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2011年9月

2011年9月28日 (水)

真贋を問う-己と他のすべてに


前回9月25日の記事「日本文化はほんとうは悪党文化」は、賢明な読者諸氏なら既にお気付きだろうが、翌26日に陸山会事件の判決を控えていた石川知裕の近著『悪党-小沢一郎に仕えて』を強く意識しながら書かれている。

それと同時に、いまの脱原発市民運動に欠けている部分のすべてを、小沢と石川らが一身に担って既得権力の側からの攻撃の矢面に立っているような状況のなかで、己を含めてそれに対し傍観者として在ることに対する苛立ちがオレにあれを書かせていたのも、事実である。

公判過程で検察特捜部の取調べの非人道的悪質性が明らかになり、調書の主要な部分が不採用になるという経緯もあり、検察の組み立てたストーリーによる裏金授受や便宜供与なども何一つ立証できていない状況において、検察側の主張をほぼ全面的に認めるという驚愕の判決が出た訳だが、前日の自分の文章をあらためて読み返してみると、書いているときはそんなつもりもなかったが、何だかこうなることを予期していたかのような、憤怒の前触れのような文章になっている感じもする。 - 「これは権力闘争だぞ。」法の下の正義などハナから有りはしないのだ。検察も裁判所も同じ穴のムジナ。

陸山会事件?いま手元にある新聞の見出しにそう有るからそう書いてみたが、そもそもこれは“事件”ですらない案件なのだ。どこがアホらしいか今更説明するのもアホらしい何もかもがアポ~ンな立件を裁判所がそのまま唯々諾々と有罪判決したということが、まさに国民的大「事件」である。

「天の声」やら「裏献金」やら三人の「共謀」やら検察さえ立証できなかった事を裁判所が「推認」してみずから積極的に認めるという、検察ストーリーならぬ裁判所ストーリーが延々と語られる判決趣旨文(登石郁朗裁判長)を読むほどに、なんとも空恐ろしい気分になる。今までこのような犯罪的な恐ろしい司法判決がわれわれのあまり知らないところで、何度も何度も繰り返されてきたのだろう。それが日本の裁判における有罪率99.9%という異常な数字の成り立つ所以の内実なのだ。

ただ今回この“事件”は、そもそもの捜査段階から国民の注目を大きく集め、その無理筋なインチキ振りがすでに多くの国民に知れるところとなっていたことが、今までとは大きく違っていた。しかしそれにも拘らず奴らは奴らのやり口を強行してきたのである。先の鉢呂吉雄の辞任誘導でマスメディアが越えてはならない一線を越えてしまったのと同様、司法“権力”機関もまた、今回やはり越えてはならない一線を越えてしまったのである。われわれはしかと見た。石川知裕は司法の危機だと語ったが、それは同時に民主主義の危機であり、日本の危機である。何と言っても司法とは本来われわれの生活の安全が保障される最後の砦なのだ。


大胆な「推認」に危うさ - 傍聴の江川紹子さん語る

裁判所の大胆で強気な判断の連続に驚きを禁じ得なかった。東京地裁は6月、検察側主張を支える供述調書の多くを証拠不採用にした。証拠を排除しながら、判決では「当然・・・したはず」「・・・と推認できる」などと推測や価値観で補い、次々と検察側主張を認めた。しかも論理展開は大胆に飛躍する。

例えば大久保隆規被告の関与。同被告が収支報告書の作成に直接関与していないことに争いはなく、石川知裕、池田光智両被告が「報告書原案を大久保被告に見せて了承を得た」とする検察側主張を裁判所は判決で退けた。

にもかかわらず、石川被告から土地登記の繰り延べを不動産会社と交渉するよう頼まれたことで、小沢一郎民主党元代表が立て替えた4億円の隠蔽まで「意思を通じ合った」と決めつけ、半年後の報告書に虚偽記載する共謀まで認定した。

さらに石川被告から池田被告への事務に関する引き継ぎをもって「石川を通じて池田とも意思を通じ合っていた」と断定した。そんな証拠はどこにあるのだろうか。

法廷で明らかになったのは全く逆の事実。石川被告が自身の選挙の準備で忙しく丁寧な引き継ぎが出来なかったため、2人の関係は疎遠だった。池田被告は厳しい石川被告を恐れ、満足に問い合わせもできなかった。報告書に記載された金についての認識も食い違う。

石川被告を媒介に大久保被告と結び付けられた池田被告は、よほど驚いたのか法廷で眼をぱちくりさせていた。

水谷建設から石川被告への5千万円の授受についても、目撃者も裏付け証拠もないまま、同社関係者の証言だけで「あった」と断定した。複数の仲間が「金を渡した」と口裏を合わせれば、それが事実になり、事件をつくることができる。被害者の訴えだけで、逮捕されたり有罪判決を受けたりする痴漢冤罪事件と同じ構図に見えてならない。

