カテゴリー「小沢一郎」の記事

2017年10月17日 (火)

現時点の感想


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希望の党は今回の選挙で安倍晋三から政権を奪うことをほとんど唯一の目的とした政党であり、政権を奪取できなかった場合は、一気にその存在理由を失う可能性が高い。今の安倍晋三政権のような対米従属のエセ保守ではない、対米自立志向の保守政党としての存在感を示せるかどうかだろうが、今のところは何とも言えない感じだ。

希望の党が150議席以上を獲得し、自民党を単独過半数割れに追い込めれば、公明党と自民党の一部を巻き込んでの保守分裂政権交代劇に持ち込めるというのが当初のシナリオだったが、やはり出だしで小池百合子の根っからの性格の悪さと、前原誠司の大根役者振りが、国民観衆の眼前で露わになってしまったのが、あまりに大きかったようだ。

マスメディアが一斉に小池批判、希望の党批判に転じた時に、それに同調し、熱狂さえしたネット言論の大勢には強い違和感、嫌悪感すら覚えるが、それもあって希望の党は追い風どころか大逆風で、小池百合子は自身の出馬も首班指名も結局断念。報道各社の情勢調査では自公が300議席前後の圧勝、希望の党は50議席前後の惨敗、立憲民主党大健闘という現況である。(マスコミが一斉に反小池百合子・自民大勝の方向に世論誘導し始めたのには、小池が安倍晋三の9条改正案=アメリカによる9条改正案に異議を唱えたせいもあるかも知れない。)

オレは今回の選挙で安倍晋三を総理大臣の座から引き摺り下ろすには、この手しかなかったと今でも考えているが、そもそもが党運営組織も基盤も脆弱で、看板だけのような政党である。結果が惨敗なら、小池百合子は早晩党首としての求心力を失い、2012年総選挙後の未来の党のように、党自体が空中分解してしまう可能性すらありそうだ。

希望の党を自民党の補完勢力とハナから決めつけて拒絶する、幼稚なネット左翼言論界の大バックアップにより、このままみすみす安倍晋三に信任状を与えてしまうのは何とも情けないが、勝負に出て惨敗気配濃厚の小池百合子も、政治生命を絶たれたも同然の状態と言え、前面に出なかった小沢一郎のひそかな勝利というか、もはや選挙後の野党がどのような方向に、どのように立て直されていくのかということにしか興味が持てないような、選挙前にあるまじき今の心境である。

それとやはり、NHKとムサシを叩き潰す方策を、そろそろ真剣に考えないとダメだ。





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2017年10月 6日 (金)

  「戦後」の終わりにむけて-小沢一郎の見据える未来


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おいおい、一体どうなってるんだい、この今のネット言論界の惨状は?

小沢一郎が現実路線の方向に舵を転回した判断は、まったく正しいだろう? 



たしかに、昨年までであったら、安保法制廃止の野党共闘で安倍政権打倒を目指すのが、われわれにとっての唯一最善の策であったろう。しかし、今年に入ってから以降、情況は大きく変わってしまった。

理由は幾つかあるだろうが、最大の理由は、一触即発の朝鮮半島緊張情勢というものが、形成されてしまったという事だ。

今の安倍政権が成立したのが2012年の年末だ。その後安倍政権は2013年12月の特定秘密保護法を皮切りに、2015年9月に本丸の安全保障関連法、そして2017年6月にはテロ等準備罪法と、宗主国様の指令通りに、着々と戦時体制にむけての法整備を進めてきた。

その一方で、2014年2月にCIAがウクライナをクーデターで乗っ取ったが、そのCIAウクライナがCIA北朝鮮に弾道ミサイル技術を横流ししたようで、北朝鮮のミサイル技術が、飛距離・精度ともに、短期間で飛躍的に向上してしまった。

なかでも、8月29日と9月15日に立て続けに発射され、日本上空を通過した中距離弾道ミサイル(IRBM)には、それがグアムを射程にとらえているという科学的意味と同時に、別の含意が読み取れる。

「あんなものは、安倍自民党の支持率を上昇させる為の、彼らからのプレゼントだよ。」と左翼・リベラル系のネット論者は一笑に付そうとするが、それはそうであると同時に、裏を返せば、「この期に及んで、安保法制廃止の政権など、絶対に許しませんよ。」という彼らからのサイン(=警告)とも受け取れるのだ。

実際、北朝鮮問題が喫緊の国際課題として討議されている今このタイミングで、もし安保法制廃止の野党連合政権が出来たら、政治はたちまち大混乱に陥ることになる。

それをわれわれは8年前、2009年の鳩山民主党政権の時に、一度経験している。鳩山由紀夫政権は、米軍基地の辺野古移転に反対を表明したことで窮地に陥り、たちまち行き詰まってしまった。マスコミの総攻撃を受け、わずか9カ月足らずで退陣に追い込まれた。

今回はあの時以上のマスコミの大攻勢と混乱が予想されるが、それに対する備えと対策は、準備していたのかい?アメリカと韓国を説得出来るだけの交渉材料は、用意しているのかい?

それだけで済めばまだよい。もし今このタイミングで安保法制廃止政権が出来れば、その場合、北朝鮮から日本本土に向けて弾道ミサイルが飛来してくる可能性が飛躍的に高まることを、われわれは覚悟しなければならないだろう。

なぜなら現行の安保法制で朝鮮半島に有事が発生した場合、自衛隊は法制に則って米軍の後方支援に駆り出されることになるだろうが、もし安保法制を廃止した場合、米軍に協力しない日本には、その“ 代償 ”が求められるだろうから。

その場合の日本国の被害は、前者の場合の被害よりも、遙かに甚大なものとなることが想定される。あるいは実際に廃止せずとも、内閣が安保法制廃止方針を表明した時点で、同様の危険(ミサイルの飛来)は高まるだろう。

だから小沢一郎は、先の民進党の代表選で共産党との安保法制廃止共闘の継続に積極的だった枝野幸男ではなく、前原誠司を側面支援して勝たせることによって、われわれ日本国民を当面最大の危機から、救ってくれたことになるのだよ?

こんなことも分からないから、あなたたちネット左翼言論人は、あなたたちの常日頃もっとも軽蔑し冷笑しているネトウヨ連中から、「だからパヨクはダメなんだよ。」と罵倒されるんだ。

もちろん、今のようにトランプがバカを演じ続けてくれているうちに、アメリカが徐々に求心力を失い、ロシア・中国主導で北朝鮮問題がソフトランディングする可能性は大いにあるし、そうなってもらいたい。しかし現実問題として、軍事オプションの可能性を前提に日米韓が連携を深め、合同軍事訓練を繰り返している実情がある。

選挙に勝つ為には共産党の組織票は魅力的だ。しかし安倍政権を本気で打倒しに行こうと思うならば、志位和夫さんには悪いが、今回はどうしても共産党とは手を切って、別の道のり、逆コースからの政権奪取を目指さなければならない、実に困難な情況だったのである。



だから、“ 踏み絵 ”も、どうしても必要だった。“ 踏み絵 ”は、政権を担う資格を有するか否かについての、宗主国様に向けての、セレモニーだ。なにしろ今まで安保法制に反対を唱えていた人たちが、大半なのだから。

あの“ 踏み絵 ”に皆が感情を逆撫でされ、舛添降し攻勢から始まったテレビワイドショーの不愉快な“ 小池劇場 ”に堆積していた不満(もちろんオレもそのひとりだ)が一気に噴き出した形で、「これはヒドイ!騙し討ちだ!やはり小池百合子と希望の党の目的は野党潰し・リベラル潰しだった!」となり、今のこのネット言論界の状況があるわけだが、あの“ 踏み絵 ”でオレは逆に、小池百合子は本気かもしれない、と考えるようになった。

なぜなら今前門には北朝鮮があるが、後門にはムサシが控えているからだ。臨時国会冒頭解散の翌9月26日、NHKは『ニュースウォッチ9』の番組中、わざわざ株式会社ムサシの紹介をしていた。これがもうひとつのサイン(=警告)だった。

このサインに応える為には、それによりどんなに激しい世論の反発を招くことが事前に予測されたとしても、どうしても“ 踏み絵 ”は、実行されなければならなかったのだ。

いくら穏便平和に政党合流を実現してみせても、宗主国様から「この政党には資格無し」と判断されてしまえば、「野合」だの何だのマスコミにいいように難癖つけられて、結局は最後の関門ではじかれてしまうからだ。

彼女が単に野党共闘潰しのエサとして動いていただけの人形ならば、そちらの方がはるかに簡単で、効果的な方法なのだから、そのようにしただろうし、新興安保・改憲勢力として台頭するのが目的なら、そもそも民進党議員を受け入れずともムサシ選挙である程度勝てた訳で、一挙両得のようにも見える今回の荒技が、どこか矛盾をはらんでいるようで、そこには不確定要素としての彼女自身の野心が起因しているとしか思えない。

小池百合子は本気だ。本気で安倍晋三から政権を奪いに行っている。小沢一郎が勝負に出たのだ。



ネット右翼(=安倍晋三)とネット左翼(=枝野幸男)が、双方から小沢一郎(=希望の党)の足を引っ張り合っている。小沢バッシングは見慣れてきたつもりだったが、これはかつて見たことのない、異様な光景だ。ネットからは安倍批判がほとんど消えてしまった。

たしかに枝野幸男は善人なのだろうし、今回はあまりにもドラマティックな展開だったので、同情を集めているのも分かるが、彼のポジションは所詮いわゆるガス抜き以上のものではない。

われわれは独立国家ではないのだから、常に自分の信じる正義に向かって目くら滅法に突き進んで行っても、それが必ずしも良い結果を招くとは限らないということを、自覚することだ。

困難に突き当たるたびに、常に次善の策を探しながら、しぶとく生き抜いていくより他に無い。憲法改正問題にしたって、自民党内でも異なった考え方があるし、ましてや希望の党など出来たばかりでほとんどまだ何も決まっていないような状態なのだから、与野党間でノラリクラリ議論しながら、当面は何も決めない、という方策だってあり得るだろう?



どうやら現時点で、希望の党が誰を首班指名するのか、しないのか、というのが勝負の分かれ目、焦点となりそうである。


  天地開闢の後に、虚空の中に一物有り。形葦牙(あしかび)の如く

  『類聚神祇本源』




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2014年12月11日 (木)

荒廃国から・・・

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自業自得だが、ウクライナ中東において謀略と暴虐の限りを働いているアメリカの国際的信用度が失墜し、相対的にプーチン・ロシアの信用度が高まっている。

とりわけ大きいのが、ロシアと中国の接近である。アメリカの強引なロシア制裁が、結果としてロシアと中国の蜜月関係を促進させた形だ。5月のロシアから中国への総額およそ4000億ドル超の長期天然ガス供給契約の調印、7月にはBRICSが新開発銀行設立に合意。10月には1500億元の通貨スワップ協定にも調印し、これにより国際エネルギー取引の歴史上初めて、ドル無し元建てでの決済が両国間でなされた。

これは最初の一歩に過ぎないが、これら一連の動きは今後世界的なドル離れ、アメリカの一極覇権主義的世界支配の道具に堕しているIMF・世銀離れの流れを加速させていくだろう。(しかも国家主席就任前より米戦争屋勢力に近しいと思われていた習近平が、今までが面従腹背で機を窺っていたのか、それともアメリカの極悪非道なやり方に愛想が尽きたのかは分からぬが、ここに来て親露にシフトしたことの意義は、日本にとっても少なくない。)

実際ウクライナのネオナチ・クーデター政権やイスラム国(ISIS)の暴虐の裏でヌランドやらマケインやらがコソコソ暗躍していたことが次々と暴露されて、国際社会がドン引きし始め、中露の接近(加えてドイツ=EUの離反の兆し)でみずからの立場が危うくなり始めると、宗主国アメリカ様の焦りぶりは尋常ではないようで、一番の隷属国家の人心だけは引き留めておこうと、子飼いの奴隷マスメディアによる情報統制を強めるとともに、奴隷コメンテーター達にも一層激しくハッパをかけ始めたようである。

さあ唱えろ、刷り込め。何度でも。前より激しく・・・
「中国きら~い、中国きら~い」
「ロシアこわ~い、ロシアこわ~い」

小笠原諸島近海で以前から散見せられていたらしい中国籍のサンゴ密漁船が、この10月以降なぜか急激にその数を増やした。と同時にテレビの報道・情報番組は「サンゴが・・・、サンゴが・・・、サンゴが・・・」と連日大変熱心な取り上げ方で、日本の領海を他国密漁船の横行から保護しようというその報道姿勢は大変良い心掛けであるが、マスコミも普段このぐらいの熱心さで内政問題にも当たってくれたらなあと思ったものである。

オレがこのサンゴ密漁船のニュースを最初にテレビで見たのは10月24日の『報道ステーション』で、その日のゲストは外交評論家の岡本行夫であった。中国船籍の密漁船が増え、このままでは貴重な海底資源が破壊されてしまう危惧がある事、すでに逮捕者も出ているが、
海上保安庁は巡視船を東シナ海に重点配備しているので現状では巡視船の数が足らず、政府は対策を講じる必要がある・・・等々と、元エリート外交官らしいいつもの落着いた口調で、坦々と解説を加えていたのだが、持ち時間がそろそろ終了して次のニュースに移ろうか・・・という丁度その時に、何を思ったのか急に「中国ってのはヒドイんですよ!」(“中国船”でない点に注意)とあらためて身を乗り出してまくし立てたので、こちらがビックリしてしまった。

「こーんな大きな船で来て、ゴッソリ持って行くんですから!」と続けた訳だが、おそらく持ち時間終了直前になって、自分の仕事振りが御主人様から見て不充分だと思われはしないかと、急に不安に駆られたのであろう。

この岡本の普段とは微妙に異なる躍起ぶりから見ても、近況奴隷どもの尻を叱咤しているのであろう彼らの御主人様の焦りが窺い知れるのだが、岡本よりも奴隷としてのキャリアの浅い成り上がり奴隷の弁護士・八代英輝などは、『ひるおび!』でこれはちょっとハッキリ覚えていないが確かG7の話を皆でしていた時でなかったかと思うが、やはり前後の会話の脈略にまったく関係ないタイミングで急に思い詰めた表情で席から身を乗り出し、「ひとりすごくイヤな奴がいるんです。ラブロフって奴なんですけど!」と絶叫して周囲を驚かせ、司会の恵に「今なんで急にテンション高くなったんですか?」とたしなめられている滑稽さである。

「先生ぼくうんこ漏れそうです。トイレ行ってもいいですか?」じゃあるまいし、それを言うのが与えられたミッションだったのであろうが、後で御主人様に叱られる場面を想像しつつその台詞のことだけを思い詰めて考えているから、おかしなタイミングになるのである。

かくもかように奴隷という生き物は、高額な報酬と引き換えに悪魔に魂を売り渡したその惨めな生き様の醜態を、日々われわれの前に晒してくれているが、その奴隷の語る法螺(ほら)話をテレビの前で頷きながらありがたく拝聴している一般国民は、奴隷以下の家畜存在だということになる。

密漁船のニュースをやること自体は別にいいが、NHKの『ニュースウォッチ9』は、APECで僅か25分間の中身に乏しいものだったにしろ安倍晋三と習近平との間で日中首脳会談が2年半ぶりに実現した11月10日、その首脳会談のニュースの直後に、わざわざそれに水を差すようにまたサンゴ密漁船のニュースを、しかもいつも以上に執拗に念入りに、メーンキャスターの大越健介がヘリで小笠原上空を飛んだり、中国の浙江省や福建省の漁港からのレポートを交えたりしてやっているのを見ると、この放送局は一体日中関係をどうしたいと思っているのだろう、と訝しんでしまう。つまりサンゴを守ることが彼らの第一義の目的ではなく、他の別な理由の為にサンゴ密漁船を追いかけているように見えてきてしまうのだ・・・。

家畜を家畜たらしめるには思考力を奪うのが一番の方法だ。それには仮想敵を与えてやるのが最も良い。繰り返し繰り返し刷り込ませてやれば、いずれ家畜は仮想敵に向かって突進していくだろう。それが自己実現の方途だと信じて。自分が家畜だとも気付かずに・・・。





田中宇氏が『プーチンを強め、米国を弱めるウクライナ騒動』とブログ記事に題していたのは、3月9日の時点である。その時は(果たしてそうなるのかな・・・)と 半信半疑の感であったのが正直なところだった(日本の偏向マスメディアの伝える報道は、まるでその真逆のような印象報道ばかりであったから・・・)が、その後世界は事実その通りに、しかも目覚ましいスピードで動き出している。

そのなかでこの日本だけがなにか異質な空間を形成し、滞留しているかのような感覚なのである。あたかも比重の異なる気体の二層分離形成の如く、重く澱んで凝り固まり滞留しようとする気層と、その外周で活性化し、烈しく流動し始めた気層との、著しい分離・隔絶状況の呆然たる対照である。

日本は宗主国アメリカの奴隷マスメディアのコントロールする、情報統制国家である。宗主国の政治・経済的劣化と歩を合わせるかの如く、その劣化の進行度は今や猖獗(しょうけつ)を極めている。安倍晋三内閣発足直後から、政権と大手マスメディアが結託し、「アベノミクス」という造語の下に、実態の無い、というよりむしろ実態隠しのまさに全的な「広告代理店政治」が展開された。これはかつて類例のない、もはや政治とも呼べないような類の代物であり、小泉時代でもこれ程ひどくはなかった。

これは実に計画的なものであり、それはまず第一に「安倍政権は経済政策政権であり、景気と雇用を立て直すべく志向された政権である」というウソの徹底した刷り込みである。

その為に彼らが利用したのが株価である。アベノミクスの第一の矢とされたのは、「大胆な金融政策」であるが、金融緩和の本来の目的とは、それにより民間金融機関の貸出額を増大させて、景気を好転させることである。そして実際日本のマネタリーベースは2013年の1年間で45%増加し、日銀の目標通り200兆円を
超えた。しかしその大部分は民間貸出つまり民間設備投資の増加には繋がらず、したがって実体経済は思うようには好転しなかった。一方それは円安誘導の直接効果としての資産バブルすなわち株価の上昇となって現われる。

しかしこれらの結果は安倍政権が発足した2012年末の時点で、すでに充分に予測することが出来たものである。すでに日本は10年以上も前からいわゆる「流動性の罠」の状態に陥っているという指摘もあるが、実際金利面の要因以上に大きいのが、日本経済全体を覆っている根本問題としての「リスク要因」である。

一般家計の給与所得水準が長らくダラ下がりの傾向で、非正規雇用も増え、人口減少には歯止めがかからず、国の社会保障制度は信頼が薄れて、将来の先行き不安から国内市場全体の需要が先細り傾向にある為に、企業も個人もお金を使いたくても使えない状態に在るというのが、今の日本の根本問題なのである。これらの「リスク要因」をひとつひとつ取り除き解決していくことこそが政治の役割であり、それなしに日銀がいくらジャブジャブ市場に金を流したところで、企業は設備投資を控えるし、実体経済が好転する訳がない。消費増税後ガタ落ちしたのは当然である。 

一方株価は上昇する。政府とマスメディアは当初から、この株価上昇を「アベノミクス」というイリュージョンを大衆に信じ込ませる為のプロパガンダの道具として、最大限に利用した。

昼夜を問わずテレビの画面には株価指標の動向を見てほくそ笑む街場の個人投資家の表情が連日映し出され、それと並行してウソも百遍言えばホントになる、とばかりに「景気が良くなった」「景気が良くなった」という刷り込みが報道・情報・バラエティー番組を問わずCMでも、2013年春当時流れていたサントリー『ボス・ブラック』のCMでは、「この惑星の住人は、少し景気が良くなると、すぐ調子に乗る」と、嘲笑を加味しつつの早業の既成事実化である。

