村再処理工場の廃棄、自然エネルギーへのエネルギー政策の転換を求める1000万人の署名を集め国会・総理大臣に提出するのが目標だという。

勿論その趣旨には賛同するしオレも署名には参加させていただくが、ここではオレのような悪タレは一般的な賛同の声とはまたちょっと違った感想を持っている、ということを敢えて述べてみたいと思う。


類は友を呼ぶの倣い通り、オレの周りは悪人ばかりである(悪人と言っても、悪質な犯罪の前科があるという意味ではない。)が、その悪人達も今度の事故が起きて以来、原発コノヤロウとはみんな大概思っているし、再稼動とかヤメテクレだよな、とも思っているのだが、脱原発の市民運動やデモに参加しようという者はいない。誘っても断るだろう。

オレにはその理由が分かるのだが、それはなぜかというと、今のところ脱原発の市民デモが、善人達による善人達の為の善人達の宴(うたげ)として、彼ら(オレも含めて)の眼には映っているからだ。そのような場にオレ達は近付かない。

今回呼び掛け人として揃ったような“良心的”文化人の顔ぶれを見ると、尚更なのだ。彼らの演説は彼らなりに心を込めての演説であり、その場にいた多くの聴衆の共感を呼んだのかもしれないが、オレ等悪タレの心にはハッキリ言ってあまり響かない。それらはオレ等からすると「余韻や残響やたっぷりの思い入れ」が多過ぎるし、その分センチメンタルにも聞こえてしまって、それだけでもう敬遠してしまうのだ。耶蘇坊主くさい大江健三郎が登場してくるだけで、なんとなくアンチ・クライマクスな滑稽ささえ感じてしまう。もし大江が「国民の敵・NHKに受信料は払うな!」と大観衆の前で叫んでくれたら、オレの大江評も赤丸急上昇するのだが・・・。

オレは仲間内ではインテリということになっていて、比較的本も読む方だが、ハッキリ言って他の人間は普段本など読まないし、そういう連中からすると、“良心的”文化人の演説は、言葉多くしてなかなか核心が伝わってこない、という印象を受けるだろう。「命の大切さを第一に」などという言葉は、彼らの心には響かない。それはなんだか前に学校の授業で聞いたことが有るような気がするし、ワクワクするような新しい「発明」の感じがしない。そう、ぶっちゃけて言えば、悪タレの立場からしてみると、たとい不謹慎と言われようとも、ワクワクするような感じが有るかどうかというのが最重要なのである。そして悪タレは人から説教されることも説得されることもキライである。山本太郎やランキンタクシーの“腕っぷし”に少々反応するぐらいである。

そしてオレは敢えて読者に問うてみたいのだが、われわれはほんとうに善人なのだろうか?
つまり原発推進派を悪人と見做すほどにわれわれは善人なのだろうか?

たとえばこれは9.19ではなく9.11の新宿デモにおいてだが、演壇に立ったNPO法人環境エネルギー政策研究所長飯田哲也氏はなぜあのように菅直人に肩入れするのだろうか?菅が浜岡原発停止を宣言したから菅降しの動きが始まったという見解は、確かにそういう政治勢力の動きがあったことも事実だが、もしほんとうに全体をその様に認識しているのだとしたら、政治的にあまりにナイーブ過ぎるし、もしそうでなく自己の目的(脱原発)の為に菅の数々の悪政(というより最悪の分裂症的無政府状態)に眼をつぶってそれらを善と言いくるめようとしているのならば、飯田氏は果たして善なのだろうか?

その点同じ日に演壇に立った柄谷行人はもう少し意識的で、自分が絶対善であるかのような発言はしない代わりに、「社会を変えるためのデモであり、デモをすることによってデモが可能な社会に変われる」という趣旨の発言をするのだが、「3.11以前に日本にデモは無かった」という認識はやはりスットコドッコイである。

そのスットコドッコイの由来を考えているうちに、以前読んだ彼の正岡子規に関する短い論考=「ヒューモアとしての唯物論」に行き当たった。ここで柄谷は正岡子規の芸術観=「写生」における「客観」をヒューモアと規定した上で、ボードレールに倣ってヒューモアとは「同時に自己であり他者でありうるの存在することを示す」ものであるとし、たとえばマルクスの共産主義もこのヒューモアとしての精神の現実的運動である、と規定するのはまったく正しいのだが、そう語る柄谷の文章からは、力の発現し流動する感じも、現実の状態を止揚する運動の躍動感もサッパリ伝わってこないのであり、オレにはまったく退屈な文章だ。実際こうして要約してみても、大概の読者には何を言っているのかさえほとんど分からないであろう。おそらく柄谷は実際的にはこうした力や運動に関してはむしろ不感症なのではないか、とこの文章を読んだ限りオレは疑うのである。