冤罪を防ぐため、昨今は痴漢事件でも、手に付着した下着の繊維片などの裏付け証拠が重視される。今回の判決は証拠重視の時代の流れに逆行していると言わざるを得ない。

証拠改ざん隠蔽事件で大阪地検特捜部の元部長らが逮捕されてから約1年。検察の独自捜査の問題点が少しずつあぶり出され、検察自身も改革を進めている。取り調べの可視化や客観証拠を重視することで冤罪をなくそうという機運が高まってきたのに「証拠が薄っぺらでも、怪しげな雰囲気さえつくれば、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージにならないかと危ぶむ。本当に改革が必要なのは裁判所かもしれない。 (了)



そこでオレとしてはまたまた前回の記事でも主張したことの繰り返しになるのだが、いま脱原発の実現のために市民レベルで尽力されている人達は、先の鉢呂の件に続き此処で白日の下に明らかになった国家官僚権力(マスコミもグル)の既得権を死守するためのなりふり構わぬ傍若無人な横暴振りに、どう対抗していく策なのであろうか。あくまでも無垢な善意の輪を広げることで勝算有りとの見込みであろうか。アンチ・クライマクスな匂いがするが大丈夫であろうか。

オレは脱原発市民運動を含め、今日本で起きていることの全体が、ドラスティックなパワー・バランスの転換が可能となるか否かの、権力闘争の同時多発的展開と考える。そのような想像力の下に戦略を立てるなら、脱原発運動が並行的に小沢・石川支援の運動となるべきなどとは考えないが、マスコミにこちらから仲良くしてもらおうとするよりも、むしろ脱原発運動は反マスコミ色をより鮮明にして彼らに敵対すべきと思うが。脱原発運動は脱原発・反マスコミ運動へと変質していく。どうせ何万人集まってもテレビのニュースで大きく取り上げられないのだ。その方がいいではないか。

オレのような悪タレどもは速やかに別働隊へと移行し、検察・裁判所・マスコミ糾弾、小沢・石川支援運動の方向で自分の出来る事を拡大していく努力が要るな。放射能でガンになるよりも先に、小沢政権(亀井静香財務大臣、鈴木宗男外務大臣ならベストだね)を実現しなければ国民経済の崩壊でアウトになってしまう危険性の方が高いと個人的に感じるのでね。

そして反マスコミの旗の下、脱原発運動本体と合流し、巨大な国民運動のうねりが起きるというのがオレとしては理想だね。既得権益勢力のなかでの力関係はともかく、防波堤として機能しているのがマスコミであることは確かなのであるから、そこを崩せれば巨大な津波効果だ。オレもたいして読者のいない(笑)ブログをシコシコ続けているよりも、外に出ていま自分たちの直面している状況について、周りの人間と真剣に話をすることを始めた方が良さそうだ。

もうそういう時機に来ているのじゃないのかね?いままでパソコンと睨めっこして情報収集するだけだった人間は、もうそれだけじゃ駄目だ。職場でも町内でもいいから、自分の力の及ぶ範囲で何らかのアクションを起こしていくべきだろう。

一昨日もテレビの“街の声”で石川知裕について「人間として許せない。議員を辞めるべきだ。」とおぞましい発言をしていた若者がいたが、オレがあの青年の雇用主なら全社員を集めた場所で「この間の君の発言は一体どういう意味なんだね?」と詰問するね。「みんなはどう思う?」ってね。以前自営業をちょっとやってたんだけど、いま自分に従業員がいないのが残念だ。いろいろと“教育”してやれたのにね。なにしろ「日本の危機」なんだ。前にも書いたが、テレビの印象報道のみで小沢嫌悪になっているような人には、ネット媒体での小沢一郎のインタビュー動画を見てもらうだけでも、かなり効果がある。

このままグダグダまどろんで滅亡するに任せるワと思う者はそれでも良いだろう、しかし赤信号みんなで渡れば恐くなしとは言っても、もう信号機自体が壊れちゃってる。

腹立たしいが、これで一定期間小沢一郎が動きづらくなったのは確かだろう。それが彼ら腐敗権力集団の目的なのである。これほどまでに既得権益の側から執拗に攻撃され恐れられている小沢一郎という人間に一度政権を任せてみたいと思うのは、もはや好き嫌いの別を超えて、既得権益の側にどっぷり浸かっている者以外、国民の共通認識にならなければ嘘である


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2011年9月25日 (日)

日本文化はほんとうは悪党文化

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重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだした- 「陽気と客観」中沢新一


野田首相が原発再開・維持政策を打ち出しつつあるが、これに抗する脱原発市民デモも、大江健三郎、落合恵子など多くの著名文化人が呼び掛け人となった効果もあり、9月19日の東京・明治公園「さよなら原発」集会デモにはこれまでで最高の六万人(主催者発表)が集まり、その熱気と興奮と感動を伝える多くのネット記事も眼にした。代々木公園まで続いたデモ行進がNHKを取り囲めなかったのは少々残念ではあるが、この日の集会を出発点に既存原発の計画的廃炉、もんじゅ及び六ヶ所村再処理工場の廃棄、自然エネルギーへのエネルギー政策の転換を求める1000万人の署名を集め国会・総理大臣に提出するのが目標だという。