マッカーサーを想起させるパイプを咥えた西洋男の顔のイラストに“BOSS”と冠したこの缶コーヒーのCMで、宇宙人ジョーンズのうそぶく「この惑星」とは、勿論この日本のことなのであり、「この惑星そろそろ滅ぼすか」「いや、まだだ」などとやりながらジョーンズは毎回露悪的な変態をして見せるわけであるが、パチンコマルハンの日の丸凌辱CMほど露骨ではないにせよ、電通のいわば視聴者に向けてニヤつきながら精液をすっ飛ばしているような公開オナニーのようなものである。
そしてこの公衆の面前で醜いイキ顔を晒すしか能の無い五流黒魔術集団・電通に、丸ごと牛耳られているのが日本のマスメディアという訳だ。

第二、第三の矢については言わずもがな。「機動的な」財政出動と言いながらやっているのは旧態依然の公共設備投資ばかりであり、それでなくとも震災復興と東京オリンピック需要で人材不足と原価高騰に苛まれている建設業界に追い打ちをかけ、却って地方公共事業や民間住宅設備投資等にブレーキをかけている有様だし、「成長戦略」についてはまだ何もしていないが今後の目玉は非正規雇用拡大の為の法改正と法人税減税で、これまたパソナと大企業を喜ばすだけである。

そしてこの政権の正体を如実に露わにした極めつけが、10月31日の日銀による追加金融緩和の発表である。すでに金融緩和が景気の好転に寄与する効果は極めて限定的であることは、この二年弱の期間で証明されている。しかもこの時点で、円安進行
による燃料価格と原材料価格の高騰が消費者物価の上昇をもたらし、消費税増税とのダブルパンチで、大規模金融緩和の弊害がハッキリと中小企業と庶民の生活に襲いかかっていたのである。そこに更に大幅に追加金融緩和するというのである。

これはFRBの肩代わり策であり、「アベノミクス」イリュージョンの生命線である株価浮揚策そのものであり、この追加金融緩和の決定はハナから実体経済の好転を期待して行われたものではないのではないか、と疑われても仕方が無い。中小企業と庶民はもっと苦しめ、という確信犯なのである。それとも黒田は本気で「期待形成のモメンタムを維持」すれば実体経済が好転するだろうなどと、いまだに信じているのか?すでに円はこの決定時の1ドル109円台から12月5日には120円台に下落した。今後もさらに下落していくだろう。

2015年度末の日銀のマネタリーベース目標額は355兆円となった。景気後退局面のなか、札だけが更に猛烈な勢いでジャブジャブと刷られ、FRBは量的金融緩和の終了に続き利上げを検討、という異様な光景が眼の前に現出しつつある。ここまで来れば、「アベノミクス」などというまがいものの正体が何で、一体誰の為に機動しているのか気が付かなければ嘘である。

安倍政権が経済政策政権であるとするならば、その経済政策とは「一般家計からグローバル大企業・大資本・富裕層への再配分政策」なのであり、それはこの総選挙で自公政権が信任されれば、今後もさらに強化され継続される。安倍自身がいまだ選挙戦において「この道しかない」と強弁しているのである。

「自分の処では景気が良くなったという実感は“まだ”無い」などと言っているうちは、“まだ”マスメディアの洗脳術の内に縛られているのであって、そんなものはいくら待っていても永遠にやって来ない。永遠に与えられることのない架空のアメを夢見させられながら、虚空に向けて口をぽかんと開けている、家畜の群れだ。

そしてその家畜の耳に狙いを定めて、またあの我慢ならない嬌声が飛んでくるのだ。子供向けの紙芝居のような口調が、それだけでも充分耳障りなNHK『ニュースウォッチ9』のナレーションが、黒田電撃追加金融緩和発表のその日、お祭り気分の浮かれた口調でそのニュースを伝え出し、株式市場はフィーバーだ、日経平均の終値は前日から755円高の16,413円だ、およそ7年振りの高値更新だ、とはしゃぎまくった果てに、シメは大入り袋を配られた証券会社だか証券取引所の社員達の上気した表情の笑い合うカットだ。取って付けたような後段の解説などは実はどうでもいいのだ。家畜の目と耳に何が残るか、計算ずくで構成しているのである。

そしてどういう理由なのかは知らないが、12月8日、7-9月期のGDPの改定値が公表され、大方の予想を裏切り年率換算でマイナス1.6%からマイナス1.9%に更に下方修正されたというこの重要なニュースの場合は、『ニュースウォッチ9』でもその前の7時台のニュースでも封殺されるのである。

NHKは正真正銘の悪魔の集団である。皆殺しにしても殺し足りないほどに底無しに腐りきった悪魔集団、それがいまのNHKだ。




マスメディアの作り為す抑圧された言論空間が、重苦しい滞留感となってわれわれを取り囲み、外周から隔絶させている。その内積された目に見えない圧力が、突き破ってやりたくなるような衝動を、われわれに感じさせるのである。それは今はまだ微細な胎動のごとき状態を保ちながら、しかし確実にわれわれの内的感覚にその存在を示している。

この男は終局暴力を肯定しているのではないか?とこのブログを以前から読んで呉れていた人は、ここであらためて疑いを持つかも知れない。オレは2012年の総選挙の後最初に書いたブログ記事で、深沢七郎について触れながら、日本の戦後の言論空間はこれまでちょっと上品過ぎたのではないか、もっと「ゲヒン」であるべきだ、というような考えを述べさせてもらった。今また再びそのことを考えているのである。少し熟考してみたいので、再び中沢新一の『野生の科学』の、「デリケートな分類」という深沢七郎論の主要部分をここに転載してみよう。


「未開人と農民は分類を好む」というのは、ある有名な人類学者のことばであるが、深沢七郎もまるでその未開人や農民のように、たえず世界を細かく分類しながら生きていたようなところがある。

その分類の仕方はとてもデリケートで、しかも絶対的な正確さをもって遂行されていたので、そのやり方に慣れていない人は、目の前で手際よく世界が分類されていく様子を見ては、ただ呆然とするばかりだった。それはたとえばこんな風におこなわれる。


武田泰淳先生のお宅へ行った時だった。

「野球は好きですか?」

ときかれた。

「野球は嫌いです。上品すぎて」

と、正直にお答えした。

「そうかなあ、上品すぎるかなあ」

・・・

「レスリングなどは好きですか?」

と、奥さんがおっしゃった。

「あれは、乱暴だから、嫌いです」

と答えたが、好きなものを云わなければいけないと思ったので、

「スポーツでは、やっぱり、ギターが好きです、ゲヒンでいいですね」

と云うと、

「スポーツですか? ギターは」

と、ききかえされたので、まずいことを云っちやつたものだと後悔した。

(「言わなければよかったのに日記」)


この会話には、深沢七郎の実践している世界の分類学の、重要な特徴がすべてしめされている。

野球は上品すぎて、好きになれない。野球はサッカーなどと違って、プレーヤー同士の身体は、いつも十分な距離をもって分離されている。ボールも直接足で蹴ったり、手でつかんだりするのでなく、バットで打ち、グローブでつかむ。野球ではすべての行為が、道具によって媒介されていて、身体の直接性はできるだけ上品に制御されている。だから、野球は上品すぎるのであり、ことばの制御に人生を賭けている文士や詩人などは好むかもしれないが、逆にそこが深沢七郎にはつまらないスポーツと思えるのである。

その逆にレスリングには媒介が少なすぎる。身体と身体が直接激突しあい、相撲の場合のような儀式性や形式性が乏しくて、身体の動き回れる範囲に加えられる制限が、極端に少ない。形式性が乏しいと、そこには身体を律する論理性が乏しいということになるし、あとで言うように音楽性が乏しいことになる。そんなやりかたでは、スポーツが限りなく喧嘩に近づいていってしまう。その意味で、レスリングは乱暴で、趣味に合わない、と言うのであろう。

だから「スポーツと言うならギター」なのである。ギターを弾く指の動きを、深沢七郎は「スポーツと同じ」と言っている。指が直接に弦を弾いて音を出すのがギターという楽器である。たしかにギター演奏をしている人は、地面を直接に蹴り立てて走る短距離走者や、リズムをつけて地面を蹴っていく三段跳びの選手や、ボールを直接に足で受けて思ったところに正確に蹴りだすサッカー選手の身体がしていることと同じことを、指先でやっている。物質世界(楽器のこと)に直接身体の一部をこすりつけるギター演奏は、その意味では、まぎれもなくスポーツの仲間なのである。

しかし、ギターは物質との間にたくさん媒介を挿入する野球のように「上品すぎない」し、媒介と形式性が乏しいレスリングのように乱暴でもなく、人の知性と身体の動きとが、ちょうどよい近さとバランスで媒介されながら触れ合っている。だからこそ、ギターは「ゲヒン」で、すばらしい楽器なのである。深沢七郎の「ゲヒン」という分類の範噂は、おそろしくデリケートで深い内容をもっている。

深沢七郎によると、ピアノは上品すぎて、つまらない楽器である。なにしろピアノは最初から調律されている弦を、ハンマーで叩いて、音楽を出すのであるから、土台からして知的で面白みに欠ける。これにたいしてヴァイオリンは弦をこすって音を出すという点では、ピアノよりもはるかにエロチックで「ゲヒン」である。

しかし深沢七郎のデリケートな感覚からすると、「こする」よりもギターのように「はじく」楽器のほうが、出てくる音に粒子性があって、より好ましい。それにヴァイオリンは早くからクラシック音楽家に目をつけられて、上品な曲ばかり演奏する楽器に洗練されてしまった。そこへいくとギターの名曲などは、ほとんどすべてが酒場で演奏され、それに合わせてフラメンコダンサーが踊るための音楽である。エスタブリッシュすることを拒否するギター。いつまでも「ゲヒン」のままでいようとするギターは、それゆえ深沢七郎の分類学において、最高のランクに位置づけられることになる。


(「デリケートな分類」(『野生の科学』)より、部分)



つまり深沢七郎は、「上品」と「乱暴」のあいだに、「ゲヒン」を中立させている。現在のマスメディア言論は、大小種々のプレスコードにがんじがらめになっていて、テレビのバラエティー番組でさえも、「上品」な言論ばかりだ。しかもそれは「乱暴」による支配をその内側に秘め持った「上品」なのであり、結果「乱暴」のカモフラージュとしての「上品」という、非生産的な、抑圧され滞留する重苦しい空間を作り為している。

一方後発のネット言論の方はどうであろうか。その自由度はマスメディア空間よりも圧倒的に高いし、情報量も多く、可能性は無限とも思えるほどだが、しかし現状はその精神性においてやはり「上品」の域を出ていないものがほとんどなのではないだろうか?つまりいつの間にか無意識の精神的集合的プレスコードの如きものが形成されて、発言者を自発的に抑圧するのだ。そこでは「媒介が多過ぎる」。

そして一方ネット言論では「乱暴」で幼稚な言論もまた多いというのも事実だ。「乱暴」を「上品」が非難し、それにまた「乱暴」がやり返す・・・。もちろん批評の応酬というのは言論においてあって然るべきだが、その内容を吟味してみると、マスメディア空間の場合とではその関係性こそ微妙に異なるものの、やはり「上品」と「乱暴」との形成する非生産的空間がその主流を為しているように思える。「ゲヒン」というのは、やはりなかなかデリケートで難しいもののようだ。

阿修羅掲示板は、2012年の衆議院選挙以降、やはり少し元気が無くなったように思う。直後は不正選挙ネタで沸いたが、しかしこの問題自体がそれへの接し方で態度を二分するものでもある。政治板のなんとなくの減衰と相対して、ランキング上位に常に目立つようになって来たのがカルト板を独壇場とするポスト米英時代氏の投稿だが、ポスト氏の言論は深沢七郎的に実に「ゲヒン」である。

それはスケベ親父ネタやギャグが多いという理由だけではなく、氏の文体が深沢七郎的に“音楽的”である、という理由にも依拠している。氏の文章については阿修羅掲示板を参照してもらうとして、深沢七郎文学の持つ音楽性については、中沢は以下のような深沢の会話表現のなかにその典型があるとする。


甲州方言の言い回しは、がいして簡略だが、反復が多くてくどいところがある。その特徴は、深沢七郎の作品のいたるところにあらわれているが、とくに『笛吹川』のような作品では、そのことがまるで小説の主題ででもあるかのように、いきいきと活写されている。

「わしゃ、西山の湯に行かせてもらいてえよう」

と云った。定平が黙っているとおけいはまた、

「わしゃ、ボコが欲しいよう、西山の湯へ行けばボコが出来るかも知れんから」

と云うのである。定平はおけいが甲府の方ばかりを眺めているわけが始めて解ったのだった。(甲府の方を見ていると思ったら、西の空を眺めていたのだ)と思ったので、

「行って来ればいいじゃねえか、ひと月ぐらい」

と云うと、おけいはにっこりして、

「ようごいすかねえ」

と念を押した。下を向いたまま、

「わしゃボコが欲しいよう、ボコがねえからあんなことを云われて、いやだよう」

と云った。また、

「ボコがなきゃ困るよう」

と、くどく云うのである。   (『笛吹川』)

・・・・・・ひとつのフレーズが、そのままで、あるいは少しだけ変形されて、何回も繰り返されているうちに、そこには自然に音楽が発生する。


(「デリケートな分類」(同上)より、部分)



2012年衆議院選挙の終了後、言論空間はもっと「ゲヒン」にならなければならないのではないか、と考えていたオレとすれば、ポスト氏のその後の精力的な御活躍はまさに我が意を得たり、というか至極当然だろうという感じなのであるが、2012年衆議院選挙における巨大不正選挙という、ある種われわれの蓄積した平常生活実感を超えるものとして出現した超越的な暴力性のようなものに対処する為の技芸として、氏の音楽的「ゲヒン」さを備えた文体が他者に優って持続的な有効性を維持し続けたという事には、なにか意味があるのである。

殊にウクライナ詐欺でもイスラム国詐欺でも香港デモ詐欺でもアレもコレも誰でも中学生でも過去問レベルで5秒で正解が導き出せる「またお前かー」の法則(笑)を打ち立てた功績は多大である。つまり経験則と直観をほとんど無媒介に近い(厳密にはマスコミという反面教師のフィルターを媒介する)方法でダイレクトに接続するそのやり口が、「乱暴」ギリギリに「ゲヒン」なのである。

「ひとつのフレーズが、そのままで、あるいは少しだけ変形されて、何回も繰り返されているうちに、そこには自然に音楽が発生する。」 隔絶され抑圧され滞留していた空間のなかから、微細な胎動の如きものが生じ、やがてそれは繰り返し繰り返されるフレージングのさざ波となってモチーフを形成し、次第に大きなうねりとなっていく・・・。「ゲヒン」のウェーブだ。しかしそのウェーブはマス・レベルにおいてはいまだ声無き声、未出の声なのである。何かがまだここには足りないような気がする。主旋律を貫いて屹立する、烈しいビートのようなものが・・・。




ポスト米英時代氏と並行してこの間オレがその発信に注目し続けていた人物がもう一人いる。2012年総選挙後早々に「俺の前で不正選挙の話をするな」とばかりに阿修羅との訣別宣言をしてこんにちに至る、誰あろう山崎行太郎氏その人である。

山崎氏が一連のSTAP細胞問題で終始一貫して展開していたのは、凡庸な「科学主義」者達の「イデオロギー論」からのバッシングに対する、「科学」への「存在論」的思考からの全的擁護であった。多くの日和見的知識人が沈黙するか世論迎合的発言に終始するなかで、氏はこの問題に果敢にダイブし、そしてわれわれを瞠目させたのである。その孤高かつ勇猛果敢な言動を内側で衝き動かしていたのは、社会全体を覆い尽くす単純で安っぽい「倫理」や「道徳」を振りかざす思想的退廃への、烈しい嫌悪である。氏の立場からしてみれば、不正選挙について云々することなども、ある種の思考停止への退廃として映っていたのだろう。

合理主義とは何か?合理主義も一種の非合理主義である。つまり、合理主義も、「主義」であるという点で、「非合理主義」なのである。これは、科学と科学主義の差異についても言える。以下は、小生の処女作『小林秀雄とベルグソン』より 。「矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのである。つまり矛盾に直面しない思考とは、中途半端な思考であり、いわば矛盾することを恐れて、問題を回避した思考なのだ。」・・・。

2014.11.03 哲学者=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』より、部分)



「安っぽい倫理主義」とは何か?単純素朴な道徳主義である。文化のダイナミズムが衰え、文化の生命力が衰退すると、必ず、「安っぽい倫理主義」が蔓延る。そして幼稚=稚拙な思想や思想家が蔓延る。今の日本が、まさにそうである。「悪」や「生命力」「自然」と向き合う精神が欠如し、単純な「倫理」や「道徳」を振りかざし始める。

・・・・・・・

「イデオロギーから存在論へ」ということである。物事を「善悪の尺度」でしか見ないイデオロギー的思考は貧しい思考である。ニーチェ的な「善悪の彼岸」的思考こそ、本物の思考(存在論的思考)であろう。

2014・11・26 同上より、部分)



ここには、ポスト米英時代氏の言説に欠けていたものを充たす為の重要な鍵が、示唆されている。ポスト氏の言説は素晴らしく素敵に小市民的(笑)に「ゲヒン」だし、今のままで行って欲しいと思うが、しかしこの「ゲヒン」という語法には、深沢七郎的な、“魔術”的ともいうべき逆説が秘められているのである。 「ゲヒン」とは、つまり“ elegant な violence ”の謂いなのである。

「上品」は媒介が多過ぎて、表面的にはもっともらしいけど何だかウソっぽくて生命力に欠ける。逆に媒介がほとんど無くて直接的に暴力的な「乱暴」も、非生産的であるという点では、「上品」と似たようなものである。しかしその中間に深沢七郎は「ゲヒン」というカテゴリーを“中立”させる。

こんにちこの日本でこの“中立”という言葉ほど、その言葉の本来の意義から疎外されている言葉もないのではないか、と思うほどである。- いずれにも偏らずに中正の立場をとること。いずれにも味方せず、いずれにも敵対しないこと(広辞苑)。ここから派生してくるのは、日和見的な、当事者意識の欠落した事なかれ主義の、スタティックな形態であろう。

しかしそうではない。本来“中立”とは、文字通り「中に立てる」、すなわち未生のカオスのなかから存在の極点としての中心を屹立させる、極めて「存在論」的にアクティブでダイナミックな仕業のことを意味するものなのである。

お茶を立てる。庭を立てる。おそらくわれわれ日本人にとってこの「立てる」という仕業こそが、中世より古代、そして「記紀」編纂以前のはるか先史時代を貫いて、その集合的「存在論」的思考の、核心部分に位置するものなのである。

そしてわれわれはそのような「存在論」的核心的仕業にこそ人事を尽くさんとする、ひとりの稀有な政治家の名前を知っている。

小沢一郎は、今回のこの急な選挙戦のなかでも野党勢力を結集した新党結成実現の為に水面下で尽力した。安倍晋三の ー 今なら勝てる。今なら野党は小選挙区の6割程度しか公認が固まっていない。安倍政治の正体が国民にバレないうちに ー という理由しか無いこのなんという個利個略解散。しかも解散から公示日までは過去最短の11日という異例の短さだ。

それでも小沢は大同団結の野党統一戦線が出来れば勝てると踏んでいた。その為には党の解党も当然いとわなかったし、自分一人は無所属になってもいいとさえ周囲に伝えていた。結局統一戦線は実現することは出来なかったが、最低限の野党間の候補者調整は出来た。これも小沢がいなかったら多分実現していなかったであろう。

自分はいま弱小政党の党首に過ぎず、しかも官・マスコミによる人物破壊工作の影響で、多くの国民に嫌われている。自分には資格が無いけれど、「誰かが既成政党の枠から飛び出して「この指とまれ」と言ったら」(小沢)、自公に拮抗する、政権交代可能な勢力が現出する。滞留していた世界が、一気に活性化して動き出す。その為なら、自分の存在は見えなくなってもいい。

