真贋を問う-己と他のすべてに
前回9月25日の記事「日本文化はほんとうは悪党文化」は、賢明な読者諸氏なら既にお気付きだろうが、翌26日に陸山会事件の判決を控えていた石川知裕の近著『悪党-小沢一郎に仕えて』を強く意識しながら書かれている。
それと同時に、いまの脱原発市民運動に欠けている部分のすべてを、小沢と石川らが一身に担って既得権力の側からの攻撃の矢面に立っているような状況のなかで、己を含めてそれに対し傍観者として在ることに対する苛立ちがオレにあれを書かせていたのも、事実である。
公判過程で検察特捜部の取調べの非人道的悪質性が明らかになり、調書の主要な部分が不採用になるという経緯もあり、検察の組み立てたストーリーによる裏金授受や便宜供与なども何一つ立証できていない状況において、検察側の主張をほぼ全面的に認めるという驚愕の判決が出た訳だが、前日の自分の文章をあらためて読み返してみると、書いているときはそんなつもりもなかったが、何だかこうなることを予期していたかのような、憤怒の前触れのような文章になっている感じもする。 - 「これは権力闘争だぞ。」法の下の正義などハナから有りはしないのだ。検察も裁判所も同じ穴のムジナ。
陸山会事件?いま手元にある新聞の見出しにそう有るからそう書いてみたが、そもそもこれは“事件”ですらない案件なのだ。どこがアホらしいか今更説明するのもアホらしい何もかもがアポ~ンな立件を裁判所がそのまま唯々諾々と有罪判決したということが、まさに国民的大「事件」である。
「天の声」やら「裏献金」やら三人の「共謀」やら検察さえ立証できなかった事を裁判所が「推認」してみずから積極的に認めるという、検察ストーリーならぬ裁判所ストーリーが延々と語られる判決趣旨文(登石郁朗裁判長)を読むほどに、なんとも空恐ろしい気分になる。今までこのような犯罪的な恐ろしい司法判決がわれわれのあまり知らないところで、何度も何度も繰り返されてきたのだろう。それが日本の裁判における有罪率99.9%という異常な数字の成り立つ所以の内実なのだ。
ただ今回この“事件”は、そもそもの捜査段階から国民の注目を大きく集め、その無理筋なインチキ振りがすでに多くの国民に知れるところとなっていたことが、今までとは大きく違っていた。しかしそれにも拘らず奴らは奴らのやり口を強行してきたのである。先の鉢呂吉雄の辞任誘導でマスメディアが越えてはならない一線を越えてしまったのと同様、司法“権力”機関もまた、今回やはり越えてはならない一線を越えてしまったのである。われわれはしかと見た。石川知裕は司法の危機だと語ったが、それは同時に民主主義の危機であり、日本の危機である。何と言っても司法とは本来われわれの生活の安全が保障される最後の砦なのだ。
大胆な「推認」に危うさ - 傍聴の江川紹子さん語る
裁判所の大胆で強気な判断の連続に驚きを禁じ得なかった。東京地裁は6月、検察側主張を支える供述調書の多くを証拠不採用にした。証拠を排除しながら、判決では「当然・・・したはず」「・・・と推認できる」などと推測や価値観で補い、次々と検察側主張を認めた。しかも論理展開は大胆に飛躍する。
例えば大久保隆規被告の関与。同被告が収支報告書の作成に直接関与していないことに争いはなく、石川知裕、池田光智両被告が「報告書原案を大久保被告に見せて了承を得た」とする検察側主張を裁判所は判決で退けた。
にもかかわらず、石川被告から土地登記の繰り延べを不動産会社と交渉するよう頼まれたことで、小沢一郎民主党元代表が立て替えた4億円の隠蔽まで「意思を通じ合った」と決めつけ、半年後の報告書に虚偽記載する共謀まで認定した。
さらに石川被告から池田被告への事務に関する引き継ぎをもって「石川を通じて池田とも意思を通じ合っていた」と断定した。そんな証拠はどこにあるのだろうか。
法廷で明らかになったのは全く逆の事実。石川被告が自身の選挙の準備で忙しく丁寧な引き継ぎが出来なかったため、2人の関係は疎遠だった。池田被告は厳しい石川被告を恐れ、満足に問い合わせもできなかった。報告書に記載された金についての認識も食い違う。
石川被告を媒介に大久保被告と結び付けられた池田被告は、よほど驚いたのか法廷で眼をぱちくりさせていた。
水谷建設から石川被告への5千万円の授受についても、目撃者も裏付け証拠もないまま、同社関係者の証言だけで「あった」と断定した。複数の仲間が「金を渡した」と口裏を合わせれば、それが事実になり、事件をつくることができる。被害者の訴えだけで、逮捕されたり有罪判決を受けたりする痴漢冤罪事件と同じ構図に見えてならない。