勿論その趣旨には賛同するしオレも署名には参加させていただくが、ここではオレのような悪タレは一般的な賛同の声とはまたちょっと違った感想を持っている、ということを敢えて述べてみたいと思う。


類は友を呼ぶの倣い通り、オレの周りは悪人ばかりである(悪人と言っても、悪質な犯罪の前科があるという意味ではない。)が、その悪人達も今度の事故が起きて以来、原発コノヤロウとはみんな大概思っているし、再稼動とかヤメテクレだよな、とも思っているのだが、脱原発の市民運動やデモに参加しようという者はいない。誘っても断るだろう。

オレにはその理由が分かるのだが、それはなぜかというと、今のところ脱原発の市民デモが、善人達による善人達の為の善人達の宴(うたげ)として、彼ら(オレも含めて)の眼には映っているからだ。そのような場にオレ達は近付かない。

今回呼び掛け人として揃ったような“良心的”文化人の顔ぶれを見ると、尚更なのだ。彼らの演説は彼らなりに心を込めての演説であり、その場にいた多くの聴衆の共感を呼んだのかもしれないが、オレ等悪タレの心にはハッキリ言ってあまり響かない。それらはオレ等からすると「余韻や残響やたっぷりの思い入れ」が多過ぎるし、その分センチメンタルにも聞こえてしまって、それだけでもう敬遠してしまうのだ。耶蘇坊主くさい大江健三郎が登場してくるだけで、なんとなくアンチ・クライマクスな滑稽ささえ感じてしまう。もし大江が「国民の敵・NHKに受信料は払うな!」と大観衆の前で叫んでくれたら、オレの大江評も赤丸急上昇するのだが・・・。

オレは仲間内ではインテリということになっていて、比較的本も読む方だが、ハッキリ言って他の人間は普段本など読まないし、そういう連中からすると、“良心的”文化人の演説は、言葉多くしてなかなか核心が伝わってこない、という印象を受けるだろう。「命の大切さを第一に」などという言葉は、彼らの心には響かない。それはなんだか前に学校の授業で聞いたことが有るような気がするし、ワクワクするような新しい「発明」の感じがしない。そう、ぶっちゃけて言えば、悪タレの立場からしてみると、たとい不謹慎と言われようとも、ワクワクするような感じが有るかどうかというのが最重要なのである。そして悪タレは人から説教されることも説得されることもキライである。山本太郎やランキンタクシーの“腕っぷし”に少々反応するぐらいである。

そしてオレは敢えて読者に問うてみたいのだが、われわれはほんとうに善人なのだろうか?
つまり原発推進派を悪人と見做すほどにわれわれは善人なのだろうか?

たとえばこれは9.19ではなく9.11の新宿デモにおいてだが、演壇に立ったNPO法人環境エネルギー政策研究所長飯田哲也氏はなぜあのように菅直人に肩入れするのだろうか?菅が浜岡原発停止を宣言したから菅降しの動きが始まったという見解は、確かにそういう政治勢力の動きがあったことも事実だが、もしほんとうに全体をその様に認識しているのだとしたら、政治的にあまりにナイーブ過ぎるし、もしそうでなく自己の目的(脱原発)の為に菅の数々の悪政(というより最悪の分裂症的無政府状態)に眼をつぶってそれらを善と言いくるめようとしているのならば、飯田氏は果たして善なのだろうか?

その点同じ日に演壇に立った柄谷行人はもう少し意識的で、自分が絶対善であるかのような発言はしない代わりに、「社会を変えるためのデモであり、デモをすることによってデモが可能な社会に変われる」という趣旨の発言をするのだが、「3.11以前に日本にデモは無かった」という認識はやはりスットコドッコイである。

そのスットコドッコイの由来を考えているうちに、以前読んだ彼の正岡子規に関する短い論考=「ヒューモアとしての唯物論」に行き当たった。ここで柄谷は正岡子規の芸術観=「写生」における「客観」をヒューモアと規定した上で、ボードレールに倣ってヒューモアとは「同時に自己であり他者でありうるの存在することを示す」ものであるとし、たとえばマルクスの共産主義もこのヒューモアとしての精神の現実的運動である、と規定するのはまったく正しいのだが、そう語る柄谷の文章からは、力の発現し流動する感じも、現実の状態を止揚する運動の躍動感もサッパリ伝わってこないのであり、オレにはまったく退屈な文章だ。実際こうして要約してみても、大概の読者には何を言っているのかさえほとんど分からないであろう。おそらく柄谷は実際的にはこうした力や運動に関してはむしろ不感症なのではないか、とこの文章を読んだ限りオレは疑うのである。

-重要なのは余韻や残響やたっぷりの思い入れなんかではなく、すがすがしい知性の力で、明快な現実をすっくと立ち上がらせて見せることだ。そう考えた正岡子規は、芸術の改革に乗りだしたのである-