「さあよく見ろ、ここが世界の中心だ。」 - それは存在の極小点として虚空に示される、屹立した“無”だ。それがひとびとに知覚された途端に、重く澱んで滞留し
ていた気層に活力が充ち、世界が動き出し、“有”へと一斉に湧出し始める。極点を経巡って湧き上がる力と力とは拮抗し、分岐する・・・。

誤解を恐れずに言えば、小沢一郎にとってそのような創造の奇跡を実践して見せることこそが、「存在論」的な政治家としての彼の第一の本懐なのであり、その時彼自身が拮抗する勢力のどちらの側に属しているかという問題は、それほど重要ではないのだ。

しかし今回この小沢一郎の崇高な理念は、残念ながら民主党と維新の党の凡庸な指導層の政治家達には充分に理解されることが成らなかった。橋下徹などは、やたらと民主党に噛みついて、率先して共闘ムードをぶち壊している。




だからやはり「プーさん、元さん、がんばって」の他力本願だけでは、事態は好転しないと思うのだ。思い返せば2月の都知事選の当時は、「立ってるものなら小泉でも使え」というような絶望的状況であったが、所詮「俺女の首絞めないと立たんのよね」という宿悪により連中に縛られている男に限界状況を突破するような力もその気も無い訳であるが、しかし
実際この安倍というアンポンタンをいつまでも首相の座に置いておいたら、日中戦争の悪夢もいつ現実のものになるや知れぬ、という危機感もわれわれにはあった訳である。習近平がおそらく転向したのではないかと思われる現況、当面その危機は薄らいだが、しかし無くなった訳ではない。中国国内でも権力闘争の暗闘はある。

当時から比して国内情勢が好転していると思える要素は無い。今のこの国は、アメリカに対しても、中露に対しても、こちらから何らの積極的な意思表示も出来ない小児的な国家に陥ってしまっている。それが一番の問題なのである。そればかりではない。国民も小児化が進行し、政治に対して意思表示することすらみずから進んで放棄しているかの如きである。


テレビの“街の声”を見ていると、能天気な20代のにーちゃんねーちゃんは別として、「政治にはもう何も期待していません」「誰がやっても同じでしょ」(共にテレビ局の一番大好物の“おいしい”コメントだ)などと言って棄権を表明しているのは、年の頃30~50代くらいで「趣味は読書です」という感じの、自分ではすごく頭が良いと思っていて他人を見下してすらいるけど実は全然大したことなくて情弱ですらある、(タレントでいうとNHKの教養番組に出てるアレみたいな感じの)女に多いという感じで、<色気のない女は選挙を棄権する>という新・マーフィーの法則が導き出せそうな感じである。

世界情勢が多極化へと目覚ましく流動化し始めているなかで、このまま既得権益を維持する為の悪企みにしか頭の働かない最凶最悪の談合集団・マスメディアの流布する無気力で鈍重で滞留した空気感に同化して迎合し続けているうちに、気が付いた時にはわれわれ自身が世界の活性化を阻害する世界の癌、国際社会
の中の暗黒地帯と化している可能性すらあるのである。事実その兆候は経済・軍事の両面においてすでに見られ始めている。

当事者意識の欠落したスタティックな“中立”ではなく、今こそ本来の能動的で生産的でダイナミックな“中立”の回復が求められる。

此の世が神と悪魔との戦いの場であるとするならば、少なくとも現在この日本では、マスメディアというツールを掌中に収めた悪魔の方が、圧倒的に優勢な状況である。この状況を放置したままで、われわれは変われるだろうか。

神と堕天使ルシファーとの間に天で戦いが起きた時、天使の三分の一は神の味方をし、三分の一はルシファーの支持をしたが、残りの三分の一は中立であったと云う。そして西洋の精神史において古代から中世を生き続けこんにちにその血脈を伝え続ける聖杯探索の伝説でも、幾多の苦難を乗り越えて富の源泉たる聖杯に辿り着くことの出来る英雄は、この最後の中立の天使たちの流れを汲む者、つまり「善悪の彼岸」に立てれる者でなければならないというのだ。

この選挙の結果如何にもよるが、政治の荒廃がこのまま継続されるか更に深化する様な事態が現在予想されている。本来大衆社会におけるまさに中立的存在であるべきとされるマスメディアが、悪魔の巣窟と化してしまっている現状を、こちら側から突き破って屹立する“中立”的冒険が決行されなければならない時も近そうである。その時に果たして「最後に残しておくべき矜持」を保持しているのかどうかは、自分にも分からない。



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2013年3月21日 (木)

があがあがちょうのお出ましだ!(2012年総選挙で何が死んだのか?)



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実は少々やらかしてしまい、しばらくおまわりさんのお家に居候になっていた。



おまわりさんのお家での生活は、静かなものである。頭を丸め、早寝早起き。欲望の集積体たる外界から隔離されて、単調な作業に明け暮れつつ、粗食を喰らい、尻拭きのちり紙一枚にも倹約を心掛けるつつましい日々である。会話という会話もほとんど無い。

しかし君は囚人ボク刑務官、オイお前、ハイ貴方のロール・プレイング・ゲーム的予定調和の坦々と進行する塀の中の“静けさ”は、期限付きだし、心の深部にまで侵攻してくる類のそれではないので、慣れてしまうと案外安穏としたものであり、そこかしこで見かける“絵っこ人間”達の身体に刻まれた色とりどりの図象さえも、どこかひょうきんで長閑(のどか)な風情である。

しかしその安穏とした均衡が、<情報の遮断>によって成立しているうわべだけの均衡であるという事実からは、どんなに目先の日常への順化に努める毎日を送っていても、逃れられるものではない。

一たび居室の小さな窓から塀の外の世界の方を見やる時(いつも同じ風景、いつも同じ角度)、そこからは不気味な別種の“静けさ”の進行している気配が立ち昇る。12月16日の選挙結果を、オレは知っていたのである。

窓の外に重苦しく充満するかのような“静けさ”の圧迫感を日々眺めているうちに、オレの想念は記憶の海馬のなかを漂い始め、いつしか少年時代のある地点に着地した。おまわりさんのお家は、オレの少年時代に過ごした街に近かったのである。




動物的段階


少年時代のオレは、ひどい鼻詰りに長く悩まされていた。たしかアレルギー性鼻炎という診断ではなかったかと思うが、小学生の頃から通院を始め、子供だから途中結構サボった時期もあったりはしたのだが、それでも何だかんだで数年、家から数キロ離れた耳鼻科医の所へ、時にはバス、時には自転車で学校帰りにせっせと通っていたのである。

しかしそんな努力にも拘らず、症状の方は一向に改善しないまま中学を迎え、さらに月日を重ねていた或る時、それまで平行線だった鼻の詰まり具合が、より一層急激に悪化し始めたのである。その病院では普段は医師に診てもらえる事はほとんど無く、看護婦に処置してもらうだけが通例であったのだが(今考えるとそれだけで眉唾な病院である)、堪らず医師の診察を願い出た。

レントゲン撮影などした後、診察室であらためてオレに向かい合ったその老医師は、威厳に満ちた態度で静かに、無感動に、しかし自分の声の効果に自信を持っている人のやり方で一言、「君も第二段階に入ったね・・・」と言い放ったのである。

(残念ながら・・・)というような言外の含意すら無いのだった。彼の顔の表情からは何らの感情も読み取ることが出来ない。悟りきったような、当然そうなるべき事態になるべくしてなった、という事実報告を坦々と述べる事務員の、さざ波ひとつ立たない凪いだ湖面を見つめている人のような顔で、オレの前に坐っている。

オレはその時生まれて初めて、“気の狂っている大人の人”を、眼の前に見たのである。



アガサ・クリスティーの探偵小説 『NかMか』において、ベレズフォード夫人が遂に正体をあらわした敵(ナチス)の間諜(スパイ)と正面から対峙した時、彼女の口を衝いて出たのは、“があがあがちょうのお出ましだ!”というマザーグースの童謡の一節だった。

狂気というものが静かに、穏やかにやって来るものだという事、そしてそれへの対抗手段について、アガサ・クリスティーは経験的にか直観的にか、識っていたのである。狂気に浸された人の心のなか、そしてその生活も、おそらく静謐なものである。たとえそれが表面的には確信的な力強さに漲っているように見える場合でも。

精神の病が無意識の歪んだ抑圧によってもたらされている事を、現代心理学は明らかにしてきた。狂気に対抗するには、抑圧されていたものを甦らせなければならない。極限的な危機的状況の中で主人公にマザーグースの童謡を叫ばせたクリスティー女史の直観は、だから科学的にも、まったく正しいものだったのである。

があがあ鵞鳥のお出ましだ、さてさてどこへ出かけよう、階段あがって階段降りて、お嬢様のお部屋のなかへ・・・

さてさてどこへ出かけよう。いざ娑婆へ出てみて、想像通りではあったが、この重苦しい静けさの原因は何だろう。オレは山崎行太郎氏の矜持に満ちた言説が嫌いではないが、氏とは立場の違う無名のブロガーに過ぎないので、やはり12月16日の総選挙における巨大不正選挙疑惑については、大いに騒ぎたくなる。

オレも父方は九州の武家の出であるが、どうもあまり高級な家柄ではないようだ(笑)。それにこの選挙結果を小選挙区制の産んだマジックとして無理やりに咀嚼(そしゃく)しようとすると、眼の前にあの老医師が現れるのだ・・・。

小沢一郎には威風堂々毅然と構えていてもらわなければ困るが、しかしわれわれの相手にしているのは、楠木正成の軍をさらに数段低劣にしたような、こちらが開戦前の名乗り口上を歌い上げているさなかに、石つぶてやら糞やらを不意打ちでぼんぼん投げつけてくるような連中である。

最後に残しておく矜持として、飛んできた石を拾って投げ返すまではしないでおくが、「卑怯だぞコノヤロウ」とは、自分の行動範囲至る所で大いに喚(わめ)きたいものである。それに武士が滅んだのは、自分達を高級な存在と見做してしまった処にも、起因したのではなかったろうか?



マザーグースの童謡には続きがある。“お嬢様のお部屋のなかへ”入って行ったがちょうさんは、そこで“お祈りをしないおじいさん”を見つけて、追い出すのである。この件(くだり)は、われわれにとって非常に示唆深い。

敵に勝利する為には、敵陣営を仲違いさせ、分裂させてしまうのがひとつの有効な手立てなのだが、破壊因子が誰だったにせよ、それを今回はまんまと相手側にやられてしまったような選挙後の未来の党と生活の党の分党があり、オレは塀の中だったので良くは分からんが、それがこの重苦しい空気に拍車をかけたであろう事は、容易に想像が付く。

オレ自身も、嘉田由紀子氏は政治家としては未知だが人間的にはバランス感覚のありそうな人のように思えたし、大飯原発の再稼動の可否を巡って権力闘争のとば口ぐらいは肌身で経験した人でもあること、そして彼女が女性であること等を事由に,彼女には期待したし、選挙前にはエールも送ったが、しかし彼女は、狂気を眼前にして“があがあがちょうのお出ましだ!”と叫んだタペンス・ベレズフォードには、成れなかったのである。

たった一声叫ぶだけで良かったのである。選挙期間中、彼女は政党党首として何度かテレビの全国放送の生放送に出演する機会があったのだ。その度に悪意に満ちたキャスターやコメンテーターどもに取り囲まれていたが、その悪意の最高潮の狂気として発現しているさなかに、「 しかしマスコミの世論調査というのは、私にはどうも腑に落ちないんですよ!インターネットのYahoo!やロイターのサイトで行なっている世論調査では、いずれも未来の党が政党支持率30%超で第1位なんですけどね。貴方のとこの調査(2%?)とのこの違いは、何なんでしょう?どうなんです?」と一発かましてやれば良かったのである。そうすれば、その小さな一刺しで穿たれた僅かな穴から、いずれがちょうの大群がどどどと押し寄せてきたかも知れないのだ。

もしかしたら彼女は、がちょうではなく、自分を琵琶湖に舞い降りた白鳥ぐらいに空想していたのかも知れない。そうだとしたら、既得権益を守る為に死に物狂いになっている“彼ら”との権力闘争に、勝てるわけが無い。

白鳥だって、すっくと凛々しく優雅に水面を滑っているように見えるときでも、抑圧された無意識がそうであるように、水面下では必死にばたばたと水を掻いているのだ。無意識の抑圧を内面に抱え込んで生きている患者が、しばしば自分の心の奥の内部と、外部の事象との“取り違え”を犯してしまうというのも、現代心理学ですでに多数報告され明らかにされている事実である。

ユング心理学における「投影」などがまさにそれであろう。嘉田由紀子という“お嬢様”は、自分の心の内に知らず知らずのうち巣食っていた“お祈りをしないおじいさん”をこそ追い出さなければならなかったのに、“取り違え”て小沢一郎を追い出してしまったのである。もし河合隼雄あたりがまだ存命であったなら、彼女の言動に対する興味深い分析が聞けたかも知れない。

おそらく彼女は、環境工学やジェンダーに関する論文などは多数読みこなしていても、マザーグースなどはあまり読んだことは無かったのだろう。またわざわざ外国の古い童謡集などにあたらなくとも、わが国でも古く子供らが「かあかあかあ 山の神のさいでん棒」などと唄いながら婦人の尻を棒で叩いてまわっていた、というような風習に対する民俗学的知見も、やはり彼女には縁遠いものだったのかも知れない。



<無憂荘>

実はここからが本題である(笑)。

今まで言ってきた事を一言で言えば、嘉田由紀子と未来の党は今回少々お上品過ぎた、という結論なのだが、しかしその責任を彼女一人におっ被せてしまうと、逆に問題の本質が見えなくなってしまうのではないかと危惧するのだ。

彼女は1950年生まれだが、オレにはどうもこの「戦後民主主義」という名で括られる60余年の生活空間及び言論空間の推移の全体が、少々お上品過ぎたように思えてならない。たとえば大江健三郎のようなタイプの知識人は、今回の総選挙の顛末をどのように概観し、今どのように考えているのだろう。先日3月9日に行なわれた反原発集会では健在振りを見せていたが、しかし彼がこれまでずっと信奉し、唱え続けて来た「戦後民主主義」なるものの“底が抜けた”のが、まさに今回の総選挙だったのである。

若い頃の彼なら、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」とオーデンの詩のひとつも引用して嘆いているのではないかと思われる今日の状況であるが、やはりここでもオレはオーデンではなく、同じイギリス出身の文学者でも大衆娯楽小説の方の大家、アガサ・クリスティー女史の直観の方に、ヒントを求めてみようと思うのだ。

しかしその前に、彼女ほどではないがやはりなかなかの直観力を備えた書き手、市井の一ブロガーあいば達也氏が、まさしくあの12月16日の総選挙の前日、昨年12月15日に、「朝日・読売が投票前日 未来の党に向け、“ネガキャン手榴弾”を投げつける!」と題して、おそらくそれほど多くの人が注目しなかっただろうと思われる朝日と読売の、投票日前日という段階での未来の党に対するジェンダー論的ネガキャンに鋭く反応している点に、まず言及しておく必要があるだろう。

つまり自らも女性である嘉田由紀子が、子育て世代の女性が外で働きやすくなるような環境整備を、と選挙戦で訴えていた事に対する露骨な鞘当ての、「夫は外、妻は家庭」という考え方に賛成の人が増えているという世論調査結果を、朝日・読売が内閣府と結託して投票日前日にぶつけて来た、その特定政党狙い撃ちの彼らの露骨なネガ・キャンに対してあいば氏は呆れ立腹しているのであるが、この小トピックはしかし、おそらく氏が意識していた以上に、重要な問題を孕んでいる、われわれの問題の核心の、そのとば口に触れている、とオレは考える。

なぜならここで問われているのは、“母”の在り方そのものであるからである。



母親は子供に何を望むのであろうか?そしてその為に母親は、どのような行動を取るのであろうか?将来安定した収入のある職業に就いて貰いたいと願い、その為にいい学校に入って貰いたいと願い、その為にはいい学習塾を探すだろう。そして今なら、わが子の放射線被曝を心配し、食品や空間線量に日々気配りしているかも知れない。しかしその先は?

動物的段階へとわれわれを励ますアガサ・クリスティーの『NかMか』の、それと関連するもうひとつのテーマが、まさにそれなのである。

『NかMか』の舞台となるのは、イギリス南部のリーハンプトンという保養地に在る<無憂荘>(!)という名のゲストハウス(賄い付き旅館)である。有閑マダムや退役軍人らが集うそのゲストハウスに潜伏していると思われる、「NかMか」というコードネームの悪しき敵国のスパイを、ベレズフォード夫妻が探偵するという筋書きの推理小説である。

N(HK)かM(inpou)か。あまり語りすぎると小説の種明かしになってしまうので程々にしておくが、しかしここが問題の核心部分であるのでこれだけは言うが、事件が解決する為には、<無憂荘>に暮らす可哀想なテレビっ子=ベティーの母親は、象徴的に死ななければならないだろう。

なぜテレビっ子か?それは他ならぬテレビこそが、現在の日本に暮らすわれわれにとっての<無憂荘>に他ならないからだ。

彼らは常に<無憂荘>だ。「楽しくなければテレビじゃない」という悪い冗談のようなスローガンがかつてあったが、自国を未来永劫にわたって壊滅させるような破壊的諜報活動が現在進行中の時でも、辺りに激しい爆撃弾の嵐が飛び交っているような時でさえも、彼らはそこが平穏太平な<無憂荘>であるかのように見せかけ、振舞うのである。

現に今も、資本の論理の絶対的覇権によって、一国の築き上げてきた社会的セーフティー・ネットの全域を立ち直り不可能なまでにずたずたに破壊し尽くそうというTPPなる怪物を、一介の貿易協定に過ぎないものかのように矮小化して見せることで国民に受け入れさせようと謀り続けているし、安倍首相がTPP参加表明した日には、NHKのスタッフが選りすぐった「ニュースウォッチ9」“街の声”第一声は、身なりは整っているが頭の中はお花畑な初老のサラリーマンの、「消費者としてはありがたいですね」というやはり度外れた<無憂荘>の住人が登場するのである。

あれはいつから放送されているのだろう。塀の中から戻ってきてから見たが、キリンの淡麗グリーンラベルの新CMで、「嵐」というよりは「無憂荘」というグループ名の方が似合う24時間和みっぱなしキャラで地上波テレビ局ネット群を席巻しているアイドル・グループが、とある牧羊地で羊を追い立てると、羊達の群れが人文字ならぬ羊文字で、peaceと形作り従順に整列するのである。

あたかも昨年末の総選挙の勝利の美酒に酔う“彼ら”が、その後の既定路線としてあった安部自民の選挙公約詐欺のTPP参加表明まで含意して、われわれ日本国民を嘲笑しているかのようなCMである。(そういえばわれらが売国宰相の滑舌も、羊か山羊か駱駝か驢馬か、といった連想を誘起させるものであるな。)

30代より上のまさに子育て世代か子育て終了世代に根強い人気の彼らであり、もちろん彼女達がかわいい男の子を見て癒されている事自体にケチを付けるつもりは無い。オレだって若い女を見るのは好きである。しかし事ここに及んでは(昨年12月16日以降、この国は発狂段階に突入した、というのがオレの認識であり、しかもそれは加速度的に(静かに)進行中である。その表層は投機バブルの熱によって覆われてはいるが、それさえもわれわれの“狂気”には相応しい現象なのだ。)、もう客寄せパンダも同罪だぜ・・・という気分にも段々なってくる。暗黒日テレの「NEWS中身ゼロ」とか出んなよな・・・。