-重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだしたのである-

オレが度々中沢新一を引用するのは、中沢は現実的な政治的アクション、政治的センスはほとんど無い人だと思うが、その下部を支えている、現実世界に漲っている力の運動とその構造に関して、非常に卓見した思想家だと認めるからだ。彼の語る正岡子規は、柄谷のそれと比べて遥かにアヴァンギャルドで、そしてワルである。

子規は日本語に構造上の弱点を見い出していた。-日本語で書かれた歌詞をオペラ仕立てにでもして歌ってみればすぐにわかるように、全体として響きが過剰な割には、伝達される意味は少ない。こういう言語は閉じられた共同体の内部では、おたがいの感情の理解やコミュニケーションが持続していることの確認のためなどには、いたって情のこまかい便利な働きをするが、交易や交渉や戦いの場所には不向きである。そのような言語を用いて新しい現実の「発明」をおこなおうとするとき-いっさいの過剰な身振りは削ぎ落とされ、「ありのまま」の「場所」のみが、すっくと立ち上がる。その鮮やかな実例として、子規は芭蕉のあの句を挙げるのだ。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

而(しか)して其国語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思(わがしょし)を現はさんとせば為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかがなるべきかなとつくづく思いめぐらせる程に脳中朦朦(もうもう)大霧の起こりたらんが如き心地に芭蕉は只惘然(もうぜん)として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。萬頼寂(ばんらいせき)として妄想全く耐ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙(やくあ)の音あり。 みずからつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。 -正岡子規「芭蕉雑談」

分かるだろうか?

ワルは「おたがいの感情の理解やコミュニケーションの持続の確認」などにはさしたる関心を示さない。そんなものは何も産み出さないし、新しい現実の「発明」にはほとんど役に立たないと知っているからだ。そんな言葉の遊戯に時間を費やす代わりに、ワル達は新しい現実の立ち上がる、時間も消失するような「場所」で、躍動する裸の「モノ」に直に交感しようとするのである。松尾芭蕉は稀代の悪党芸術家であるし、それを正確に理解し発展させた正岡子規の「客観」とは、やはり稀代の悪党芸術と言えるのである。

われわれ日本人の多くもまた心の内奥で芭蕉や子規の芸術を理解し愛してきたし、いまも理解し愛している筈である。われわれはわれわれ自身で考えているよりも、はるかにずっと悪党なのではないか?

正岡子規の芸術は御存知の通り、その病状の進行とともにみずからの死を「客観」する境地へと向かってゆき、そのなかでヒューモア的態度が醸成されていったのは、柄谷の言う通りである。しかし「ヒューモアとしての唯物論」などとしてしまうと、唯物論がその契機に本来持っている力動感や流動感が見えなくなってしまい、高級なだけのつまらない精神的態度のようになってしまう。

脱原発デモにおける“良心的”文化人達の発言には、高級な美辞麗句がいっぱいあった代わりに、一番必要な、力の発現する「契機」としての悪党的言葉が、欠けていたように思えるのだ。

その言葉とは何なのか?

あの寡黙な、しかしそれだけにほんとうの事しか言わない政治家の言動に、オレはその答えを見い出す。

「これは権力闘争だぞ。」

昨年10月4日、東京第5検察審査会による“強制”「起訴議決」が公表された後、小沢一郎は涙を流しながら自らに近い議員にこう述べた、と当時の新聞は伝えている。

はるか一年近くも前に、その契機の言葉は発せられていたのである。そこから今日までは地続きである。

あの六万人を集めた脱原発集会でオレ達が一番聞きたかった、しかし聞けなかった言葉が、此処に有るではないか?

これは権力闘争である。脱原発運動とは、すなわち権力闘争である。呼び掛け人の一番手として鎌田慧氏が脱原発運動は文化革命だ、といみじくも述べていたが、この国で文化における「革命」とは、松尾芭蕉や正岡子規にあきらかなように、意識を悪党的段階に昇華させた「場所」で、流動する「モノ」の力に己を合一して、「モノ」としての己の発現に立ち会う、きわめて悪党的な所業に他ならないのだ。われわれはみな本来的に悪党である。ただちょっと思い出すだけでいい。そうすれば、八つ裂きにしなければならない敵の顔が、すぐ眼の前に見えて来る筈だ。ほら、家に帰ってテレビを点けてみれば、いつも善人面している奴らの顔が、すぐに見えるだろう。われわれに善人たれと催眠術をかけて、われわれを支配している権力者の顔が。

皮剥いだるぞッ、ア?