オレが度々中沢新一を引用するのは、中沢は現実的な政治的アクション、政治的センスはほとんど無い人だと思うが、その下部を支えている、現実世界に漲っている力の運動とその構造に関して、非常に卓見した思想家だと認めるからだ。彼の語る正岡子規は、柄谷のそれと比べて遥かにアヴァンギャルドで、そしてワルである。

子規は日本語に構造上の弱点を見い出していた。-日本語で書かれた歌詞をオペラ仕立てにでもして歌ってみればすぐにわかるように、全体として響きが過剰な割には、伝達される意味は少ない。こういう言語は閉じられた共同体の内部では、おたがいの感情の理解やコミュニケーションが持続していることの確認のためなどには、いたって情のこまかい便利な働きをするが、交易や交渉や戦いの場所には不向きである。そのような言語を用いて新しい現実の「発明」をおこなおうとするとき-いっさいの過剰な身振りは削ぎ落とされ、「ありのまま」の「場所」のみが、すっくと立ち上がる。その鮮やかな実例として、子規は芭蕉のあの句を挙げるのだ。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

而(しか)して其国語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思(わがしょし)を現はさんとせば為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句はいかがなるべきかなとつくづく思いめぐらせる程に脳中朦朦(もうもう)大霧の起こりたらんが如き心地に芭蕉は只惘然(もうぜん)として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。萬頼寂(ばんらいせき)として妄想全く耐ゆる其瞬間、窓外の古池に躍蛙(やくあ)の音あり。 みずからつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。 -正岡子規「芭蕉雑談」

分かるだろうか?

ワルは「おたがいの感情の理解やコミュニケーションの持続の確認」などにはさしたる関心を示さない。そんなものは何も産み出さないし、新しい現実の「発明」にはほとんど役に立たないと知っているからだ。そんな言葉の遊戯に時間を費やす代わりに、ワル達は新しい現実の立ち上がる、時間も消失するような「場所」で、躍動する裸の「モノ」に直に交感しようとするのである。松尾芭蕉は稀代の悪党芸術家であるし、それを正確に理解し発展させた正岡子規の「客観」とは、やはり稀代の悪党芸術と言えるのである。

われわれ日本人の多くもまた心の内奥で芭蕉や子規の芸術を理解し愛してきたし、いまも理解し愛している筈である。われわれはわれわれ自身で考えているよりも、はるかにずっと悪党なのではないか?

正岡子規の芸術は御存知の通り、その病状の進行とともにみずからの死を「客観」する境地へと向かってゆき、そのなかでヒューモア的態度が醸成されていったのは、柄谷の言う通りである。しかし「ヒューモアとしての唯物論」などとしてしまうと、唯物論がその契機に本来持っている力動感や流動感が見えなくなってしまい、高級なだけのつまらない精神的態度のようになってしまう。

脱原発デモにおける“良心的”文化人達の発言には、高級な美辞麗句がいっぱいあった代わりに、一番必要な、力の発現する「契機」としての悪党的言葉が、欠けていたように思えるのだ。

その言葉とは何なのか?

あの寡黙な、しかしそれだけにほんとうの事しか言わない政治家の言動に、オレはその答えを見い出す。

「これは権力闘争だぞ。」

昨年10月4日、東京第5検察審査会による“強制”「起訴議決」が公表された後、小沢一郎は涙を流しながら自らに近い議員にこう述べた、と当時の新聞は伝えている。

はるか一年近くも前に、その契機の言葉は発せられていたのである。そこから今日までは地続きである。

あの六万人を集めた脱原発集会でオレ達が一番聞きたかった、しかし聞けなかった言葉が、此処に有るではないか?

これは権力闘争である。脱原発運動とは、すなわち権力闘争である。呼び掛け人の一番手として鎌田慧氏が脱原発運動は文化革命だ、といみじくも述べていたが、この国で文化における「革命」とは、松尾芭蕉や正岡子規にあきらかなように、意識を悪党的段階に昇華させた「場所」で、流動する「モノ」の力に己を合一して、「モノ」としての己の発現に立ち会う、きわめて悪党的な所業に他ならないのだ。われわれはみな本来的に悪党である。ただちょっと思い出すだけでいい。そうすれば、八つ裂きにしなければならない敵の顔が、すぐ眼の前に見えて来る筈だ。ほら、家に帰ってテレビを点けてみれば、いつも善人面している奴らの顔が、すぐに見えるだろう。われわれに善人たれと催眠術をかけて、われわれを支配している権力者の顔が。

皮剥いだるぞッ、ア?