本題に戻ろう。“母”である。マスメディアの作り為す人為的で意図的な雑音の中で、反消費増税の声も反原発の声も反TPPの声も掻き消されてしまった未来の党は、母親と女性の立場の主張を前面に打ち出し、それはそのまま婉曲的かつ通底的に、反消費増税と反原発を生活者として望んでいるであろう多くの母親達への共鳴の呼びかけでもあったわけだが、最後にはそれさえもマスコミのネガキャンの標的にされていた、というのは先述した通りであるが、しかしその“母”の主張は、たとえマスメディアの無視または中傷及び票集計時の不正が無かったとしても、世の中を大きく動かすまでの力には足りなかっただろうというのが、オレの印象なのである。

志は間違っていない。女が立ち上がらなければ、おそらくこの国では大きな社会の変革は実現出来ないであろうとは、当ブログでも以前から主張してきたところである。男はその点どうもイマイチである。仕事も身なりも立派でも、愛読書が日経新聞ではお花畑もしょうがないのかも知れないが、小沢一郎の「自立と共生」の社会の実現に向けては、男はなまじ自分が自立していると思い込んでいるだけ、障壁なのである。

それに比して、今回の総選挙では比較的若い世代の母親層を中心として、女性達の「自立と共生」へのムーブメントはあったように思う。しかし実は「自立と共生」というのは、言うほど容易なことではないのである。

「自立」と「共生」とは、ある意味対立する概念なのだ。その信念と理想との発芽としてそれは両方とも当初のわれわれの心のうちにあるが、それは対立する概念であるが故に、同時に手を取り合って成長していくようには、成長していかないのである。

父権性社会の西欧ではその為強い父親の下、まず自立した個人の形成があり、彼らの共生はその確立した個人間の社会契約としての共生という意識が強いのだが、強い父親の元々存在しない(その空隙を衝いて戦後父親面して入り込んで来たアメリカが、モンスター化してDV的破壊をおっ始めたというのが、昨今の状況である)日本で同じモデルの形成を望むのは難しいとオレは思うし、小沢一郎の考えている「自立と共生」も、表現上では類似的でも思想的な深みのレベルにおいては、やはり明確にそれとは異なるものなのである。小沢一郎の「自立と共生」は、今までにない新しい日本独自の近代超克モデルを目指している。

西欧モデルの場合には実際的にどのような心的過程を踏まねばならないのか、踏んできたのか、オレも彼らではないので詳細は分かりかねるが、もとより母権性社会であるこの国で「自立」を指向し始めた母親達は、たちまちのうちに挫折を味わわなければならないだろう。

なぜなら“母”としての女の本質は元々が「共生」指向だからである。実は日本人の「自立」を妨げているのも、この“母”としての女の「共生」指向が、社会全域に広く支配的に通底いているからなのである。この“母”の共生指向が支配的であるが故に、「人様に笑われないような」人間になりなさい、という形での人格形成が連綿と為され、西欧的な意味での「自立」した個人の形成を阻んでいるのである。「空気を読め」というのも、実は母性原理の側からの要請による社会的通念に他ならない。この国には強い父親はいないのだ。

“母”の側からの「自立」への旅が始められなければならないだろう。しかし、するとどうなるか?それはいずれ遅からず、自家撞着の罠に陥穽(かんせい)してしまうのである。

「自立」に目覚め我が子の教育にも「自立」を求めるようになった“母”は、今までは「人様に笑われないような」人間になってくれれば良いぐらいにしか思っていなかったのが、より高い教育を強く望むようになり、今までよりもっといい学習塾を探して血眼になるかも知れない。或いはその逆に、理想と現実とのギャップに疲れて、育児放棄や虐待の方へと道を外してしまう可能性も有るだろう。父親は当てにならない。子供の放射線被曝が心配で「自立」的に色々調べるのだが、そのことに過敏になるにつれて、周囲から孤立していくようにも感じる・・・。そして仕事と家庭との両立・・・。

これらの現象はいずれも、元々「共生」的な資質をその本性とする“母”が、「自立」を指向した時に体験する自家撞着の苦しみである。この時彼女達は自立する事がすなわち孤立する事であるかのように感じられる状態に置かれるのである。「共生」的なサロン的空間からの孤立感は、彼女達を益々我が子との個人的紐帯の方へと純化させるよう働くかも知れない。

オレは今“母”としての個人的体験について述べてきたが、2012年の総選挙における精神の深層域の運動において、まさにこの“母”の「自立」という巨大なウェーブの上に屹立せんとしていた日本未来の党の運動が、これと同様の過程にあったと考える。“母”の側からの「自立」へと踏み出したこの世界的にもまったく新しいわれわれの運動は、だからあの段階で、挫折しなければならなかったのは寧ろ必定だったのであり、朝日と読売の変化球的ネガキャンも、彼らは意識していなかっただろうが、案外核心を衝いていたのである。

大敗に終わった選挙結果とその後の分党顛末を見て、これならば「国民の生活が第一」で戦った方が良かった、とする向きは多いだろう。しかしオレは不正集計はほぼ100%有ったと考えているので、その場合も選挙結果は変わらなかったと思う。司法・検察権力と言論権力による人物破壊工作の被害者・小沢一郎を前面に立て、白日の下に正々堂々全面権力闘争に挑んで、その結果があの不可解な大敗では、やり切れなさも多分同じであったろう。むしろ禁じ手に手を染めてしまった“彼ら”の方が、これからジワジワとボディーブローに苦しめられる筈である。

「自立」を目指した“母”は、自家撞着の海の中で死ぬのである。われわれの「自立と共生」の運動は、どうやら西欧モデルのそれとは、大いに異なる過程を歩まなければならないようだ。

死んだモノは甦える。死ななければ甦らない。

があがあがあがあがあがあがあ・・・



TPPと深沢七郎

かあかあかあかあかあかあかあ・・・

アガサ・クリスティーによって動物的段階に誘(いざな)われたわれわれは、ほどなく時空を超えて、甲州地方の山あいの小さな寒村に佇みながら厳しい夕暮れの風景を眺めている、己の姿を見い出すことになるだろう。あの総選挙で象徴的な“母の死”という挫折を経験したわれわれが、そこに未来的な積極的意義を探ろうとする時、一人の偉大な先駆者の存在に思い至らざるを得ないからである。

深沢七郎が『楢山節考』を引っ提げて文壇に登場したのは、丁度高度経済成長期に突入し、日本全体が熱に湧き立っていた昭和30年代の初めであった。『楢山節考』は第1回中央公論新人賞の受賞作として世に出たのであるが、その当の選者達すらも、正宗白鳥のような例外を除いては、この自分達の間に突然現れた“異物”のような作品に戸惑いを隠せなかったようである。深沢七郎の登場は当時の日本近代文学の文壇およびその読者層において“事件”であり、”衝撃”であり、“驚愕”であったが、その大部分の反応は「何だか訳の分からないもの」として彼を内心“畏怖”しつつも、敢えて見なかったことにして“無視”するというようなものが多かったのである。

かく言うオレも、20代で初めて『楢山節考』を読んだ時は、似たような反応であったと思う。お勉強の出来る子供として少年期を過ごし成人したオレは、怠け者ではあったが、いわば近代教育の優等生という一面も同時に備えていた訳で、同年代の平均水準よりも意識上では却ってより“近代人”であった可能性もあるわけだ。

民間伝承の棄老伝説を題材としたこの小説は、現代社会に暮らすわれわれにとって全編が驚愕に充ちているが、小説の冒頭に近い部分で、おりんが平然と自分の歯を折ってしまう場面に遭遇した時、その圧倒的なリアリティーとインパクトに、読者はいきなり打ちのめされてしまうのである。

おりんは「空気を読む」女である。おりんは来年には70歳で、楢山に捨てられに行く年齢なのだが、その歳にもなってびっしりと生え揃った健康な歯でいることが、恥ずかしいのである。恒常的に食糧の不足気味であるその村では、年寄りが健康な歯をしているだけで、若い者の食い分を奪う強欲婆ぁのように見做されて、馬鹿にされるのである。

深沢七郎の描く“庶民”は、皆おりんのように「空気を読む」人達ばかりである。その空気読み振りは徹底していて、常に気を回し相手の様子を伺い先回りしようとするので、時に気が急き過ぎて失敗してしまうほどであるが、おりんの歯折りもやはりある種の逆効果を生み失敗してしまうのである。

しかしおりんは現代のそれのように、「空気を読め」と権威の如く振舞うことはしない。逆なのである。おりんの歯折りの場面を目の当たりにし、超然として楢山参りに向かうおりんの透徹した思考に触れた時、われわれはそこに「空気を読む」女の「共生」指向の最深部に潜んでいた、強靭な“母”としての社会思想を、再発見することになるのである。

おりんがみずからの歯を叩き折るとき、そこには「自立」した近代的自我というものは、まったく存在していない。そのことを、深沢と同じ甲州出身である中沢新一が、分かり易い言葉で解説してくれている。

 -自分が健康だとたくさんの物を食べてしまうから、他の人たちに食べ物が行き渡らなくなる。少ない食糧を皆で分け合っているので、自分が年をとっているのにたくさん食べてしまっては、若い者や子供を飢え死にさせてしまうかもしれないから、自分は物を少なく食べるようにしていかなければならない。このように考える時、おりんは自分の事をほとんど考えていません。自分という意識が無いのです。自分もそのメンバーの一員である、もっと大きい世界のことを考えています。(中略) おりんの行動は、おりんの個人意識によるものではありません。おりんは常に他の人のこと、そして人を超えたもっと大きい集合体のことを考えている。それは、個人で構成されてはいても個人意識を持っているわけではなくて、動物の種のような大きな一塊(ひとかたまり)をなしています。おりんは「種」という考え方に立って思考しているのです。しかし、近代文学は、この種を否定して、私という個人として近代的な自我を確立した。

             奇跡の文学-深沢七郎が描く「庶民」 (『野生の科学』 所収)


ここで語られているのは、われわれ日本人の社会福祉思想、社会的セーフティー・ネットの形成思想の、根幹に存在していたものである。その後日本は飛躍的に経済成長を遂げ、昭和43年にはGDP比で世界第二位の経済大国となり、資本の勝利の恩恵を皆で享受して来たわけだが、しかしあの小泉・竹中の「構造改革」という破壊工作で変質される前までは、その実態は社会資本主義ともいうべき、資本の論理と福祉の論理の均衡した折衷社会として成り立っていたのである。

資本の論理=「自立」の論理、福祉の論理=「共生」の論理と言い換える事も或いは可能だろう。(ただしこの場合の「自立」は、運動主体が個からマネーに転移していることに、留意しなければならない。)われわれは資本の論理を野放図に任せるなどという事は決してしてこなかったのである。

小泉以降崩壊してしまった(今や全雇用者の3分の1超が非正規雇用という現状)家族的な雇用体系。簡易保険や各種共済基金、そして世界に誇れる国民皆健康保険制度。下支えのある社会であると同時に、上も極端な高報酬となることを抑制していた。王貞治の最高年俸は物価水準の変動を考慮しても現在の阪神の新井貴浩の半分ぐらいであったが、王貞治は文句を言わなかった。 - われわれは深沢七郎を“畏怖”し、“無視”し、“異物”として除け者にしてきたが、その間も彼と彼のおりんは、片時も離れず、ずっとわれわれの傍で伴走し続けてくれていたのである。



3月15日、安倍晋三が、ウソで塗り固めたTPP参加表明記者会見を行った。安倍晋三は選挙の前から、TPP協議に参加する事を決めていたのである。その為にまず選挙公約に細工を施した。

先の衆院選における自民党のTPPに関する選挙公約は、6項目から成っている。(1)「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り、交渉参加に反対する。(2)自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない。(3)国民皆保険制度を守る。(4)食の安全安心の基準を守る。(5)国の主権を損なうようなISD(投資家と国家の紛争解決)条項は合意しない。(6)政府調達・金融サービス等は、我が国の特性を踏まえる。

しかしこの公約を本気で守ろうとすれば、TPP協議に参加するという選択肢は無い。TPP協議に参加すること自体が不可能になる。そこで安倍自民は、このなかの玉虫色の公約(1)だけを衆院選の公約本体に記載し、(2)~(6)を同時発表した「総合政策集」に別記載して選挙戦に臨み、茶番劇のオバマとの共同記者会見で露払いを終えると、早速開き直って、同時発表した総合政策集は「正確には公約ではない。目指すべき政策だ。」との国民を愚弄した誤魔化しの詭弁を繰り出すのである。(東京新聞3月3日記事

オレはこの安倍晋三という男が「国柄」を守る、「美しい故郷」を守る、「日本の農と食」を守る、「国民皆保険制度」を守る等と口にするのを聞く度に、心の底から憤りを覚える。人々にある種の憐憫の情を喚起する彼のあのたどたどしい滑舌も、一見柔和な印象を与えるあの容貌や物腰も、人心を欺き易くするよう、悪魔が彼に与えたものである。もしおりんがこれらを聞いていたら、何と思うであろうか - たぶん彼女は、「バカー」と一言言ったぎり、そっぽを向いてしまうだろう・・・。

平成の悪魔・安倍晋三によって、TPP批准に向けての事態が進行している。われわれは今こそ深沢七郎を、深沢七郎の『楢山節考』を、貪り読まねばならない。(もしあなたが財界やマスコミの関係者なら、なおさらそうだ。)この一介の無名の新人作家の作品に過ぎなかった小品を、正宗白鳥がこれはわたしの「人生永遠の書」だ、とまで断言したことの意味が、今ならば、骨身に沁みて分かるだろう。



2012年総選挙の挫折と敗北ののち、思いがけずアガサ・クリスティーに出会ったわれわれは、彼女によって自己省察と再起に向けての奨励を授かったが、クリスティー女史のさらにその先では深沢七郎が、あの人懐っこい笑顔を浮かべながら、今川焼きを焼いている。

深沢七郎の今川焼き屋は、消費税が10%になるというだけで万事休すである。

「まずあの消費税っていう名前がペテンでさ。売上税なんでね・・・売上税って言ってたんだよ、中曽根の頃までわね・・・われわれ庶民を煙に巻くために名前を変えたんでさ。」

深沢七郎の今川焼き屋は、近所にスーパーやコンビニが林立したため価格競争の波にさらされていたが、それでも奮起して小さいながらも複数店舗を構え、アルバイトも何人か雇っていた。しかし生き残る為には、薄利多売である。ここ数年は利益が上がらない。

「年間の総売上が一千万ぐらいでさ・・・でも人件費を払ったら利益は20パー、年間200万の収入だよ。それでも人様に迷惑かけるでなく自分ひとりつつましく生きていくには、オレもこの歳だし贅沢しなきゃギリギリ何とかなるんだけどね。でも消費税が10%になったら・・・」

消費税が10%になったら、売上げ一千万円に対し10%で、年間100万円の徴税が来る。つまり深沢七郎は、年収200万円のなかから100万円の税金を支払わなければならないのである。これが消費税というものの正体である。たとえ収入がマイナスであっても徴税される。消費税制は、自営業・中小零細企業潰しの税制なのだ。その一方で消費税制は、輸出戻し税という輸出型大企業に対する大規模補助金制度のような抜け道が設けられているのであるから、まるで自営業・中小零細企業からカネをまきあげて、経団連の大企業に横流ししているようなものである。

「増税分を価格転嫁も出来ねえしな・・・」

人間には色々なタイプがある。サラリーマンに向いている人もいれば、そうでない人もいる。深沢七郎はサラリーマンに向いていない。それで自営業をしているのだが、このままでは店を畳んで、イオンにでもアルバイトの職を求めに行かなくてはならなくなりそうだ。しかしオレのような爺さんを雇ってもらえるだろうか・・・。

(アルバイト・・・)

ふと深沢七郎は、日本維新の会が最低賃金制度の廃止を言っていた事を思い出した。日本がTPPを締結・批准したら、最低賃金制度も“非関税障壁”と見做されて、「ガイアツ」により本当に廃止されるかも知れないな・・・。するとアルバイト時給800円の相場が600円、500円、400円と下がり・・・・・・。

(ちょっと待てよ・・・)

不意に深沢七郎の脳裏をある考えが掠めた。ウチで働いているアルバイト達の時給も今より2~300円、いやそれ以上安く出来れば、消費税が10%、15%、それ以上になっても、なんとか店を維持してやっていけるかも知れない・・・・・・

(イヤイヤ駄目だ!)

深沢七郎はハッとして我に返った 。( それじゃ負の連鎖だ!それじゃオレが官僚と大企業から搾り取られた分を、アルバイトから搾り取っているだけじゃないか!おそろしい、おそろしい負の連鎖、搾取の連鎖だよ!!そんな事をしてまで店を維持するのであれば、思い切って店を畳んじまった方がよっぽどマシだよ・・・)そして束の間とはいえそんな事を考えてしまった自分をいまいましく思うのだったが、そこで眼の前に立っていたオレの視線に気付くと、急にあわてて赤面してしまうのである。

オレはただ客としてそこで今川焼きが焼けるのを無言で待っていただけなのであるが、深沢七郎はまるで自分が一瞬よこしまなことを考えてしまったのをオレに咎められている様な気がしてきてしまい、急にあたふたと身体を動かし始めたかと思うと、「はい、これサービスな。」と言って今川焼きを一個多くオレに寄越すのである。

客を見送ってひとりになると深沢七郎はあらためて「TPP・・・」と一言呟いた。その顔からは、先程までの笑顔は、完全に消えていた。



<無憂荘>=sans-souci というネーミングには、確かに美しい理想が込められている。しかし自分の経営するゲストハウスに<無憂荘>と名付けた女主人は、かつて自分の夫をアイルランド独立運動の闘士として銃殺され喪ったという過去を持っていたのである。

現代の<無憂荘>、われらが大マスコミは、今までに一度でも自分達の保身以外のものの為に闘ったことがあったであろうか?「自分達さえ良ければ、世の中なんてどうなったって構やしない。」テレビを観ていると、どんな種類の番組を観ていても、彼らがそう言っている様にしか聞こえない。

-君も、第二段階に入ったね・・・

権威の象徴たる白衣を身にまとってオレにそう語りかけてきた老医師は、そのあと続けてこれからの治療方針の変更プラン等をオレに説明し始めたが、オレはもうそれを聞いてはいなかった。オレはもうお前には従わない。オレは動物的段階に突入したのだ・・・。

薄ぼんやりとしたまどろみの中に生きて来た少年のオレは、それまで一度も思い付きもしなかった行動に出る事にした。病院を変えたのである。子供の行動範囲は意外に広いとも言えるが、しかしやはり子供なりである。それまで数年間通い続けたその病院も家から数キロ離れていたのだが、そこからさらに数キロ離れたもうひとつの病院がある街は、オレのテリトリー外だったのである。

動物的本能に帰り危機を直感したことで、少年のオレはテリトリーから足を踏み出し、鼻詰まりも数ヵ月後にはあっけなく回復した。しかし今われわれの直面しているこの危機はどうだろう。これからもずっとこの日本で暮らしていこうと思っている限り、この危機は逃走によって解決することは出来ないのだ。逃げることは出来ない。

「戦後民主主義」の“底が抜けた”。重ねて言うが、それが今の状況である。手をこまねいて傍観していれば、おそらくわれわれ自身が谷底に転げ落ちていくだろう。しかしその底穴からこちらの方へと、流入して来るモノがある・・・。

われわれが除け者扱いして忘却しようとしていた、深沢七郎がそれなのである。深沢七郎はわれわれが来るのをずっと待っていて呉れたのである。“庶民”を描き続けた彼は、「戦後民主主義」の底流を彷徨する人だった。「戦後民主主義」の時代を、もっともいい加減に、自由奔放に、そして「ゲヒン」に生きた深沢七郎は、しかし「自分さえ良ければ、世の中なんてどうなったって構やしない」などとは、決して考えない人だったのである。