冤罪を防ぐため、昨今は痴漢事件でも、手に付着した下着の繊維片などの裏付け証拠が重視される。今回の判決は証拠重視の時代の流れに逆行していると言わざるを得ない。
証拠改ざん隠蔽事件で大阪地検特捜部の元部長らが逮捕されてから約1年。検察の独自捜査の問題点が少しずつあぶり出され、検察自身も改革を進めている。取り調べの可視化や客観証拠を重視することで冤罪をなくそうという機運が高まってきたのに「証拠が薄っぺらでも、怪しげな雰囲気さえつくれば、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージにならないかと危ぶむ。本当に改革が必要なのは裁判所かもしれない。 (了)
そこでオレとしてはまたまた前回の記事でも主張したことの繰り返しになるのだが、いま脱原発の実現のために市民レベルで尽力されている人達は、先の鉢呂の件に続き此処で白日の下に明らかになった国家官僚権力(マスコミもグル)の既得権を死守するためのなりふり構わぬ傍若無人な横暴振りに、どう対抗していく策なのであろうか。あくまでも無垢な善意の輪を広げることで勝算有りとの見込みであろうか。アンチ・クライマクスな匂いがするが大丈夫であろうか。
オレは脱原発市民運動を含め、今日本で起きていることの全体が、ドラスティックなパワー・バランスの転換が可能となるか否かの、権力闘争の同時多発的展開と考える。そのような想像力の下に戦略を立てるなら、脱原発運動が並行的に小沢・石川支援の運動となるべきなどとは考えないが、マスコミにこちらから仲良くしてもらおうとするよりも、むしろ脱原発運動は反マスコミ色をより鮮明にして彼らに敵対すべきと思うが。脱原発運動は脱原発・反マスコミ運動へと変質していく。どうせ何万人集まってもテレビのニュースで大きく取り上げられないのだ。その方がいいではないか。
オレのような悪タレどもは速やかに別働隊へと移行し、検察・裁判所・マスコミ糾弾、小沢・石川支援運動の方向で自分の出来る事を拡大していく努力が要るな。放射能でガンになるよりも先に、小沢政権(亀井静香財務大臣、鈴木宗男外務大臣ならベストだね)を実現しなければ国民経済の崩壊でアウトになってしまう危険性の方が高いと個人的に感じるのでね。
そして反マスコミの旗の下、脱原発運動本体と合流し、巨大な国民運動のうねりが起きるというのがオレとしては理想だね。既得権益勢力のなかでの力関係はともかく、防波堤として機能しているのがマスコミであることは確かなのであるから、そこを崩せれば巨大な津波効果だ。オレもたいして読者のいない(笑)ブログをシコシコ続けているよりも、外に出ていま自分たちの直面している状況について、周りの人間と真剣に話をすることを始めた方が良さそうだ。
もうそういう時機に来ているのじゃないのかね?いままでパソコンと睨めっこして情報収集するだけだった人間は、もうそれだけじゃ駄目だ。職場でも町内でもいいから、自分の力の及ぶ範囲で何らかのアクションを起こしていくべきだろう。
一昨日もテレビの“街の声”で石川知裕について「人間として許せない。議員を辞めるべきだ。」とおぞましい発言をしていた若者がいたが、オレがあの青年の雇用主なら全社員を集めた場所で「この間の君の発言は一体どういう意味なんだね?」と詰問するね。「みんなはどう思う?」ってね。以前自営業をちょっとやってたんだけど、いま自分に従業員がいないのが残念だ。いろいろと“教育”してやれたのにね。なにしろ「日本の危機」なんだ。前にも書いたが、テレビの印象報道のみで小沢嫌悪になっているような人には、ネット媒体での小沢一郎のインタビュー動画を見てもらうだけでも、かなり効果がある。
このままグダグダまどろんで滅亡するに任せるワと思う者はそれでも良いだろう、しかし赤信号みんなで渡れば恐くなしとは言っても、もう信号機自体が壊れちゃってる。
腹立たしいが、これで一定期間小沢一郎が動きづらくなったのは確かだろう。それが彼ら腐敗権力集団の目的なのである。これほどまでに既得権益の側から執拗に攻撃され恐れられている小沢一郎という人間に一度政権を任せてみたいと思うのは、もはや好き嫌いの別を超えて、既得権益の側にどっぷり浸かっている者以外、国民の共通認識にならなければ嘘である。
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