というような殺気が漲ってくれば、脱原発運動もより本物のものとなるであろう。“ヒューモア”などは、その後からついてくる筈のものである。先日観たバラエティー番組で、お笑い芸人の千原ジュニアが「俺はあらゆるモノを笑いに変える事が出来る」と豪語していたというエピソードを後輩芸人が披露していたが、それならば彼はテレビで原発事故を笑いに変えているか?彼以外の誰かで、原発事故を笑いにしていた芸人がいるか?テレビを点けると数え切れないくらいのお笑い芸人が次から次と出てくるが、まさにお前ら全員要ラネ、というようなヒューモアの無効になる状況に、今われわれは生きているのである。

善人による脱原発の善意運動がこのままその輪を広げていって、ついには国政を動かせるような状況まで至れば、それはそれで喜ばしいことであるが、よしんば運動の全体により悪党色が鮮明になってくれば、今は傍観者を決め込んでいる悪タレ達(これは実はかなりの数だとオレは思っている)も、勇んで運動の最前線に飛び出してくるだろう。その場合、倒せる敵の数はより多くなる筈である。


Sinran

親鸞聖人熊皮御影(熊皮に坐す親鸞)


善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

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2011年9月16日 (金)

GHOSTLAND(「嵐」の前の静けさ ― 「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」を所望する)

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「鉢呂」以後、テレビを点けても、

報道番組はおろか、バラエティーを観ていても、、スポーツ番組を観ていても、
コマーシャルを観ていても、

こんな気分
Kuzuhahikiniku


にしかならない。


だってそうだろう?オレが特別じゃない筈だ。

なにしろ鼻先で五歳児扱いされて愚弄されたのである。

幾らかでも矜持の有る男なら、一、二発見舞ってやらない事には気の治まるものではない。

女だってこういう時には容赦しないだろう。

ところが相手は画面の奥の向こうに、今日もすまし顔でちゃっかり納まってる。

怒りは漠として膨張する一方なのは、自然の道理である。


テレビを点けると、犯罪者が出て来てこちらに向けて喋り出す。

犯罪者がニュースを読んでる。犯罪者が冗談を言い、犯罪者が陽気に笑い転げ、犯罪者が困っている人のところに出掛けて行って、善意の憐みの表情を浮かべる。挙句には、犯罪者が偉そうに説教垂れ始める。

何でだ?

どうなってんだ?

この状況でわれわれはいつまで正気を保てるか?



表面ではみないつも通りの生活を続けている。

静かである。

静かに、しかし凄まじい勢いで膨張する怒りが地の底からゴーストを呼び覚まさし、われわれのガイストとも一体化したそれは巨大な怒れるゴースト=ガイストとなって、日本の国土の上空を発火点を探しながら、音も無くいま彷徨っている。

長谷川幸洋の鉢呂吉雄インタビュー記事が記録的にアクセス数を伸ばしていた9月14日、テレビ各局の報道番組はおそらく膨張するガイストの気配を意識していたのだろう、こういう場合に彼らの使う陳腐な鎮めの技法、すなわち“善意”という彩色の施された「ヒューマニズム」を、いつも以上に多用していた。そして昨15日は国会本会議代表質問等も有ったのだが、それ以上に文化庁の発表に合わせた若者言葉の変化の街角実地インタビューを大きく取り上げて、“白痴”的「なごみ」ムードで<気配>を掻き消そうとしているかのようであった。“善意”と“白痴”、「ヒューマニズム」と「なごみ」の二本立てで、嵐の発生を抑えてやり過ごそうという算段である。

そしてその国会の方へと眼を転じてみると、ここでも野田佳彦という男がやはり同様に、怒れるゴーストの到来(それは世界大不況という名のゴーストかも知れない)を予感しているのかいないのか、「亀のように甲羅に首をすくめ、嵐が去ってくれ、と」(あいば達也の「世相を斬る」)ただただ思考停止の穴ぐらのようなところに陥入して、時間がすべてをやり過ごしてくれるとの、淡い夢に身を預けているかのようである。

鉢呂をアッサリ見捨てたのは無論、八方美人で美辞麗句ばかり並べた所信表明演説、財政再建と経済成長の同時進行とか、現実を見ていないとしか思えない、何をしようとしているのかさっぱり分からない、谷垣禎一でなくとも「二枚舌」と揶揄したくなるような、一種異様な所信表明演説であった。

その身体そのものがいまやゴーストの緩衝地帯のようになっている、このおたふくのようなペルソナを剥いだ時、中から何が出てくるのか、出ないのか。




嵐を目前にして思考停止に逃げ込む人ばかり、どうしてこんなに多いのか?

死の街って言うなって?

冗談じゃない。

ハッキリ言うぞ。

此処はいま怒れる死の国、ゴーストランドだ。

この国に住まうオレ達は皆、誇り高きゴーストランドの住人だ。

オレ達のひとりひとりが、誇り高きゴーストなのだ。



ゴースト=霊=流動的知性だ。

分かるか?

鉢呂吉雄は福島視察後の記者会見で、己の霊性を立派に示した。

原発周辺の放射能に汚染された人気の無い街を視察した彼は、その流動的知性=ニューロン・ネットワークの内奥で、きわめて正確にゴーストの蘇生する気配を、感じ取っていたのだ。

彼の「死の街」発言をなじる者は、福島の被災者だろうが誰だろうが、

オレは許さん!