2012年総選挙の挫折にわれわれは地に伏し、跪いたが、顔を上げてみるとそこには、『楢山節考』のおりんが、超然と立ってわれわれを見つめていた。しかもその背後には、あの総選挙からまだ3ヶ月しか経っていないというのに、早速の公約詐欺(公約破りより邪悪だ)のTPP参加というどす黒い大嵐が、今まさにわれわれの方に襲い掛かって来ようとしているのだ。

TPPとはなにか?それはおりんとわれわれの、際限無き欲望の膨張体たる悪魔達との、おそらく最大にして最後の闘いである。もしこの闘いにわれわれが敗れれば、われわれはおりんを失い、そしてすべてを失うことになるだろう。

本質を見失い無言の社会的権威と化してわれわれを苦しめていた「共生」指向の最深部には、楢山に鎮座する強靭な“母”としてのおりんがいたのである。おりんを守る為に、われわれ一人一人がそれぞれの立場で何を為すべきか考え、行動すること。おそらくそれが、独自の道を歩み始めたわれわれの「自立」への旅の、唯一の方法である。

われわれが思いを滾(たぎ)らし、声を挙げ続ければ、今はやはり山の神になっている深沢七郎が、きっと胸躍るようなリズムと音色で、ギター伴奏を奏でてくれる筈である。








おまわりさんのお家が長かったので、その分考えることも多く、ついつい長々と書き綴ってしまった。疲れたので、ブログの更新はまたしばらく滞りそうである(笑)。TPPに関してまだ自分は少々<無憂荘>の住人であるなと感じる向きには、たとえば兵頭正俊氏のブログなどが参考になるのではないか。



『NかMか』
アガサ・クリスティー(深町眞理子訳)

Norm




『楢山節考』
深沢七郎

Narayama






安倍総理のTPP交渉への参加表明を受けて
http://www.seikatsu1.jp/activity/act0000039.html

平成25年3月15日
生活の党代表 小沢一郎

 本日、安倍晋三首相が環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加表明を行った。生活の党はかねてより、TPPが単なる自由貿易協定ではなく、日本国民の命と暮らしを脅かし、社会の仕組みの改変を迫る異質な協定であることから強く反対してきた。しかし自公政権が日本の国益を守るより、米国の言いなりになり、TPP交渉に参加表明したことは、国家百年の大計にもとる重大な誤りであり、即時撤回を強く求める。

 世界やアジア各国の成長を日本に取り込むために自由貿易を促進し関税や非関税障壁を撤廃し、人、モノ、金、サービスを自由に行き来させることによって、新たな可能性が広がることは事実である。しかしTPPは、農業生産者が指摘するように、「単なる農業分野の関税引き下げ問題ではない。米国主導であらゆる規制の緩和、ルール改正を同時並行で進め、国民の命と暮らしよりも大企業の利益を最優先する。食の安全・安心、医療、外国企業からの訴訟など多くの問題を抱えている」など、国民の生命と財産を守るための協定では全くないのである。

 加えて、今参加表明しても、先般シンガポールで開催されたTPP準備会合で明らかになったように、米国側は各国交渉者に「日本が交渉に参加した場合、すでに確定した内容について再交渉も文言修正も認めない上、新たな提案もさせない」と伝えている。この交渉実態を見れば、安倍首相の「TPP交渉は聖域なき関税撤廃が前提ではない」との主張が全くの欺瞞であることが分かる。自民党の衆院選公約である6項目は到底守られず、公約破りは明白である。

 米国の市民団体もTPPの草案文書を基にして「TPPは表向きは貿易協定だが、完全な企業による世界統治だ」と告発している。国民の生命、財産を守ることが国政を託された国会議員の最大の使命であり責務である。自公政権は今すぐ、TPP交渉への参加表明を撤回すべきである。

 今、日本政府が最優先すべきは、命、暮らし、地域を守るために震災復興、被災地域再生、原発事故の早期収束、原発ゼロへのエネルギー政策の大転換である。生活の党は引き続き、日本政府のTPP交渉参加阻止に向け、各界各層と連携し闘っていく。

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2012年12月15日 (土)

いつか来た道・・・消費増税の「信を問う」、3.11後初の国政選挙が、マスコミの止められない止まらない“禁句ゲーム”の結果、いつの間にか大政翼賛会軍国政権の承認選挙に・・・



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先月末のYahoo!サイトの世論調査でも政党支持率44%で断トツ1位だった「国民の生活が第一」が、NHKや朝日新聞の世論調査では0%。「日本未来の党」に脱皮した現在でも、マスコミの公表する世論調査の数字には大差ない。

NHKの「ニュースウォッチ9」は選挙公示日の12月4日、いつもの大越・井上コンビに小池政治部キャップも加えて30分強の選挙特集を組んだが、その間誰一人として、唯の一度も“消費税”という単語を口に上らせなかった。あたかも“消費税”と口に出したら負け、というルールの禁句ゲームを仲間内でやっているかのようであった。

そしてこの”禁句ゲーム”の暗黙のルールが支配する“嫌な感じ”が、選挙戦が進む日毎に質量を増し、領域を拡大エキスパンドし、電気的に増幅されて、日本国土全体を包みこんでいる感じだ。『革命前夜』という映画があったが、この感じは“発狂前夜”とでも形容しようか。重苦しい今にも破れそうな均衡。あるいは“革命前夜”というものは、“発狂前夜”と等号で結ばれるべきものなのかもしれない。

“消費増税”の「信を問う」解散・総選挙が、メディアスクラムの歪曲的なウソによって、いつの間にか“景気・雇用対策”を問う総選挙ということになり、十数も有る政党の経済対策の差異が、饒舌に微細にマスメディアから語られる。(基礎的な経済学的知識の無い人間なら、聞けば聞くほど混乱し、選挙に行きたくなくなるだろう。)

在京新聞社・テレビ局は言うに及ばず、地方のラジオ局のニュース・アナウンサーやローカル情報番組のパーソナリティにいたるまで、“景気・雇用対策や社会保障政策などが主な争点となる今回の総選挙ですが・・・”と滔々と落着き払って喋っている。漫画の世界なら、カーラジオを聴いていた車がそこら中で同時多発追突事故を起こすところだが、現実にはそういうことは起こらない。発狂しているのは彼らの方で、われわれの方はまだ正気を保っているからだ。

国民経済がジリ貧状況に突入してから二十年余、何をするにも身銭が無くては始まらない世なのであるから、景気・雇用が最大の関心事であるというのは、「今更お前に言われなくとも・・・」という類の話なのであるが、

しかし、「景気・雇用」を重視するなら、「消費税増税」問題を避けて通ることはできない。

「消費税増税」問題こそ、今回の総選挙後の日本経済を左右する主軸の問題であるからだ。

年額13.5兆円の超巨大消費税増税を実行して「景気・雇用」問題を重視するということ自体が、根本的な論理矛盾なのである。

「景気・雇用」問題とは、今回の総選挙に当てはめれば、まさに「消費税増税」問題そのものということになる。

   (植草一秀の『知られざる真実』 12月10日


しかし“嫌な感じ”の“禁句ゲーム”に支配された言論空間では、こうした本質的な議論は徹底的に無視されている。

TPP・オスプレイ(=沖縄基地問題)も重要な問題だが、どちらも他人事のように思っている国民が多い現状、選挙の争点としては浮上しにくい状況である。あの3.11後初の国政選挙であるという意味で、国民の意識の変革の有無が(国際的にも)大きく問われているのが、原発・エネルギー政策問題ということになるのだが、こちらの方面でもマスコミは意図的に正確な情報を伝えないので、再稼動・再建設を容認する民主党と、再稼動即時ゼロ、10年後を目途に全原発を廃炉に、というロードマップを提示している未来の党との差異も、テレビを見ていたら良く分からない。党もろとも“フェードアウト”しそうなデタラメ維新はともかく、自民党候補者でさえ地元では原発反対を唱えていたりするので、尚更である。

するとこの禁句ゲームのルールはなかなか複雑なように思えてくる。ここでは一転誰もが脱原発を叫び、自他の差異を無化しようとしているのであるから・・・。



しかしこのふたつの現象から導かれる結論は、実はとても単純なものだ。ふたつの人為的現象が二重蓋のように丁度重なる、その埋没点に「未来の党」があり、「小沢一郎」があるという事が、ちょっと視点をずらすと鮮やかな図象が浮かび上がる透視細工図のように、客観的な視点からは明々白々であるからである。

三年前の総選挙の民意を反故(ほご)にする民主・自民・公明三党の談合消費増税法案成立の動きに対し、最後まで正論を説き続け、結果毅然として反旗を翻し、民主党と決別したのが、小沢一郎率いる「国民の生活が第一」という集団だったのであり、うわべ口先だけの「脱原発」でなく、本気でそれを実現するために一足先に10年内全原発廃炉を決定したドイツに調査に赴き、現地の関係者と協議してその実現可能性を確かめてきたのも、小沢一郎と「国民の生活が第一」であり、その彼らが大飯原発再稼動停止を目指す過程で中央政府・財界の強大な圧力を身をもって感じ、国政進出の可能性を模索していた嘉田由紀子滋賀県知事と合流したのが、「日本未来の党」であるからである。彼らこそが、脱消費増税・脱原発・脱中央官僚統治を体現できる最大政治勢力であることは明白な客観的事実であり、この“禁句ゲーム”の主催者達が死に物狂いで覆い隠そうとしているものである。



日本全体を巻き込んだこの“禁句ゲーム”が執拗かつ徹底的に敢行され続けた先に、どのような結果が待ち受けているのであろうか?大手新聞各社の発表した選挙戦中途の情勢分析によれば、自民党が単独過半数越えで圧勝である。

今の自民党は、タカ派と保守、中道リベラルが拮抗し、多様な考え方を取り込む国民政党として機能していたかつての自民党ではない。右傾化と小泉以降の格差拡大・弱者切捨て経済政策の方向に純化されつつある政党である。そのなかでも右傾化の急先鋒でやや思慮深さに欠ける感のある安倍晋三が再び総裁となり、軍事費増強、国防軍、憲法改正等を選挙公約に打ち出して、中国と事を構えたくてウズウズしている感じだ。その一方で自民党は福祉費の削減を明言している。

そこに同根仲間の維新やみんなの党、談合仲間の公明党や民主残党までが加わって、すさまじいまでの大政翼賛会政治が眼の前に現れようとしているのである。彼らはこれからも表面的にはお互いに対立しているように見せるだろう。しかしそれはほとんどの場合ウソであり、実態はジャレ合いと取り分争いの小競合いでしかない。

これが“禁句ゲーム”の行き着く先である。この三年間の民主党政治に失望し憤慨した国民が、“禁句ゲーム”の支配する言論空間のなかで投票先が分からなくなり、そのお仲間の自民党(しかも変容した悪しき自民党)に投票したり、棄権したりするのである。

われわれはこのような“禁句ゲーム”が、かつてこの日本でやはり同じ様に大々的に行なわれ、悲惨な結果をもたらした過去を、歴史の事実として持っている。その時も主役を務めたのはやはりマスコミであり、国民の戦意を煽り、悲惨な戦争へ突入させ、戦中もウソの大本営発表を垂れ流して、三百万人以上の戦死者をもたらしたわけであるが、その間その意に反する言動を唱えたものは“非国民”とまで言われて、虐げられたのである。

なぜそのようになるのか?ならざるを得ないのか?

それは彼らの“禁句ゲーム”において禁句となるのが、“真実”に他ならないからである。“真実”をあらかじめ迂回すべく定められた社会の行き先は、“集団発狂”しかないのである。

彼らはすでに発狂段階に在る。そしてわれわれにも発狂せよ、となお執拗に訴えている。止(や)められないのだ。このような状況では、われわれは己のなかの正気と照合して、自分の足が地面に着いている事をいちいち確認しなくては生きられない。それが“嫌な感じ”の正体である。



“禁句ゲーム”は際限無くエスカレートする。禁句を人々の口にのぼらせないようにする為には、飛び道具だって使う。目眩ましのイミテーション・ゴールドは、まばゆければまばゆいほど、勇ましげであれば勇ましげであるほどよい。北朝鮮の“事実上のミサイル”(?)が発射されたとされる12月12日の翌13日、TBS(同じ下っ端のフジ・産経グループが“汚れ役”担当なら、毎日新聞・TBSは“特攻役”担当とでも称するべきか?こう言うとなんだか格好よく聞こえるが、偏向捏造報道記者クラブ集団のなかでも、そのキモチワル度は断トツNo.1である)の「ニュース23クロス」は選挙特番で各党党首をスタジオに招き、討論会形式で総選挙における争点を議論する、という趣旨であったが、案の定、“ミサイル”よ、待ってました!とばかりに軍事防衛・憲法改正・集団的自衛権問題にそのほとんどの時間を割いた。

軍事会議さながらの議論が飛び交うなかで、それまで沈黙していた未来の党の嘉田由紀子は、日本は現在原発という危険な爆弾を54基も懐に抱えており、これらが敵対者の標的になったら、それこそ国土に取り返しのつかない壊滅的な被害を受けることになる事の危険性を訴えた。嘉田はこの時、それまでその場で展開されていた表層的な議論を無化して、日本の安全保障問題の核心部分に触れようとしていたのだが、司会者はその話を継ごうとはしなかった。

この時以外にも、嘉田が発言した時には司会進行役の播磨卓士はことごとく話を中途でさえぎっていたが、そもそもこの討論会企画自体が未来の党を埋没させる目的で企図されたものである。12党の党首にその現有議席数に比例する時間を割いて話を聞くというのではないので、一応挙手発言方式で公平なように見えるが、次期総理大臣候補筆頭の安倍晋三と現総理大臣野田佳彦が議論の中心となる一方で、弱小政党の党首はここぞとばかりに目立とうとして前のめりになるので(笑)、現有議席数62で数的に第三勢力である未来の党が one of them となる仕掛けである。

正論を訴え続ける未来の党だが、悪企みに関しては敵の方が上手である。彼らの土俵に乗っかって闘って行く方法論には、いずれ限界があるようだ。なぜなら“禁句ゲーム”のルールに則ってゲームに参加している限り、主催者たる彼らの止められない止まらない“禁句ゲーム”はどんどん増幅エスカレートして、われわれを終局的な破滅に導くまで、ゲームを止めそうにないからだ。相手は発狂しているのである。

明日投開票が行なわれる総選挙の結果の如何に関わらず、その後のみちすじはわれわれに見えている。このゲーム自体を終わらせるのだ。 ”禁句”について、堂々と語るのである。そしてゲームのルール自体を無効にするのだ。



「日本未来の党」の結党が発表された直後の11月29日、会見で記者に嘉田知事と小沢一郎を引き合わせたのはあなたか?と問われた達増拓也岩手県知事は、「二人を引き合わせたのは民意です。」と答えた。その場に居合わせた記者達からは失笑が漏れたという。毎日新聞の記事は知事が「はぐらかした」と揶揄している。

しかしそのニュース映像を偶々観ていたオレは、そう言った時の達増知事のキッパリした口調と、晴れやかな前を見据えた表情に、少なからぬ感動を覚えた。

今こそわれわれは「小沢一郎」について語らねばならない。今までのような仕方ではまだ不充分なのだ。「小沢一郎」こそが、彼らの“禁句ゲーム”のその核心にあるものなのだ。昨日のプロ野球の結果について語るように、今日の天気についてそうするように、小沢一郎について語るのだ。 太平洋戦争という悲惨な結果を導いた兇悪な“禁句ゲーム”の化身が、六十余年を経て、再び鎌首をもたげている。おそらく「小沢一郎」とは、この六十余年の戦後日本史における、最大の禁句(タブー)として現存する者なのである。このタブーを破らなければ、われわれに新しい未来は無い。

嘉田由紀子は、その為の最高の語り部となるべく、選ばれたのである。彼女の国政政治家および政党党首としての手腕はまだまだ未知数だが、その語り口とそこから滲み伝わる思想からは、少なくとも菅直人や野田佳彦などといった連中とは、人間の器が違うことはハッキリ分かる。

良き語り部を得て、小沢本人もじわじわと、しかし堂々と、前面に出て行くだろう。ゲームのルールのなかで闘うのではなく、ゲームそのものを破壊するのである。自分が前に出て行かないとこのゲームは終わらないと、小沢自身も悟りつつあるのではないか。或いは彼の事であるから、その時機が来るのをじっと待っていただけかも知れないが。




悪党と女のエロスが手を結ぶ時、社会に変革が訪れる。




再稼働反対集会に小沢氏登場 参加者「マスコミ帰れ」の怒号
(田中龍作ジャーナル)







“発狂前夜”≒“革命前夜”




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2012年11月29日 (木)

マスコミのイカサマでっちあげ第三極報道が雲散霧消し、総選挙の真の対立軸 : 旧支配体制維持派(談合三兄弟/自民・公明・民主+泡沫陽動部隊・維新)VS 国民主権派(未来の党連合) が衆目に明らかに


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・・・ということである。

言いたいのは実はそれだけなのだが、ブログをしばらく休止している間に(というか当分更新する予定も無かったのだけども)、鬱屈したものが相当たまっている。

ブログを止めていても、彼らが次はどんな悪企みをしているのかチェックしておこうという気持ちが働くので、夜の報道番組は時間が許す限り観てしまうのだが、連日これでもか、これでもかと続く偏向捏造報道を我慢して観ているうちに、いつの間にかオレは、歯噛みしながらテレビを見る癖がついてしまい、数年前腕利きの歯医者に作ってもらったばかりの虫歯箇所の詰め物が、この数ヶ月で左右とも駄目になってしまった。

このままだと今はアゴに込められている力が、違う方向に突っ走って行きかねない我が性向を懸念するので、というか彼らに対するオレの現在の心向きはほとんど99%オサマ・ビン・ラディンのそれに近いものなのだが、彼のように潤沢な資金と戦術を提供してくれるネオコンの友人もいないので、この際久し振りにパソコンのキーボードでも叩いてみようと思った次第である。



しかし新聞やテレビを見ていると何もかも忘れてしまいそうになるので、いざなにか物申そうとすると、新入学一年生の心持ちまで立ち戻った地点から始めなければならないようなのだが、選挙というのは民主主義を標榜する国において大事な大事な“節目”である。民主主義という制度に他に優位する価値が賦与されているのは、数年おきにこの選挙という“節目”となる機会が与えられているからに他ならない。

そしてこの“節目”ということばの持つ意味をしっかりと噛みしめて事に望むことが肝要なのであり、樹木の新しい枝が何もない無の空間からポッと生えてくることなど出来ないように、前回の選挙から現在に至るまでの政治・社会の流れと論点を総括し、整理し収斂して、そこから争点を絞り込んでいかないと、有権者は新たな選択など出来ないだろう。

“節目”というものを実感的で有意義なものとするには、そのような作業を通じて初めて可能となるのだ。われわれが一個人として私的な人生を生きているなかで、そういう節目が誰にも幾つか有るだろうし、公的な人生(一国民としての人生)というのがそれと平行して在るのだとしたら、選挙における投票行動こそがその節目にならなければならないはずだ。節目の無い人生というのは有るのか無いのか分からないが、もし有ったとしても何か空恐ろしいもののような気がする。捕まっても捕まっても一向に反省せず、塀の中で「次はどこを狙おうかな・・・」と考えている常習犯罪者のそれなどを、オレは想像してしまう。


・・・と、以上柄にも似合わず、初々しい新入生になったつもりで、バカバカしいほど当たり前の事をつらつらと書き綴ったのは、なにもブログの更新が久し振りでまどろっこしい筆の運びに、暖気運転を施そうとしている為だけではなく、衆院解散の決定後から“そんな事は忘れてしまえ”という囁きが大手新聞社とテレビ局の方からひっきりなしに流れて来るので、他のまともな思考力を保持している多くの国民の方々同様、オレもコイツらに心底ムカついているから(に決まってるだろコノヤロウ)。

そもそもなぜ今回解散・総選挙になったのか?消費増税法案が国会で成立したからからであろう?