というような殺気が漲ってくれば、脱原発運動もより本物のものとなるであろう。“ヒューモア”などは、その後からついてくる筈のものである。先日観たバラエティー番組で、お笑い芸人の千原ジュニアが「俺はあらゆるモノを笑いに変える事が出来る」と豪語していたというエピソードを後輩芸人が披露していたが、それならば彼はテレビで原発事故を笑いに変えているか?彼以外の誰かで、原発事故を笑いにしていた芸人がいるか?テレビを点けると数え切れないくらいのお笑い芸人が次から次と出てくるが、まさにお前ら全員要ラネ、というようなヒューモアの無効になる状況に、今われわれは生きているのである。

善人による脱原発の善意運動がこのままその輪を広げていって、ついには国政を動かせるような状況まで至れば、それはそれで喜ばしいことであるが、よしんば運動の全体により悪党色が鮮明になってくれば、今は傍観者を決め込んでいる悪タレ達(これは実はかなりの数だとオレは思っている)も、勇んで運動の最前線に飛び出してくるだろう。その場合、倒せる敵の数はより多くなる筈である。


Sinran

親鸞聖人熊皮御影(熊皮に坐す親鸞)


善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

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2011年9月16日 (金)

GHOSTLAND(「嵐」の前の静けさ ― 「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」を所望する)

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「鉢呂」以後、テレビを点けても、

報道番組はおろか、バラエティーを観ていても、、スポーツ番組を観ていても、
コマーシャルを観ていても、

こんな気分
Kuzuhahikiniku


にしかならない。


だってそうだろう?オレが特別じゃない筈だ。

なにしろ鼻先で五歳児扱いされて愚弄されたのである。

幾らかでも矜持の有る男なら、一、二発見舞ってやらない事には気の治まるものではない。

女だってこういう時には容赦しないだろう。

ところが相手は画面の奥の向こうに、今日もすまし顔でちゃっかり納まってる。

怒りは漠として膨張する一方なのは、自然の道理である。


テレビを点けると、犯罪者が出て来てこちらに向けて喋り出す。

犯罪者がニュースを読んでる。犯罪者が冗談を言い、犯罪者が陽気に笑い転げ、犯罪者が困っている人のところに出掛けて行って、善意の憐みの表情を浮かべる。挙句には、犯罪者が偉そうに説教垂れ始める。

何でだ?

どうなってんだ?

この状況でわれわれはいつまで正気を保てるか?



表面ではみないつも通りの生活を続けている。

静かである。

静かに、しかし凄まじい勢いで膨張する怒りが地の底からゴーストを呼び覚まさし、われわれのガイストとも一体化したそれは巨大な怒れるゴースト=ガイストとなって、日本の国土の上空を発火点を探しながら、音も無くいま彷徨っている。

長谷川幸洋の鉢呂吉雄インタビュー記事が記録的にアクセス数を伸ばしていた9月14日、テレビ各局の報道番組はおそらく膨張するガイストの気配を意識していたのだろう、こういう場合に彼らの使う陳腐な鎮めの技法、すなわち“善意”という彩色の施された「ヒューマニズム」を、いつも以上に多用していた。そして昨15日は国会本会議代表質問等も有ったのだが、それ以上に文化庁の発表に合わせた若者言葉の変化の街角実地インタビューを大きく取り上げて、“白痴”的「なごみ」ムードで<気配>を掻き消そうとしているかのようであった。“善意”と“白痴”、「ヒューマニズム」と「なごみ」の二本立てで、嵐の発生を抑えてやり過ごそうという算段である。

そしてその国会の方へと眼を転じてみると、ここでも野田佳彦という男がやはり同様に、怒れるゴーストの到来(それは世界大不況という名のゴーストかも知れない)を予感しているのかいないのか、「亀のように甲羅に首をすくめ、嵐が去ってくれ、と」(あいば達也の「世相を斬る」)ただただ思考停止の穴ぐらのようなところに陥入して、時間がすべてをやり過ごしてくれるとの、淡い夢に身を預けているかのようである。

鉢呂をアッサリ見捨てたのは無論、八方美人で美辞麗句ばかり並べた所信表明演説、財政再建と経済成長の同時進行とか、現実を見ていないとしか思えない、何をしようとしているのかさっぱり分からない、谷垣禎一でなくとも「二枚舌」と揶揄したくなるような、一種異様な所信表明演説であった。

その身体そのものがいまやゴーストの緩衝地帯のようになっている、このおたふくのようなペルソナを剥いだ時、中から何が出てくるのか、出ないのか。




嵐を目前にして思考停止に逃げ込む人ばかり、どうしてこんなに多いのか?