長谷川幸洋のインタビューによって、鉢呂がなぜ新聞・テレビ連の犯罪的メディアスクラムによって追い落とされねばならなかったのか、その背景が見えてきた。つまり彼が口先だけでない、本気で脱・原発の方へ国のエネルギー政策を舵取りしようとしていたこと、その為に官僚機構がこれまでずっと“国民的議論”のアリバイとして活用してきた“有識者”によって構成される「調査会」に手を入れて公平性を確保しようとしていたこと、それによって経産省・マスコミサイドから狙われ、引き金を引かれた可能性が高いこと。

これはまるでいつか見た悪夢の再来。佐藤栄佐久の二の舞ではないか?

われわれはこの原発災害の遠因のひとつとも言える官僚・マスコミ連合による佐藤栄佐久知事抹殺を許し、この未曾有の原発災害に見舞われた後のいま尚再び、彼らの犯罪を許すのか?

このまま彼らを許し、事態が彼らの計画通りに進めば、われわれの手の及ばないところで人知れず既成事実が積み重ねられて、いま盛んに全国で行われている数万人規模の脱・原発デモの努力さえ、気泡と化すかも知れないのである。

脱・原発デモの輪の中に、いやむしろその最前面に、「鉢呂大臣辞任抗議デモ」が加わらねばならない必然性を感じる所以であるが、しかしそこにはひとつの問題点が横たわる。

どこかで「辞任抗議」の声が立ち上がるや否や、マスメディアのよこしまなレトリックの横槍が入って、「福島の被災者の感情を踏みにじっている」などとあらぬ非難を受ける可能性があるのである。
国民分断戦術の陥穽にまんまと嵌まってしまうかも知れないのだ。



しかしこの罠を堂々と正面突破出来る場所が、日本に唯一つ在るのである。

福島である。

「福島で鉢呂大臣辞任抗議デモ」の狼煙が上がれば、規模の大小にかかわらず、そのインパクトは計り知れないものが有るはずである。それはたちまちのうちに全国に波及していく破壊力を秘めている。

それどころじゃないよ、こっちの生活がどんなに大変か分かってんのか?と言われれば、オレは黙るしかない。

しかし今のところ“発火点”になれるのは、あなた方しかいないのだ。

あの誇り高き平将門一門、誇り高き白虎隊のガイストがまだ生きているならば、
不可能ではないのではないか?

もし実現すれば、きっと「嵐」も起きるだろう。



Ghostland - Calming The Sea





・辞任の引き金とされた鉢呂吉雄経産大臣の9月9日の発言詳細全文


 昨日、野田佳彦首相と一緒に(視察した)東京電力福島第一原子力発電所事故の福島県の現場は、まだ高濃度で汚染されていた。事務管理棟の作業をしている2千数百人がちょうど昼休みだったので話をした。除染のモデル実証地区になっている伊達市、集落や学校を訪れ、また佐藤(雄平)知事、除染地域に指定されている14の市町村長と会ってきた。

 大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ。

 事故現場の作業員や管理している人たちは予想以上に前向きで、明るく活力を持って取り組んでいる。3月、4月に入った人もいたが、雲泥の差だと話していた。残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。

 除染対策について、伊達市と南相馬市も先進的に取り組んでいる。大変困難ななかだが、14市町村の首長が、除染をしていくと前向きの形もでてきている。首長を先頭に、私も、住民のみなさんが前向きに取り組むことで、困難な事態を改善に結びつけることができると話した。政府は全面的にバックアップしたい、とも話した。

(朝日新聞web記事より)


「死の町」発言について 旅の途中-ブログ篇-


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2011年9月14日 (水)

鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす 「原発エネルギー政策見直し人事」 の発表寸前だった!「放射能」“発言”第一報を報じたフジテレビ記者はその場にいなかった!言いだしっぺが誰かも分からない伝言ゲーム!



謀略の背景と中身が明らかになってきた。


長谷川幸洋(東京新聞論説副主幹)「ニュースの深層」
9/14の記事より全文転載 



 鉢呂吉雄経済産業相の辞任問題は、いまも謎の部分が多い。

 鉢呂が記者会見で「死の町」と発言したのは事実である。だが、大臣辞任にまで至ったのは、記者との懇談で「放射能をうつしてやる」と"発言"したという新聞、テレビの報道が批判に拍車をかけた側面が大きい。

 ところが、その発言自体の裏がとれないのだ。高橋洋一さんが9月12日付けのコラムで指摘したように、各社の報道は「放射能をうつしてやる」(東京新聞)から「放射能をつけちゃうぞ」(朝日新聞)、「放射能を分けてやるよ」(FNN)に至るまでまちまちだった。

 鉢呂本人は終始一貫「そういう発言をしたかどうか記憶にない」と言っている。実際の発言がどうだったかどころか、本当にそういう趣旨の発言をしたかどうかさえ、はっきりとした確証がないのである。