なぜ総選挙になったかである。それは消費増税法案を国会で成立させたからである。それ以外に理由はない。

民主党は3年前の総選挙で「4年間は消費税を上げない」と国民に約束し、「上げる時には国民に信を問う」と言った。しかし4年も経たないうちに増税を決めた。そして増税は選挙の後なので国民との約束に反しないと説明した。自公は消費増税に協力する一方で「マニフェスト違反だから選挙で信を問え」と民主党に迫り、3党合意の見返りに総選挙が行われる事になった。

だから二重三重の意味で総選挙は消費増税の信を問うために行われる。ところが民自公3党は選挙で不利になるから消費増税を選挙の争点にしたくない。そのため3党は今一生懸命に争点隠しをやろうとしている。それが野田総理と安倍総裁に現れている。金融政策、TPP,世襲問題などで両党は激しく相手を批判するが、その意図は消費増税から国民の目をそらさせるための「争点隠し」以外の何物でもない。

    (田中良紹の「国会探検」 11月21日 より一部転載)



そしてこの争点隠しに全面的に協力しているのが、談合翼賛政治を“決められる”政治として賛美してきたマスコミである。直近の総選挙における選挙公約とそれに対する選挙結果(=民意)を完全に反故にした民主・自民・公明の
談合三兄弟による「社会保障と税の一体改革関連法案」という名の単なる消費増税法案の成立というのが、この3年間の政治の集大成として断行され、その時機も最終決断も財務官僚にそそのかされたパペット宰相の乱心(に見せかけた確信犯)によるものであるにしても、ともかくもそれに対しての「信を問う」為に解散が決行されたというのが、忘れようにも忘れようにないこの間の政治の流れであるはずなのだが、解散が決定した途端に「そんなことあったっけ?ボクちゃん忘れちゃったよ。みんなも忘れようよ!イエーイ!」と彼らマスコミはやおら政策論点の百貨店と化して、賑々しい新開店陳列セールを連日展開しているのだから、節目もクソもあったもんじゃない。(必死だな、「報ステ」。)

寡頭言論権力集団・記者クラブ内の上意下達関係において、一番下っ端の“汚れ役”担当の産経新聞・FNNグループが11月20日、【 「エネ政策」「消費税率」・・・関心低く 】の見出しとともに、「衆院選で重視する争点として「景気・経済対策」(33・6%)と「医療・年金などの社会保障」(20・6%)を挙げる回答が上位を占め、「原発・エネルギー政策」(7・9%)、「消費税率引き上げ」(5・9%)、「環太平洋戦略的経済連携協定=TPP」(2・3%)への関心は比較的低かった。」といういかがわしい世論調査結果を発表したのを合図にしたように、新聞・テレビ各社が足並みを揃えて、総選挙における“争点隠し”、“争点ボカシ”キャンペーンに狂騒し始めた。

かねてより積極的財政出動や金融緩和の可否について国民の関心を促すべく先導的に議論を喚起していたならともかく、普段は政治や経済の議論などそっちのけで、尼崎連続変死事件の角田美代子の周辺連関図などを連日トップニュースで賑々しく報じていた輩に、選挙が決まった途端俄かに“景気浮揚対策・医療年金制度の在り方こそ総選挙の争点だ!”と言い募られても、テレビの画面と自分の脳ミソの境界線も判別付かなくなっているような人なら、「ああ、そういえば俺が考えていたのは、景気浮揚策と、更なる金融緩和の効果と、憲法改正の是非についてだったっけ・・・」などと思うのかも知れないが、それ以外の大概の人には、魂胆見え見えの“ハア?”な話である。(そういえばマスコミは連続殺人鬼疑惑の角田美代子の写真と称して、まったく無関係の人の顔写真を連日紙面や電波に乗せて大々的に日本中に流布していたな?ここがアメリカなら1,000億円ぐらい賠償請求されててもおかしくない案件だ。日本がTPPに参加してなくて良かったな!)

そして直近の11月26日発表のNHKの世論調査では、投票するに当たって重視する政策は?という質問に対し、「消費増税について」という回答項目すら、含まれていないようだぞ?(1分30秒頃

消費増税の可否を問う解散・総選挙であるはずなのに、NHKにおいては、国民はすでに消費増税について承認したことになっているようだ。
選挙やめるか?

オレ自身は積極的財政出動には反対ではないが、消費増税法案可決の張本人・自民党に景気浮揚など語る資格はない。国民生活を更なる窮乏、壊滅的な一億総奴隷状態に追い込む消費増税法案の成立に協力したんだから、僕たちの旧態依然の利権誘導政治の方は大目に見てね、と白昼堂々公衆の面前で霞ヶ関におねだりしている、意地汚い連中である。しかも消費増税推進の大義は“国家財政の破綻危機”であったはずだが、その舌の根も乾かぬうちに「これからジャブジャブ国債発行しまっせ」と言っているのだから、今までの主張が全部ウソだったと自ら白状しているようなもので、馬鹿丸出しである。それよりもこちらの太陽に集いしもの氏の紹介している案の方が、国民の大多数がきっと賛成するぞ?



そしてこの三年の間に、日本の社会に何があったかといえば、あの
3.11であろう?

あれだけの大事故を引き起こした当事国の人間として、「原発・エネルギー政策」に無関心というのは、それも個人の自由だと言う主張もあるいは可能なのだろうが、国民の大多数がそのようだ、などとマスコミに言われては、“冗談じゃない”と寝た子も起き上がり、起きていた子は怒髪天を突くだろう。

彼らのトリックは選挙制度-民主主義という樹における、枝葉を未来に継ぎ繋いでいく最重要の節目の意義を亡きものにしようとしている点で、われわれ国民を愚弄している。決してうまくいかないだろうし、うまくいかせてはならない。



原発の維持・再稼動・新建設などというのは、当事者の電力会社や関連財界の意向は無論、その背後に将来の核兵器保有を担保しておこう、という夢見る夢子ちゃんたちの思惑もあるのだが、世界で唯一の原爆被爆国であり、そのうえチェルノブイリ級かそれ以上かも知れない原発事故を引き起こした当事国が核兵器を製造・保有した時に、国際社会がどんな反応を示すか?

イスラエル・アメリカに続き、晴れて世界の三大ならず者国家の仲間入りをして、世界中から忌み嫌われて生きていく、という覚悟があるというならともかく、どうせそのような覚悟も無いくせに、ヘリテージ財団の尻舐め男・石原慎太郎などのように、みずからのエエ格好しいの虚栄心と、近隣諸国をわざと刺激するように、というミッション遂行の為だけに、どのみちアメリカが日本の核保有を許すわけがない、と自分でも半ば分かったうえで吼えているのである。日本が原発を海外に輸入しようとしているだけで、国際世論からみたら(?)であろう。

夢見る夢子ちゃんたちに現実を突きつけるが、あの3.11を経験して、オレの様なボンクラ頭にも分かったのは、日本は54基も危険な爆弾を抱えていて、他国やテロリストが日本を壊滅しようと思えば、それらを標的にすればわざわざ核弾頭を使わずともいとも簡単にそれが可能であるという事と、そしてすでに現段階で、使用済み核燃料の保管・処理方法にすでに行き詰っているという事実である。この現在地点から永久未来にまで連なる使用済み核燃料という問題を、どう引き受けて、「原発・エネルギー政策」に望むのか。それこそがほんとうの覚悟ある政治家、覚悟ある国民に求められる判断であろうし、小沢一郎の発言がマスメディアで取り上げられることは少ないが、その少ない機会を通じても、彼はその事を国民に問うている。

以上ニ点から考慮しただけでも、原発維持・推進・再稼動・建設再開(20年後を目処に廃止の方向で検討、と言いながら建設再開などというのは論外の問題先送り主義の詐欺)というのは大義のない話だが、それともう一点、ところで福島第一原発の事故というのは、終息したのかい?よしんば責任放棄で上記二点に知らない振りを決め込み、原発維持を推し進めるにしても、せめてあの事故を全力で終息させてからそういう話をするというのが、道義的なすじみちなんじゃねえの?

前述の産経新聞の世論調査記事では、「原発・エネルギー政策」と「消費税率引き上げ」の是非は、「TPP」とともに「野田佳彦首相が争点化を狙った」が、国民には浸透していない・・・という注釈まで付いている、手の込んだ悪質な詐術記事である。野田佳彦と民主党は、、「原発・エネルギー政策と消費税率引き上げ」を争点にするよりも、やはりそこは国民に忘れてもらいたいらしく、争点は「世襲」の是非だと、いきんでいたようだが?



この争点隠しだけでも充分許し難いが、それに輪をかけて許し難いのが、対立軸隠し(=小沢隠し)である。

衆議院議員数たかだか10人程度(解散時は6人)の、社民党や共産党と同格程度の泡沫政党に過ぎない、ヘリテージ財団の尻舐め男とCSISの操り人形・橋下徹の合体した「日本破壊の会」の如き政党を、“第3極、第3極”とあたかも既存政党に対抗する対立軸の中心であるかのように、NHKを始めとするマスコミが連日大宣伝し続ける様態は、(第三極ってなにさ - 室井佑月)と言わずにいられない不自然さであるが、もちろんこの不自然さは、それとは別に存在する本当で本物の対立軸を、国民の眼から覆い隠しておく為である。

石原が維新の会の代表に就いたのは、選挙後に自・公との連立に加わるための布石である。橋下が代表のままでは、「既存の政治勢力をぶち壊す」と口から出まかせをさんざ吐いていた手前、格好がつかないが、「石原さんのツルの一声で・・・」という事にすれば、誤魔化せると思っているのである。そして今度は「政権の内側から政治を変える」と、また口から出まかせを言うのである。

昨日と今日とで言うことが180度変わる橋下徹だが、橋下は「参議院は要らない、廃止する」が持論であったはずであるが、最近それも撤回している。彼はもう少し解散・総選挙の時期が後ろにずれると読んでいたので、その時は大阪市長を辞任して自分も立候補するつもりでいたのだが、それが出来なくなったので、来夏の参議院選挙に出馬する事を考えているのである。そして国会議員になって連立のキャスティング・ボードを握り、あわよくば首班指名を受けようという魂胆である。一事が万事この調子、自分の権力欲がすべてであり、政策ビジョンなど二の次なのである。

だからマスコミの使う“第三極”という表現は、二重の国民騙しの詭弁である。

前述の通り、民主・自民・公明は共犯関係のいわば運命共同体なのであり、天木直人氏が指摘している事実を見ても明らかなように、現在“隠れ連立”関係にある。それを国民に悟られまいとしてのメディアと共謀しての見せ掛けの政策論争なのであり、彼らを第1極、第2極に分けるという前提の上での“第3極”と言う表現が先ず第一のウソなのである。

彼らは一まとめで第1極集団とみるのが真実であり、そこに今維新が合流を画策しているのである。その維新を第3極と称し、あたかも第1極に対抗する主力勢力であるかのように喧伝(けんでん)しているのが、二番目の大ウソである。

このウソに気付かないと、その結果現れた政権の正体を見て、国民は愕然とすることになるだろう。その時に後悔しても遅いのである。この大連立が実現すると、消費増税は確定となるのは無論、現在の民主党残党は松下政経塾出身のタカ派が中心であるので、自民・公明・民主・維新で衆議院の3分の2を超える、大連立改憲タカ派(=米国の奴隷)内閣が出来る可能性もあるのだ。



この流れを読んで誰よりも危惧していたのが、亀井静香であり、小沢一郎である。


「二大政党制」をもう一度やる

-それにしても、小沢さんが大きくしていった民主党ですが、結局、二大政党制には・・・。

ならなかった。だから、もう一度やりなおさないといけない。民主が、もう全然だめだから。

自民も、もう少しペシャンとなって、新しい芽が吹き出てくればよかったんだけど、最近また元気になってしまって。中途半端なまま、また政権と言いだしているようだから、ちょっと困っちゃった。自民党にとっても、日本にとっても、よくないことですね。

-日本に二大政党制は向かないんじゃないか、という議論も出ています。

向かないというよりも、2大政党を中心とする議会制民主主義の理解が、まだ進んでいないということです。日本は、まだ民主主義が成熟していない。いちばんの責任は国会議員にありますが、それを選ぶ国民にもまた責任がある。

3年前の選挙では「ちゃんとやってくれるだろう」という期待感が大きかっただけに、その反動が怖い。自民も民主もダメ、政党政治もダメとなってしまうと、民主主義の否定につながってしまう。

-今後の政党政治はどうなるんですかね。

極論が出てくる。世界的な激動の時代に、大変だ、大変だとなると、やはり極端な議論が強まりますね。

-極右、極左ですね。

そう。日本の場合は右バネが強いでしょう。欧州もそうだけど、日本はもっと強く出るだろう。それは悲劇だね。


 (週刊朝日 11月9日号 小沢一郎インタビューより)



そしてその日本の将来に対する強い危惧の念から、身を捨つるほどの思いで、敢えて裏方に一歩退き、今回の「日本未来の党」実現の為に尽力したのである。

マスコミの“小沢隠し”は、執拗かつ卑劣で、狂的である。

頼んでもいないのに、衆院解散後各社毎週毎週、ほとんど毎日といっていいくらい交代に世論調査結果なるものを発表し、そこでの「国民の生活が第一」の政党支持率は前述の11月26日発表のNHK世論調査で0.9%(!)、11月18日発表の朝日新聞世論調査では0%(!!)である。

現有議席占有率でおよそ10%を占めている政党の支持率としては、信じられないほど低い。その一方でインターネット上の各種政治サイト、選挙サイトなどの同様の世論調査では、政党支持率で「国民の生活が第一」が常に30%~40%台を維持して1位であり、最新の「Yahoo!みんなの政治」サイト11月28日終了の世論調査でも、サンプル数15,785票の調査において2位の自民党の19%を大きく引き離し、「国民の生活が第一」の支持率が44%とこれまた断トツの1位であるという事実がある。

よしんばマスコミの発表する世論調査結果なるものが嘘偽りないものだとしても、この数字の驚くべき乖離(かいり)の意味しているところは、政治や社会問題に積極的に関心を持っている層がみずから投票する形式の調査と、そうでない層がどうしても多くなる完全受身形式の在宅電話調査では、これほどまでに現れてくる意識の二分化した隔絶がある、というこの国の現状であり、マスコミ、特に公共放送たるNHKは、それでも尚自前の世論調査結果というのを世間に発表し続けようというのであれば、同時にこうした現実も在る事を即刻国民に伝えるべきであろう。

これが毎日のように繰り返されているのである。刷り込み、というやつである。「国民の生活が第一」などという政党は存在しないよ、そんな政党に投票したら恥ずかしいよ、というあいば達也氏のいわゆる“空気”の醸造である。

ネットやモバイルツール、twitterやface book等の普及で、こうした情報は以前よりはるかに多くの人々に共有されるところとなり、小沢一郎と「国民の生活が第一」の支持者もじわじわと確実に増加していたが、それでもそういうネットワークからどうしても漏れてしまう層というのがある。しかもこの層は選挙に投票に行く確率も高いのだ。

このドンヨリした“空気”に包囲されて生きている人達にも、清新な選挙の対立軸と争点をハッキリと提示して見せてあげる為に、小沢は敢えてみずから一歩退いたのである。

小沢を隠していたのはマスコミである。それならば、と小沢がやむなく身を退くと、今度はマスコミは「陰で裏支配、二重権力構造だ」と早速ダーティーな印象を小沢になすりつけようとする。救いようの無い下劣な連中である。

昨日の嘉田代表のマスコミの質問に対する受け答えにも少々問題がある。「小沢氏の影響があるのではないか」と聞かれ、「そうならないように決めていきたい」などと言っている。今からそのような及び腰では、マスコミのキチガイじみた“小沢を排除しろ”という党内攪乱攻撃が、また始まるぞ?

これ以上いたずらに日本の政治を混乱させたくなければ、彼らマスコミに日本を無茶苦茶にされたくなければ、その点は今一度覚悟の程を決めてもらいたいものだ。最初のうちは“おっとりとかわす”で済むかもしれないが、この腐りきった連中は、それであきらめる手合いではないからな。



個人的には、表向き脱原発を標榜していた朝日新聞-テレビ朝日が、この「日本未来の党」に対してどのようなネガティブを仕掛けるか注目しているが、昨11月28日の天声人語は、なかなか笑えるケッサクである。

電卓をたたいて、意外に小さいと思った。滋賀県の面積に対する琵琶湖の割合である。県地図に開(あ)く青い大穴は3割を占める趣なのに、実は17%弱。淀川流域1500万人の水を賄う存在感が大きく見せるのだろう▼水がめの番人、滋賀県知事の嘉田由紀子(かだゆきこ)さん(62)が、卒原発を掲げて「日本未来の党」をつくる。京大在学中から琵琶湖を愛する環境社会学者でもある。若狭湾の原発群で大事故があれば、水源が汚染されるとの危機感が原点にあるらしい▼脱原発を訴える各陣営で、発信力が高そうなのは日本維新の会の橋下徹氏だった。ところが、石原慎太郎氏を代表に迎えるにあたり、橋下氏の歯切れは悪くなる。「仲間を失った」という思いが、嘉田さんの背中を押したようだ▼新党の動きに早速、小沢一郎、亀井静香、河村たかしの各氏ら、ひと癖ある政治家が呼応し始めた。誰の仕掛けか、生臭くもある。衆院選公示まで1週間、どこも「政策より議席」の実戦モードに入った▼雨後の竹の子の第三極はこれで、「強い日本」を志す維新の会と、嘉田さんを顔に、脱原発で手を握るグループに大別される。彼女が言う通り、福島の事故を受けた初の国政選挙で、原子力の未来がとことん論議されないのはおかしい▼かなりの国民が原発からの卒業を望んでいる。しかし、このまま票が分散しては、思いが政治に伝わらない。関西発が続くが、永田町の力学を離れて選択肢が増えるのはいい。琵琶湖が結ぶ絆も、その一つである。



小沢一郎という天才的政治手腕の仕掛けに、動揺している様が窺える。我が身に迫り来る巨人の掌の気配におののき、はっとして電卓を手に取り、計算してみる。- なんだ、「未来の党」の衆院の議席占有率、現時点で20%にも満たないじゃないか。なにを怯えているんだ、俺は・・・。気を取り直して、「ひと癖ある」、「誰の仕掛けか、生臭く」、「永田町の力学」と、使い慣れた常套句を並べてみるが、あとが続かなかったようである。




来る総選挙、“マスコミ瓦解”選挙となりそうである。また、そうしなければならない。



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2012年6月 3日 (日)

民意も民主主義のルールも国内外の経済状況もすべて無視・大新聞増税翼賛会、剥きだしの狂気


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ここ数日一ブロガーとしては少々悶々とする日々を過ごした。

というのも、5月30日の一度目の小沢・野田会談を経ての翌5月31日、大手新聞社各社の社説を濫読した時に、そのなりふり構わぬ我利我利亡者の如き「小沢を切れ」「自公と協議しろ」との絶叫じみたガナリ声の大合唱に、「世も末」(『かっちの言い分』)とでも思わず呟かずに居られない様な暗澹たる感想を抱かざるを得なかったので、

ひとつそれへの批判検証をブログ記事としてまとめてみようかと思い、手始めに朝日と日経の社説を題材にしてその言説のイカレている部分をメモ用紙に箇条書きにまとめていくという作業を始めてみたところ、なんと一字一句すべてがイカレているという事実に程無く直面し、堪らず筆を投げ出してしまったからである。

それこそ「増税翼賛会の狂気」とでも題した一大長大論文でもものせそうな感じなのだ。見出しだけ列挙しても朝日「野田首相へ-自民との強調が優先だ」、読売「野田・小沢会談「もう一度」は時間の浪費だ」、日経「首相は自公との連携へ踏み出すときだ」、毎日「元代表と平行線 首相、早く見切りを」、産経「野田首相 公約撤回なぜ打ち出せぬ」。この日5月31日の大手新聞社の諸社説は国民各自コピペして永久保存すべき代物ではないだろうか。