死の街って言うなって?

冗談じゃない。

ハッキリ言うぞ。

此処はいま怒れる死の国、ゴーストランドだ。

この国に住まうオレ達は皆、誇り高きゴーストランドの住人だ。

オレ達のひとりひとりが、誇り高きゴーストなのだ。



ゴースト=霊=流動的知性だ。

分かるか?

鉢呂吉雄は福島視察後の記者会見で、己の霊性を立派に示した。

原発周辺の放射能に汚染された人気の無い街を視察した彼は、その流動的知性=ニューロン・ネットワークの内奥で、きわめて正確にゴーストの蘇生する気配を、感じ取っていたのだ。

彼の「死の街」発言をなじる者は、福島の被災者だろうが誰だろうが、

オレは許さん!



長谷川幸洋のインタビューによって、鉢呂がなぜ新聞・テレビ連の犯罪的メディアスクラムによって追い落とされねばならなかったのか、その背景が見えてきた。つまり彼が口先だけでない、本気で脱・原発の方へ国のエネルギー政策を舵取りしようとしていたこと、その為に官僚機構がこれまでずっと“国民的議論”のアリバイとして活用してきた“有識者”によって構成される「調査会」に手を入れて公平性を確保しようとしていたこと、それによって経産省・マスコミサイドから狙われ、引き金を引かれた可能性が高いこと。

これはまるでいつか見た悪夢の再来。佐藤栄佐久の二の舞ではないか?

われわれはこの原発災害の遠因のひとつとも言える官僚・マスコミ連合による佐藤栄佐久知事抹殺を許し、この未曾有の原発災害に見舞われた後のいま尚再び、彼らの犯罪を許すのか?

このまま彼らを許し、事態が彼らの計画通りに進めば、われわれの手の及ばないところで人知れず既成事実が積み重ねられて、いま盛んに全国で行われている数万人規模の脱・原発デモの努力さえ、気泡と化すかも知れないのである。

脱・原発デモの輪の中に、いやむしろその最前面に、「鉢呂大臣辞任抗議デモ」が加わらねばならない必然性を感じる所以であるが、しかしそこにはひとつの問題点が横たわる。

どこかで「辞任抗議」の声が立ち上がるや否や、マスメディアのよこしまなレトリックの横槍が入って、「福島の被災者の感情を踏みにじっている」などとあらぬ非難を受ける可能性があるのである。
国民分断戦術の陥穽にまんまと嵌まってしまうかも知れないのだ。



しかしこの罠を堂々と正面突破出来る場所が、日本に唯一つ在るのである。

福島である。

「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」の狼煙が上がれば、規模の大小にかかわらず、そのインパクトは計り知れないものが有るはずである。それはたちまちのうちに全国に波及していく破壊力を秘めている。

それどころじゃないよ、こっちの生活がどんなに大変か分かってんのか?と言われれば、オレは黙るしかない。

しかし今のところ“発火点”になれるのは、あなた方しかいないのだ。

あの誇り高き平将門一門、誇り高き白虎隊のガイストがまだ生きているならば、
不可能ではないのではないか?

もし実現すれば、きっと「嵐」も起きるだろう。



Ghostland - Calming The Sea





・辞任の引き金とされた鉢呂吉雄経産大臣の9月9日の発言詳細全文


 昨日、野田佳彦首相と一緒に(視察した)東京電力福島第一原子力発電所事故の福島県の現場は、まだ高濃度で汚染されていた。事務管理棟の作業をしている2千数百人がちょうど昼休みだったので話をした。除染のモデル実証地区になっている伊達市、集落や学校を訪れ、また佐藤(雄平)知事、除染地域に指定されている14の市町村長と会ってきた。

 大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ。

 事故現場の作業員や管理している人たちは予想以上に前向きで、明るく活力を持って取り組んでいる。3月、4月に入った人もいたが、雲泥の差だと話していた。残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。

 除染対策について、伊達市と南相馬市も先進的に取り組んでいる。大変困難ななかだが、14市町村の首長が、除染をしていくと前向きの形もでてきている。首長を先頭に、私も、住民のみなさんが前向きに取り組むことで、困難な事態を改善に結びつけることができると話した。政府は全面的にバックアップしたい、とも話した。

(朝日新聞web記事より)


「死の町」発言について 旅の途中-ブログ篇-


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