 そこで私は13日午後、鉢呂本人に衆院議員会館の自室でインタビューした。鉢呂事務所は「辞任以来、どなたの取材も受けていません」と取材をいったん断ったが、その後、数時間経って「本人がお会いすると言っている」と連絡があり、インタビューが実現した。以下はその主なやりとりである。


「朝日新聞の記事は間違いだ」


 -いま、どういう心境か。

「『死の町』という言葉は、大変な被災に遭った福島のみなさんに不信の念を抱かせる発言だったと思っている。私は原発から3キロ圏内を視察した。ひとっ子1人いない様子を見て、私にはああいう表現しか思い浮かばなかった。申し訳ないし、反省している。」

 -8日夜の記者懇談はどういう状況だったのか。

「あの夜、視察から赤坂の議員宿舎に戻ってくると、記者さんが5,6人待っていた。みんな経済部の記者さんだと思うが、私はそれまで経済部と付き合いがなかったので、顔見知りはだれもいなかった。後ろのほうに政治部の記者さんが2人いたと思う。こちらは知っている」

「原発周辺では線量計を持っていた。私は一日で85マイクロシーベルトだった。その数字を記者たちに喋ったのは、はっきり覚えている。朝日の検証記事(13日付け)で『私が線量計をのぞいて数字を読み上げた』というのは間違いだ。線量計はJビレッジ(原発作業員の基地)に返却してきた」

 -「放射能をうつしてやる」と言ったのは本当か。

「『うつしてやる』とか『分けてやるよ』と言った記憶は本当にないんです。もしかしたら『ほら』という言葉は言ったかもしれないが、それさえ、はっきり覚えていない。『ほら、放射能』という報道もあったが、放射能という言葉を出したかどうか分からない」

「はっきり言えるのは、私が防災服を記者になすりつけるような仕草をしたことはないっていう点です。一歩くらい記者に近づいたことはあったかもしれないが、なすりつけるようなことはしていない。そんなことがあれば覚えています」

 -記者は発言を録音していなかったのか。

「していなかったと思う」



「第一報を流したフジテレビは現場にいなかった」


 -朝日の検証記事によれば「放射能をうつしてやる」発言の第一報はフジテレビだったとされている。フジの記者は懇談の場にいたか。

「フジテレビはいなかった。フジの記者は○○さん(実名)という女性なので、それは、あの場にいれば分かります」。

 フジは「放射能を分けてやるよ、などと話している姿が目撃されている」と伝聞情報として第一報を伝えている。鉢呂の話でも、フジの記者は現場にいなかったという。ここは大事なポイントである。

 -大臣辞任は自分から野田佳彦首相に言い出したのか。

「そうです。あの日は工場視察に出かけるとき、記者が宿舎にたくさん集まっていた。そのとき、どういう気持ちだったかといえば、これから視察に行くわけですから(辞任の意思はなかった)…。ただ工場視察を終えて、午後7時から総理にお会いするときは腹が決まっていた」

 -首相から辞任を求められたのではないか。

「それはない。私はまず一連の事実経過を説明し、そのまま話を続けて、辞める意志を自分で伝えました」

 -ずばり聞くが「大臣は経済産業省にはめられたのではないか」という説がある。これをどう思うか。

「それは憶測でしょう。私は推測でモノは言いたくない」

 -役所と対立したことはなかったのか。「鉢呂大臣は幹部人事の入れ替えを考えていたらしい」という話も流れている。

「幹部人事をどうするか、だれかと話したことは一度もない」



「原発反対派を加えて、賛成反対を半々にするつもりだった」


 そして、ここからが重要な部分である。

 -脱原発依存やエネルギー政策はどう考えていたのか。

「政府はエネルギー政策を大臣レベルの『エネルギー・環境会議』と経産省の『総合資源エネルギー調査会』の二段構えで検討する段取りになっていた。前者は法律に基づかないが、後者は法律(注・経産省設置法)に基づく会議だ。調査会は今年中に中間報告を出して、来年、正式に報告を出す方針だった」

「このうち総合資源エネルギー調査会は私が着任する前の6月段階で、すでに委員の顔ぶれが内定していた。全部で15人のうち3人が原発反対派で残りの12人が賛成派だ。私は事故を受けて、せめて賛成派と批判派が半数ずつでないと、国民の理解は得られないと思った。それであと9人から10人は反対派を加えて、反対派を合計12、3人にするつもりだった。委員に定数はないので、そうすれば賛成と反対が12人くらいずつで半々になる」

 -それには役所が抵抗したでしょう。

「役所は『分かりました』という返事だった。私が出した委員候補リストを基に人選を終えて、後は記者発表するばかりのところだった」

-もう一度聞くが、それで役所と激論にならなかったのか。官僚は面従腹背が得意だ。

「私は最初から強い意思で臨んでいた。私は報告書の内容が必ずしも一本にならず、賛成と反対の両論が記載されてもいいと思っていた。最終的にはエネルギー・環境会議で決めるのだから、役所の報告が両論併記になってもいいでしょう。私のリストは後任の枝野幸男大臣に引き継いだ。後は枝野大臣がどう選んでくれるかだと思う。」