民意も民主主義のルールも国内外の経済状況(デフレ・スパイラルから脱却出来ない国内経済の停滞に加え、底の見えない欧州債務危機不安で世界同時株安の進行、今後更なる悪化の懸念)もすべて無視し、ありとあらゆる詭弁を弄してとにかく何が何でも大増税法案を採決しろと迫るその様は誰ともなく、歴史の資料としてかつて眼にしたことのある、戦中戦後の国民を戦争に駆り立てた大本営発表の新聞記事の記憶を想起せずにはいられないものであろう。その意味でもこれらの社説は後世に貴重な歴史的資料となると考える次第だ。

詳細な検証批判としては充分とは言えないまでも、昨6月2日の日刊ゲンダイの下記の記事が、これらの大新聞社説を眼にした時のわれわれの持ち得た感想を率直に代弁してくれているので、それをここに転載することでここ数日の悶々とした心持ちの一先ずの沈静を図るものとする。



「小沢を切れ」と合唱する大新聞 この国の大新聞は常にデタラメだった
日刊ゲンダイ 6/2


-昔は戦争大勝利の大嘘を報じ続け最近は小沢一郎の検察デッチ上げ情報を流し今は選挙に負けた自民と宗教政党公明と野田は合体しろと煽っている


野田首相と小沢元代表の会談物別れを受けて、大マスコミがいよいよ本性をムキ出しにしてきた。「野田は小沢を切れ」 「再会談は必要ない」 「自公と早く協議を始めろ」の大合唱だ。野田をけしかけ、消費増税法案の成立を急がせたくて仕方ない。

その後も、「首相、今月15日までに採決」「自民も協議に応じる構え」 「岡田副総理、自民の意見入れ、採決』 「幹事長会談へ」と書き立てている。

大増税に「命をかける」と宣言した野田が焦っているのは分かるが、応援団の大マスコミの方がヒステリックになり、勝手に政治日程を決め、大増税採決へのレールを敷いているから異常も異常。政局の主導権を握っているのは完全に大新聞になってしまった。普段は「公平性や客観報道が大事」なんてゴタクを並べるくせに、客観性も中立性もかなぐり捨てている。

それだけに、「ちょっと待ってくれ」なのだ。朝日や読売新聞は、増税を、さも当然のことのように報じているが、そんなことは誰がいつ決めたのか。国民はオーケーを出したのか。選挙で有権者の過半数の支持をもらったのか。

読売や朝日は空トボケているが、全部、違うだろう。どこの世論調査でも国民の6割は大増税に反対だ。賛否を問う選挙だってやっていない。小沢が主張するように「大増税の前にやるべきことがある」と考える国民がほとんどだ。大新聞は「民主党内の手続きを踏んで決まったこと」と言うが、笑うしかない。野田民主党の支持率は6割とか7割あるのか。

こういうことを全部はしょって無視して、大増税はもう後戻りできないことみたいな空気をつくってしまう。ムチャクチヤだ。


大マスコミの正体は権力そのもの


政治評論家の森田実氏ははこう憤慨する。

「これが大マスコミの本質なのです。彼らは、たまに正義漢ぶったことを書いたり、弱者の味方のフリをする。そうやって読者・視聴者をダマしているが、本質は、財務省や政治中枢と同じ権力なのです。」

「国家の維持が最優先であって、庶民の命や生活なんて、どうだっていい。このデフレ不況の中で大増税を強行する暴挙を、暴挙と感じない。躊躇もないのです。この体質は戦前から同じで、国体護持のために戦争を煽り、勝った勝ったとウソをばらまき、310万もの死者を出した。戦後はアメリカの手先となって日米安保強化と日本の属国化を進めてきた。沖縄の米軍基地の固定化を批判する報道がありますが、それもポーズで、固定化を進めたのは大マスコミなのです。戦前・戦中、さらに戦後もずっと、国民は大マスコミの民主主義ぶった主張にダマされてきましたが、もういい加減、目を覚まさないと痛い目に遭うのはいつも国民なのです」

大新聞は、自分たちの国民ダマシがばれるのが怖い。増税反対の世論が盛り上がるとヤバイ。それで6月15日までに採決しちゃえと急がせているのだ。選挙をやって増税が潰れると自分たちが否定されるので、決して 「解散で信を問え」の正論を口にしないのである。大新聞の政治記事なんて、眉にツバして読まないとダメなのだ。


権力に嫌われた小沢の言い分こそ庶民の味方


大マスコミの正体が、権力そのものだということが分かると、いろんなことが見えてくる。小沢事件であれだけ検察のデッチ上げ情報を流したデタラメも、無罪判決が出た後も小沢排除にこだわるナゾも理解できる。逆にいえば、大マスコミに嫌がられる小沢こそが、庶民の味方であり、正論だということになるのだ。

 「先日のNHKニユースに小沢さんが生出演しているのを見ましたが、やはり貫禄が違った。NHKの大越という男性キャスターが“最初に増税ありき”で質問していたが、小沢さんはきっちりと筋論で反論していた。日ごろ、大マスコミの“政策ナシの政局報道”ばかりに慣らされてしまった視聴者も目が党めた覚めた人が多いと思いますよ」 (経済アナリスト・菊池英博氏)

その小沢を、「停滞する政治」 「決断できない政治」の象徴のごとく報道する大マスコミだが、それも全部ウソ。日本の政治は昔からずっとモタモタしてきた。アメリカの顔色をうかがい、政官財の利権調整を行い、自民党政権が生き残りから公明党のような異質の宗教政党と手を組んだのが原因だ。そういったことを無視し、大増税に賛成しない小沢のことだけを、ことさら政治の障害物のように扱う。いくら権力の片割れとはいえ、身勝手すぎるにも程度があるというものだ。


大新聞を読むなTVを見るな!   

しかも、民主主義で一番大事な選挙結果まで、大マスコミは平気で否定している。前回の総選挙で民主党と自民党は激突した。で、民主党のマニフェストが大勝した。それなら応援してやればいいのに、マニフェストを捨てろと叫び、揚げ句は敵対した自民党や公明党と合体しろと追い込む。有権者が大敗させた自公に野田は頭を下げて協力を求めろと勧めるのだから、もうムチャクチヤではないか。原理原則も民主主義もあったものじやない。

「あの戦争では、メディアの扇動に国民も一緒になって熱狂した面があります。しかし、今回はいくら煽られても、国民は増税に踊らない。6割が反対している。それなのに、メディアは勝手に世論の代表のような顔をして、生活経済破滅に国民を追いやろうとしている。その意味では、戦前・戦中のメディアより、今のメディアの方がはるかに悪質だと思います」 (筑波人名誉教授・小林弥六氏=経済学)

ついに、森田実氏(前出)はこう言った。

「国民がソツポを向くことが一番ですよ。大新聞は読まない、テレビは見ない。そうすれば、連中は潰れる。潰れないことには懲りないのです。読者や視聴者あって成り立っているのに、大新聞もテレビも国民の生活なんて眼中にない。そんなものをわざわざ読んだり見る必要はありません。大新聞やテレビを見なくても生きていける。目が曇らず、もっと賢くなれるというものですよ」

「権力の監視機関」という“仮面”をかなぐり捨て、デタラメの丸裸を見られ始めた大新聞は、この先、どうやって生きていくつもりなのか。

(転載了)



その“デタラメの丸裸”も単なる丸裸ではなく、先日タイ南部で中国へ大量密輸されるところを発見されてニュースになった、穿山甲(センザンコウ)なる珍奇な哺乳類のそれを想起させる。

マツボックリ状の角質の鱗を全身に纏(まと)ったこの奇妙な陸生動物は、その臆病で大人しげな性質と、びっしり生えた刃物のような鋭利な鱗(うろこ)の持つ凶器性との対照性において、際立った存在である。

その姿は裸に剥かれた今のマスコミの姿だ。努めて善良を装っていた一見穏やかそうな表情のその外皮の内側においてこれまでずっとひた隠しに隠していた、びっしりと獰猛に生え揃った【権力者】としての国民に牙を剥くトゲの如き鋭利な鱗の存在が、皮膚が裏返るような追い詰められた状況のなか、隠しようもなく遂にその正体を国民の前にはっきりと現しているのだ。

穿山甲は長寿に効くとされ中国やベトナムでは食用として高価で取引されているようだが、アフリカの部族などでもイニシエーションを兼ねた特別の儀式の際に、穿山甲を食するという慣習があるそうだ。

われわれ日本国民もこの閉塞した社会状況を打破して真の大人へと変容するイニシエーションの為には、まずコイツらを喰い殺す必要があるようだ。相当にマズそうなゲテモノだが。

すでにコイツらはわれわれの胃袋の中にある。インターネット時代の“あたらしい大衆”の大量出現によって、コイツらはすでにわれわれに呑み込まれ、包囲されつつある。

われわれの胃酸によって身体がじくじく溶解していく感覚を味わいながら、もがき苦しみせいぜい発狂して喚きたてるがいいだろう。腹中のゴミの喚きなど、われわれの耳に聴こえやしない。


(-ところで小沢・野田の二度目の会談というのが本日輿石を交えて行なわれたが、一見無駄とも思えるこの会談がなぜ行なわれたのか、そしてこの野田という爛(ただ)れたおたふくのようなペルソナの正体は一体何なのか、オレには個人的にいまいち判別つかないところが在るのだが、つまり普通程度のバカなのかそれとも並外れたバカなのかということだが、それもこれから次第にハッキリして来るのだろう。)


関連参考記事:官僚統治こそが決められない政治の根本原因だ(永田町異聞 5/31)


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2012年5月15日 (火)

「小沢氏限りなく黒に近いグレー」「控訴は当然」というおバカさんは採用しない事に上司が決めました。-温泉娘

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ようやく、私の働いているホテルでも、ポツポツと客が戻り始めました。 それでも原発事故以前に較べれば半分以下。 リストラで大幅に減らした従業員数を少し増やす事になりました。

どんな人を求めるか?ということで副社長以下幹部が集まって議論をしました。 やる気がある人、忍耐力のある人、外国語が出来る人、放射線汚染問題に知識がある人、あれこれ条件があげられましたが、見識の有無と頭の良し悪しの判断について、副社長が面白い事を言いました。

面接で陸山会事件について意見をたずねてみたら良い、というのです。 無罪判決や指定弁護士の控訴に話を向けて、どう言うか? 

ボスは「新聞やTVの報道を鵜呑みにして、見出しになったような文言を言う人は駄目だ。自分なりにきちんと調べて考えて意見を言う人じゃないといけない。」と言います。

「今、我々は風評被害で塗炭の苦しみを味わっている。 ここは放射線測定値は首都圏と変わらないのに、福島県だというだけで敬遠する人が多い。 真実の実態とはかけ離れたイメージに染められて苦労をしている。 そういう人達が持つイメージを何とか払拭して来て頂く立場の当社に、物事を自分で丹念に調べず、考えもせず、風評を信じ込んで挙句の果てにその風評をさらに広めるような人が向いているわけがない。」

「無罪が当然だ、控訴はおかしい、と言う人ならOKというわけではない。 そう考える理由もきちんと言えなければいけない。 ただ、大方のマスコミの報道とは、逆の事を言っているわけで、そう言う人は大抵は自分で調べて考えた結果だから、理由を言えるだろう。」

「反対に、有罪だ、控訴は当然と言う人がいて、きちんとその根拠を自分の論理と言葉で言えるなら、そういう人でも良い。 しかし、理由が『新聞の見出しが』とか『TVのコメンテーターが』と言うなら、断じてそんな人は要らない。 そんな人に、我々と一緒に風評と戦う事などできるわけがない。」 

久しぶりにボスのボスらしい発言にチョーカンドーしました。

ちなみに、私も面接官の一人になります。 応募は順調なので、面接が楽しみです。

(以上、★阿修羅♪掲示板 5/12 「小沢氏限りなく黒に近いグレー」「控訴は当然」というおバカさんは採用しない事に上司が決めました。 投稿者:温泉娘 より)




阿修羅コメント氏にもあるように、面接の採用基準にメディアリテラシーを考慮するというのは、今の時代非常に有用な方法だろう。

その人の知性と見識のみならず、行動力なども推し量れそうだし、特に陸山会“事件”の場合などには、基本的人権の蹂躙(じゅうりん)だとか、メディアスクラムによる一政治家の政治活動に対する暴力的かつ執拗な妨害だとかいう、民主主義と国民主権の根幹に触れる“危機”的問題がその“事件”の本質としてあるわけだから、

それへの反応を見ることは、“危機”に対するその人の動物的皮膚感覚みたいなものも自ずと知れることになるわけで、企業面接においてはまさに格好の題材だろう。危機意識が薄弱で常にのほほんとしているばかりの人間は、今の時代どの企業でも採りたくないはずである。

それに何より“時代に取り残されている人”を採用しなくて済む訳だから、福島県内の観光企業に限らず、あらゆる企業にとって、役に立たない人材を抱えるリスクが大幅に減ることになる。


来週5月22日には東京スカイツリーがオープンするが、あれなどもまさに今、時代に拒絶され死に絶えようとしている、地上テレビ波独占企業群の為の巨大な墓場的モニュメントのように思えてくる。

20世紀後半から21世紀初頭にかけてという或る特定の一期間に栄華を誇った、
【テレビ教】という現代カルト一神教の最期を飾った記念碑的墓標(宗教的遺跡)として、後世に記憶されるのだろう。数年後には「テレビが地獄の谷底に堕ちていった年に建てられた電波タワーです・・・」と観光ガイドがアナウンスしているのではないか。

しかしあらゆる企業が上記の面接方法を採用した場合、“おバカさん”は行く所がなくなってしまうのではないかという懸念があるが、その点は心配ないだろう。

落ちぶれて信者数が激減し五流カルト宗教団体と化した朝日新聞や読売新聞、日本経済新聞や毎日新聞、産経新聞、それにNHKやテレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京、TBS、フジテレビといった企業団体に行けば、それらの人を暖かく迎え入れてくれるだろう。そして益々誰も見ないおバカ度の増した記事や番組を制作して、おバカ同士で回覧すればよいのである。

その時にはオレでも望めば大手の新聞社やテレビ局に入社できるようになるだろうが、道を歩いていて●を投げつけられたり、家に●を点けられたり、子供が学校でリ●チに遭うようになっては厭なので、やめておく。



※これから福島県の観光業界を受けようと思っている人は、せめてこれぐらい読んでから面接試験に臨んだ方がいいかも。

鳥越俊太郎氏「検察審査会というシステムを見直す必要ある」 5/8
小沢氏起訴した検察審査会が抱える「7つの重大疑惑」を紹介 5/9
控訴決定 小沢謀略裁判継続 5/9
小沢一郎の反撃を望む声 奇怪千万小沢裁判の黒い背景 5/12
小沢氏控訴を『市民感覚』という岸井成格の大ウソ 5/14



※この記事の関連記事
上原美優さんは二度殺された。 (幻想工学の前衛基地 ・日本テレビの本質)




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2012年5月12日 (土)

Mr. Saxobeaaaaaaat !



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暗黒司法?いいえ、暗黒国家です。

尻に火のついた悪魔達が、ついに阿波踊りを始めました。

どうせ死ぬなら踊らにゃソンソン。音頭取りが仙石由人というのなら、
良く出来た漫画だが・・・。

今年に入ってブログの壁紙が変わったあいば達也氏、あるいは酒を手控えているのであろうか(笑)、5月10日付記事の筆致が冴えている。熟読すべし



指定弁護士が控訴?フーン。

検察が自分達の体面を守るために無理筋を承知で控訴というのなら有り得そうな話だが、検審起訴裁判で只の代理人に過ぎない指定弁護士が控訴するというのは、一体誰の為なんだろうね?しかも被害者も何もいない瑣末な形式犯の有無を問う裁判でさ?一審判決直後の記者会見でもお互いに顔を見合わせて「控訴審は勘弁だよな~」という空気感全開だったのが、どういう風の吹き回しで豹変したのかね?

まあ、主謀者が海の向こうだろうが、腐れ司法官僚を中心とした取り巻き勢力だろうが、この際どうでもいい。まとめて面倒見てやろう。海の向こうはどうせ尻尾をあらわしゃしないし、先ずはあいば氏の言う通り、これほどまでに鼻先で愚弄されたのである、心置きなく国内クズ勢力を一掃して、「米国からの独立と自らの足で立つ、自己責任の日本政治の確立(すること)が急務なのである。 」そして海の向こうと向き合うことだ。


クンクンクンクン、燃えているのが自分の尻とも気付かず、何かが焼ける甘やかな匂いに誘い出され、この機を窺っていた悪魔の手先の先鋭どもが、ここぞとばかりにしゃしゃり出てきて、見るに堪えないへっぽこ踊りを始め出す。

やれ証人喚問だ、説明責任だ、国民の理解が得られない、云々。

暗黒NHK(キモチワル・・・)の『ニュースウォッチ9』大越健介は控訴決定の当日、したり顔で「国会の場と司法の場のニ正面から、あらためて説明責任を問われることになります。」などと解説垂れていたが、悪魔の論理にそもそも「正面」などというものは存在しないだろうに。正義と真正面から対面したなら一瞬のうちに燃え尽きて塵と化すのが、悪魔の業である。だから謀略裁判の内実についても一度たりとも正面から向き合わないし、どこまでも国民に嘘をつき続ける。

控訴決定に喜びを隠せないCIAパシリ印刷局(キモチワル・・・)読売新聞の以下のような希望的観測記事なども、われわれが意に介する必要などまったく無いものだ。


小沢氏、あわただしく自宅へ…復権戦略練り直し


民主党の小沢一郎元代表の陸山会事件をめぐる裁判の継続が決まったことで、9月の党代表選への元代表の出馬は困難になったとの見方が党内で強まった。

元代表の「復権」戦略は早くも練り直しを迫られることになった。

元代表は9日昼に東京・赤坂の個人事務所で側近議員と今後のグループの活動などについて協議した。しかし、正午過ぎには、あわただしく東京・深沢の自宅に帰り、午後の日程はすべてキャンセルした。

元代表に近い鳩山元首相は9日、「(控訴は)全く想定していなかった。残念だ」と記者団に語った。

小沢グループ内では、元代表の復権に向けて強気と弱気の声が交錯した。元代表が会長を務める「新しい政策研究会」のメンバー約30人は9日、緊急会合を開き、10日に抗議声明を出す方針を決めた。同会事務総長の東祥三元内閣府副大臣は記者会見で、「無罪は無罪だ。党員資格停止処分が解除されたから、今まで以上に日本再生に向けて全力で活動しないといけない」と強調した。

ただ、国会内の元代表の事務所に駆け付けた若手女性議員は「力が抜けた」と肩を落とした。

控訴審は来年まで続くとの見方が出ており、「裁判しながらの代表選は困難だ」と見る向きも党内には多い。仮に代表選に勝利しても、刑事被告人のまま首相の職責を果たせるのか疑問視されているためだ。

(読売新聞 5月10日)



「刑事被告人のまま首相の職責を果たせるのか疑問視されている」?その前に暗黒謀略裁判の実態全容が次々と国民衆目の前に明らかになって、読売新聞の職責と存在意義の方がよほど疑問視されるようになるだろうことを、心配した方がいいだろう。

「若手女性議員」が「力が抜けた」と言ったのは、読売はわざと曲解しているが、指定弁護士のトンデモ控訴の度し難い阿呆らしさに、思わずズッコケタということだろう。



私は元代表の控訴の件は国民の指定弁護人への疑惑や不信が高まっただけで「復権シナリオ」とやらが遠ざかったなどとは微塵も感じていない。意気消沈してる議員が誰だか知りたいものだ。これで得した人は誰もいない。消費増税の造反?マスコミの表現はおかしい。マニフエストを守るのは造反ではない。



マスコミの声は、国民の声ではない。国民を不幸に陥穽させる悪魔の声である。マスコミの死出の火炙りヘッポコダンスに付き合うほど馬鹿馬鹿しいものはない。

祝・国民政治家小沢一郎、党員資格停止処分解除!

悪魔達はこのトンデモ控訴で小沢一郎の座敷牢からの解放を食い止めたように思っているのだろうが、大間違いだ。

小沢一郎もそして彼を支える民主党議員達も、毅然として堂々と政権奪還の道を歩め。無罪推定の原理も弁えないキチガイどもが発狂したように何を喚きたてようが、一審無罪判決の事実は重い。追い詰められているのは奴らの方だ。

小沢一郎は堂々と9月の代表選に出馬すべきだ。悪魔どもはいよいよ発狂して「道義的、政治責任」などと自分でも意味の分かっていない言葉を持ち出して騒ぐのだろうが、国民の大半はそんな奴らにこそもう心底ウンザリしているのだ。オニキモオカマちゃんの朝日新聞あたりは多分、「あいた肛門がふさがらない」とでも嘆くのであろう。

小沢一郎の政治活動は何ら制約を受ける謂われはないし、それどころか、悪魔達が誰の目にも明らかな卑怯なる窮余の愚策を弄したことによって、却って今まで眠っていた大いなる存在達までもが真実の声の方に目覚め、大地より出で解き放たれいくことになるだろう。つまり彼らの最も畏れていた事態が起こるということだ。

キチガイどものこれ以上のヘっぽこ踊りは、国民に憎悪と嫌悪しかもたらさない。植草一秀氏も言っている。 「弘中惇一郎弁護士の真実を見つめる透明な眼と、指定弁護士の死んだ魚のようなくすんだ眼をよく比較していただきたい。目は口ほどにものを言う。本物と偽物を見分ける眼力が重要である。」

国民の大半はすでに気付いている。その数は今後増えることはあっても、減ることは無い。




前回記事に5月5日付で野郎どものWARRIOR’S SONGを紹介したので、今日は悪魔に捉われていたLADY達の大地母神を、今風に呼び覚まし、解き放してみることとしよう。

Alexandra Stan - Mr. Saxobeat  (Live)





サクソビーツ/アレクサンドラ・スタン

Saxobeats_





これ見てると、カルト一神教的な世界観にかなりの部分毒されている感のあるハリウッド・エンターテイメントの現況に比して、まだしもヨーロッパの芸能の方が、健全なるプリミティブへの回帰志向を保持しているように、オレには思えるな・・・。(サルコジも退陣だし。)

もちろんわれわれ日本人も、その先を行かねばならん。


HEY, SEXY BOY !
Mr.saxobeat



(小沢軍団、全くひるんでいません。・・・新政研H.P


※追記:われわれひとりひとりがそれぞれ小さなMr.Saxobeatとなって、大地母神に
働きかけていくことも肝要ですな。優しくネ。


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2012年4月30日 (月)

我慢もそろそろ限界だって言っておいたはずなんだがな・・・ (5/5 BGM追加)


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バカは死ななきゃ直らない。

クズは死んでも気付かない。

やはりミンチ機にかけて挽き肉にしてやらないと駄目なのではないか?




小沢報道は全部ウソだったと謝罪の必要(無罪判決でも犯罪人扱い報道の異常)
 ゲンダイネット 4/28より

 小沢元代表は、大新聞テレビを訴えた方がいいんじゃないか。そうでないと、連中は懲りない。この謀略報道の洪水は止まりそうにない。

 検察のガセ情報をさんざんタレ流して小沢の政治生命を抹殺したくせに、無罪判決が出た後も、「それでも残る疑惑」だの「国会で説明責任がある」と書き立てている大マスコミ。中には、「ほとんど有罪」の大きな見出しを掲げたり(注:毎日新聞)、識者のコメントを使って指定弁護士に「控訴しろ」とそそのかす記事もある。こうなるともう完全な人権侵害だ。人物破壊だ。

 どうして、そこまでして狂ったように小沢を葬りたいのか。一体、大新聞テレビはだれの回し者で凶器を振り回しているのか。

 そもそもこの小沢裁判は、「無罪判決」の中身を論評する以前の問題である。その価値もない。起訴したこと自体が疑惑、間違いだったのだ。

 政権交代直前の09年3月、地検特捜部は小沢の元秘書を突然、政治資金収支報告書の「記載ミス」という微罪で逮捕し、その立証が困難とみるや、別の秘書を立て続けに逮捕。収支報告書の「記載ミス」は無数にあるのに、小沢以外の政治家には目もくれず、執拗に小沢を狙い、失脚をもくろんだ。

 当初、特捜部は「ゼネコンからの裏献金があるに違いない」「小沢をやれる」と“妄想”を抱いて突っ走ったが、結局、何もナシ。すると、今度は、デッチ上げの捜査報告書を作って検察審査会(検察審)の審査員を“誘導”。ムリヤリ、小沢を「強制起訴」させたのが経緯だ。

 検察が勝手に筋書きを描き、見立てに沿う作文調書を作り、それでも起訴がムリなら検察審を使う――。どう考えても不当不法。こんなデタラメ捜査手法、起訴が許されたら、司法はどんな冤罪もデッチ上げられる。民主主義国家じゃなくなってしまうのだ。

 元毎日新聞記者で、政治評論家の板垣英憲氏はこう言う。

「民主主義国家には基本的人権を守るためのルールが決められています。つまり、適正、適法な手続きです。ところが、今回、検察の捜査手法は無法の積み重ねで、検察審の審査内容はいまだに分かりません。つまり、適正、適法な手続きとは到底、言えないのです。『小沢氏ならいいだろう』と軽くみるムードもありますが、有権者の負託を受けた政治家だからこそ、より慎重な手続きが必要なのです。今回のような捜査手法、起訴が許されるなら、誰でもすぐに犯罪者にされてしまう。大変、恐ろしいことです」
 
小沢事務所が問われた取るに足らぬ政治資金の記載ミスに比べ、検察、裁判所がやってきたことは数倍、数十倍も悪質なことなのだ。

<その批判もなく小沢は実質有罪、政治的けじめをつけろと叫ぶ大マスコミの狂気>

 その意味で、小沢事件は司法の信頼の根幹を揺るがし、ゾッとする検察官による捜査報告書の捏造まで明るみに出た。

 それなのに、大マスコミは批判の矛先を司法権力に集中させようとしない。
〈結論はシロだが、「潔白」ではなく「灰色」という司法判断〉(読売社説)、〈裁かれたのは、私たちが指摘してきた「小沢問題」のほんの一部でしかない〉(朝日社説)などと、改めて小沢を責め立てる。本末転倒だし、トチ狂っているとしか思えない。

 そもそも大マスコミの小沢追及の論調はブレまくってきた。もはや一行も触れようとしないが、批判の出発点は「ゼネコンからの裏ガネ」だった。

 ところが、今は「収支報告書は秘書任せ」「秘書への監督責任」のみをあげつらう。実にチンケな話で、小沢の「道義的責任」「政治的責任」「国会での説明責任」を仰々しく糾弾するのだ。

 振り出しの「ゼネコンからの裏ガネ」はどうなったのか。小沢に「収賄」の嫌疑をかけた特捜部の「小沢との全面戦争」は、とっくに検察の敗北でケリはついている。

 検察は一連の捜査で70社近くのゼネコンを絞り上げたが、出てきたのは不可解な「水谷建設からの1億円」だけ。捜査に参加した元検事の前田恒彦受刑者(証拠改ざん事件で有罪確定)は、小沢公判でこう証言した。

「佐久間達哉特捜部長(当時)は、胆沢ダムを受注した元請け・下請けのゼネコンごとに、○○社が1億、××社が2億と夢みたいな妄想を語っていたが、現場は厭戦ムードが漂っていた」

 水谷からのカネだって、「石川議員を調べた吉田正喜副部長(当時)も、田代政弘検事も『アレはないんじゃないか』との心証を抱いていた」(前田受刑者)という。小沢が問われた政治資金規正法違反事件は、検察の妄想捜査の残りカスをかき集めたに過ぎないのだ。

「それも今回の無罪判決によって、小沢氏を罪に問える材料は全て消えたのです。だから、メディアは『政治とカネ』や『道義的、政治的責任』という漠然とした言葉で責めるしかない。検察と一体になって『小沢はワルだ』とあおった非を認めようとせず、悪あがきを続けているだけです。朝日新聞は社説で『政治的けじめ、どうつける』と小沢氏に迫りましたが、けじめをつけるべきは朝日の側であり、小沢バッシングに狂奔した全メディアです」(元NHK記者で評論家の川崎泰資氏)

 その朝日は「報道検証」と称して、「本紙は有罪決めつけていない」「検察リークありえない」と自己弁護していたが、ゴタクを並べるのは、どうでもいい。朝日はじめ、大マスコミは「小沢報道は全部ウソでした」と謝罪する必要がある。

<これで消費増税がつぶれたら困ると書くスリカエ>

 大新聞の狂気はそれにとどまらない。判決翌日の紙面でさっそく「増税法案、小沢氏無罪も影響」(朝日)、「消費増税に『足かせ』」(毎日)、「小沢系 増税阻止へ反攻」(読売)と大騒ぎしていた。“小沢は数の力で野田政権の邪魔をする”“消費税問題を混乱させるだけで、良い結果を生まない”と、こんな論調のオンパレードだ。

 しかし、消費増税が暗礁に乗り上げているのは小沢のせいか? そうではないだろう。国民の6割がノーと言っている増税に突っ走ろうとする野田悪政に正義がないのだ。経済評論家の上念司氏が憤慨して言う。

「デフレ下で消費税率を上げれば、税収が減ってしまうのは常識です。もちろん、財務省は百も承知。その証拠に、今月4日の国会で、『デフレ下で国民所得が減っている中、税率を上げれば税収は増えるのか、減るのか』と追及された古谷主税局長は、『減少します』とハッキリ答えています。要するに財務省は、国民は幼稚園児程度だとバカにして、何も知らせずにダマしているわけです。」

「いま重要なのは消費増税ではなく、デフレを脱却して税収を増やすこと。それなのに、大メディアは小沢氏が消費増税を潰すのが悪いと非難している。揚げ句、消費増税に反対する人のコメントは、すべて“小沢元代表に近い関係者”と書く。小沢氏が反対するものは善なんだと読者に思い込ませてしまおうと、悪質な印象操作をしている。戦前のファシズム報道そのもので、こんなデタラメはありません」

 国を滅ぼすのは小沢ではない。消費増税であり、それを強行しようとする野田政権と財務官僚、その走狗と化した大マスコミの方だ。露骨で薄汚いスリ替え報道にダマされてはいけない。

<政局を書くのはそれだけ小沢の強大な力を認めているからだ>

 どうして大マスコミはここまで小沢にこだわるのか。一方では「広がらぬ賛同者」「党内で孤立」と書いているのだから、無視すればいいのだが、それをしない。要するに、小沢が傑出した力を持っていることをマスコミが一番よく知っているからなのだ。

「戦後、刑事被告人になりながら、これほど力を持ちつづけた政治家は、田中角栄と小沢一郎だけです。3年間も検察と戦い、党員資格まで停止されたのに、同志が140人もいるのは驚きです。損得を考えたら、小沢について行くメリットはない。大勢の仲間がいるのは、政治家としての実行力やビジョンが並外れているからでしょう。大手メディアが、狂ったように小沢の疑惑を騒ぎ立てるのは、気になって仕方がない、無視できない裏返しです」(政治評論家・本澤二郎氏)

 もし、小沢が取るに足らない政治家だったら、有罪だろうが無罪だろうが、無視している。

 大新聞テレビが、小沢の力量を認めながら、いや、認めているからこそ、なにがなんでも抹殺したいと考えているのが真相なのだ。

「大手メディアは、小沢が目障りで仕方ないのですよ。社説などでは、政治に“強いリーダーシップ”を求めながら、ホンネでは傑出した人物を快く思わないのが、日本のメディアの伝統です。しかも、小沢は、大手メディアの既得権益をブチ壊そうとしている。記者クラブ制度にメスを入れ、テレビの電波行政を変えようとしている。既得権にあぐらをかいている大手メディアにとって、これほど怖いことはない。力のある小沢は、絶対に潰したいということなのです」(本澤二郎氏=前出)

 それで小沢が復権すると、民主党政権が分裂する、社会保障と税の一体改革が遅れると騒ぐ。世間に“小沢不安論”をまき散らす。何かにこじつけてでも、小沢を排除追放したくてしようがないのだ。

<この国の大マスコミは戦前戦中と同じ権力走狗>

 こうしてみると、日本の大マスコミがいかに次元が低いかがよく分かる。国民を賢くさせて、国を豊かにさせる発想などゼロだ。小沢無罪判決を受けて、自民党の代議士がツイッターでこうつぶやいた。

「小沢には監督責任、道義的責任はあるが、判決が出た以上、国会でこの問題を引きずり、時間を費やすべきではない。デフレ円高脱却など、国会は前向きな政策論争を行い、一つ一つ方向を出していくべき」といった内容だ。小沢喚問を要求して、民主党政権を引っかき回そうとする自民党執行部まで皮肉ったのだが、本当の報道の役割とは、こういうこと。無意味な小沢喚問を書き立てることでなく、国民のためになる知恵を授けることだ。そこを自覚しなければ、日本の沈没を止められるわけはない。政治評論家の森田実氏がこう語った。

「この国はマスコミによって、どんどん劣化している。それは権力のチェックをせず権力と一体化してしまったからです。戦前戦中、軍部のお先棒を担ぎ、国民を戦争に駆り立てたマスコミは、その反省に立てば、国民生活を滅ぼす消費増税など逆立ちしても推進してはいけない。大衆を犠牲にしてはいけないのです。ところが、財務省や大政党、アメリカの手先として大衆を脅かして増税を進めて心が痛まない。大衆増税に反対の小沢さんたちのグループを率先して潰そうとする。腐ってます。権力の犬に成り下がってしまったのです」

 大マスコミがしつこく小沢抹殺報道を続けるのは、「自分たちは権力の走狗です」という堕落の正体をさらけ出していることを意味するのだ。

(転載了)



ある程度予想されていたこととは言え、読むに堪えない、見るに堪えない、聞くに堪えない論説のオンパレード。精神が蝕まれそうである。

読んじゃいないが、昨4月29日の毎日新聞倉重篤郎の「論説室から」があまりにも酷い、と天木直人氏も憤っている。


「脱小沢」を「脱原発」にたとえて貶めた倉重篤郎
天木直人のブログ 4/29より

「小沢たたき」の報道の嵐はとどまるところを知らない。

とうとう小沢一郎を原発にたとえ、国民の「脱小沢」の流れは「脱原発」以上に強い、とまで言い出す論評があらわれた。

それを書いたのは4月29日の毎日新聞「論説室から」であり、それを書いた記者は倉重篤郎論説委員長である。

「読めば読むほど、小沢一郎民主党元代表にとって厳しい判決だった」

こういう書き出しで始まるその論説は、小沢判決を報ずる主要紙の見出しを列挙した上で、「小沢政局」にはもうウンザリだと皆が一致していると決めつける。

冗談ではない。

「小沢政局」を煽っているのはメディアではないか。

そして「脱小沢」の流れは「脱原発」以上に強いと締めくくる。

われわれは倉重篤郎なる新聞記者が書いたこの論説と、それを掲載した4月29日の毎日新聞を末永く記憶にとどめておかなければならない。

たしかに小沢一郎の政治と金に疑問を抱く国民感情は世論調査によれば無罪判決後も8割前後と変わらずに高いと報じられている。

その数字がどこまで正しいかは疑問だが、百歩譲ってその数字が正しいとしても、政治と金についての小沢一郎に対する疑問はひとまずおいて小沢一郎の政治力に期待する国民は多いはずだ。

ましてや2割前後の国民は小沢一郎を熱烈に支持している。

毎日新聞は、そしてとりわけ倉重という新聞記者は、これら国民の気持ちを頭から否定しているのだ。

小沢一郎など支持してはいけない、支持する国民は異端だ、馬鹿だと言っているのだ。

メディアとして、そして新聞記者として、あってはならない態度だ。

その偏向と国民軽視の傲慢さを国民は末永く記憶にとどめなければいけない。

偏向と国民軽視のメディアに未来はない。

(転載了)



『ニュース23X(クロス)』の件と言い、毎日新聞・TBSは率先して爆死の道を突き進んでいるかのようだ。

マスコミだけじゃない。

水木しげるの漫画から抜け出してきたような面相の野党第一党の幹事長(我が家での渾名は妖怪・顔面煎餅男)なども、「3人の(元)秘書が有罪になっており、監督責任は絶対に免れないのではないか。」などと相変わらずメディアに同調した発言を繰り返しているが、トンデモ推認判決に疑義をはさむこと無しに、却ってそれを政争の具に利用するこのような政治家こそもうウンザリだ。

今はインターネット時代である。情報弱者扱いされて詭弁で愚弄されることには、われわれ国民はもう我慢ならないのだ。そのことに気付けない政治家は、マスメディアとともに地獄の底まで転がり落ちるがいい。



太陽光発電日記by太陽に集いし者 4月30日
より一部転載

しかし、振り返ってみると、この小沢氏の政治資金の期ずれ記載を受けてマスコミがおこした”小沢たたき=政治資金疑惑騒動”は、ずいぶん罪深いものだったと思います。

”2009年政権交代”の民主政権の流れを変節させる民主党内クーデターの後押しになり、官僚傀儡政権といわれるノダ政権に帰結し、自民党と別政党として存在する意味がないところまできてしまったわけで、"民主党内のクズな政治家が誰かを浮かび上がらせる意味ではよかった"のかもしれませんが、特定勢力の意を受けた政権交代つぶしのための世論誘導だとしたらとんでもないものだと思います。

それでも、マスコミとか野党議員の反応を見ますと、”限りなくクロに近いグレーだが、推定無罪の原則で無罪判決になっただけ””証人喚問が必要”という事実を踏まえない印象誘導が過剰でとても違和感がありました。

お金の流れもすでに明らかになっていて、いまさら聞くこともないのにいまだに不正なヤミ献金隠し事件であったかのように印象誘導しようとしている姿は、情報収集能力のある一定レベルの国民からしたら”道化の猿”にしか見えない哀れなものです。政治不信を募らせるだけのことだと思います。

だいたい小沢氏の土地取引の記載を現金支払い時点でなく登記にあわせて11月でなく1月にした程度の些細なことを大問題であるかのように大騒ぎする人間が、今回の小沢氏の強制起訴を決めた検察審査会をめぐる重大な疑惑についてまったく問題視しないのは、不思議な話です。

今回の小沢氏の強制起訴議決が、民主党内の党首選のために9月14日にむりやり仕組まれた可能性、強制起訴議決を導くために検察からの報告書でウソの報告書を組織的に作成したこと、恣意的な人選を可能にする審査員選定くじ引きソフトを発注して使用したこと、などなど一連の検察審査会をめぐる重大な疑惑こそ国会挙げて追求して、信頼を失いかけている日本の司法にてこ入れすべきだと思うのですが-

(転載了)




始めた当初はもう少し高尚な思索的ブログにしようと目論んでいた(笑)当ブログであるが、限度というものを知らないこの国のマスメディアの惨状を見るにつけ、最早次のような言葉を書きつけるのに何のためらいもなくなった。(家ではとうに毎日吐きまくっているが・・・。)

底無しのクズの集まり=ウジムシ悪魔集団暗黒新聞・暗黒テレビは日本国民と民主主義の敵。とっとと此の世から消えちまえ!


BGM:太陽に集いし者のWAR SONG




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日本社会の病理 - 天声人語にみるEstablishment(エスタブリッシュ)の精神構造 (結構最初の頃から“ウジムシ”って言ってるな・・・(笑)

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