 この話を聞いて、私は「これで鉢呂が虎の尾を踏んだ可能性がある」と思った。鉢呂は大臣レベルの会議が物事を決めると考えている。ところが、官僚にとって重要なのは法律に基づく設置根拠がある調査会のほうなのだ。

 なぜなら、法律に基づかない大臣レベルの会議など、政権が代わってしまえば消えてなくなるかもしれない。消してしまえば、それでおしまいである。ところが、法に基づく会議はそうはいかない。政権が代わっても、政府の正式な報告書が原発賛成と反対の両論を書いたとなれば、エネルギー政策の基本路線に大きな影響を及ぼすのは必至である。官僚が破って捨てるわけにはいかないのだ。



フジテレビはなぜ報じたのか


 以上の点を踏まえたうえで、フジの第一報に戻ろう。

 もし鉢呂の話が真実だとしたら、フジはなぜ自分が直接取材していないのに、伝聞情報として「放射能を分けてやる」などという話を報じられたのか。

 記者の性分として、自分が取材していない話を報じるのはリスクが高く、普通は二の足を踏む。万が一、事実が違っていた場合、誤報になって責任を問われるからだ。記者仲間で「こんな話があるよ」と聞いた程度では、とても危なくて記事にできないと考えるのが普通である。

 どこかの社が報じた話を後追いで報じるならともかく、自分が第一報となればなおさらだ。

 フジは鉢呂本人に確認したのだろうか。私はインタビューで鉢呂にその点を聞きそこなってしまった。終わった後で、あらためて議員会館に電話したが、だれも出なかった。

 もしも、フジが本人に確認したなら、当然、鉢呂は「そういう記憶はない」と言ったはずだ。それでも報じたなら、伝聞の話に絶対の自信があったということなのだろう。

 経産省は鉢呂が原発エネルギー政策を中立的な立場から見直す考えでいることを承知していた。具体的に調査会の人選もやり直して、発表寸前だった。そういう大臣が失言で失脚するなら当然、歓迎しただろう。

 そして「死の町」に続く決定的な"失言"をテレビが報じたのを機に、新聞と通信各社が後追いし既成事実が積み上がっていった。いまとなっては真実は闇の中である。



子供のことを考え、1ミリシーベルト以下にするよう首相に頼んだ


 -福島では「鉢呂さんは子供の被曝問題でしっかり仕事をしてくれていた」という声もある。

「それは年間1ミリシーベルトの問題ですね。8月24日に私は福島に行って除染の話を聞いた。『政府は2年間で汚染を6割減らす』などという話が報じられていたが、汚染は割合の話ではない。あくまで絶対値の話だ。しかも1ミリシーベルトは学校を想定していたが、子供は学校だけにいるわけではなく通学路も家庭もある。そこで私は菅総理と細野大臣に電話して、子供の生活全体を考えて絶対値で1ミリシーベルトにしてくれと頼んだ」

「すると菅総理も細野大臣も賛同してくれて、2日後の26日に絶対値で1ミリシーベルト以下にする話が決まった。良かったと思う」

 -辞任記者会見では「何を言って不信の念を抱かせたか説明しろって言ってんだよ!」と暴言を吐いた記者もいた。あの質問をどう思ったか。

「その記者と部長さんが先程、私の事務所に謝罪に来ました。私はなんとも思っていません。部長さんにも部下を責める必要はないと言いました。まあ、仕事ですからね」

 取材とはいえ、ああいう言い方はない。「記者」という仕事の評判を貶めただけだ。まったく残念である。

(了)


鉢呂吉雄氏の辞任会見の時名前も名乗らずに「説明しろって言ってんだよ!」と罵声を上げ、その後コソコソ逃げ回っていた時事通信の記者は、ようやく上司に連れ添われて詫びに現れたようであるが、われわれの前に現れて説明しなければならないのは、このフジテレビの記者を始め、その場に居合わせた記者、「放射能」“発言”記事を書いた記者全員ではないのか?大臣のクビが飛んだのだぞ?

大手新聞・テレビ局は黙殺しようとするだろうが、われわれ国民は許さない。民主党も動くべきだ。そして枝野に注目だな(笑)。


Hatiro


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2011年9月12日 (月)

茶の間で繰り広げられる犯罪ショー


辞任した鉢呂吉雄の後任の経産大臣に前官房長官の枝野幸男の就任が発表された。そしてそれに申し合わせたかのごとく野田首相は就任直後に引き続き、この日経団連・米倉弘昌会長、経済同友会・長谷川閑史代表幹事と再度相次いで会談した。

昨日の記事で笑いに昇華して己の怒りを鎮静化しようとしたのであるが、やはり無理なようである。

「経産大臣が暴言」との最初のテレビニュースの奇っ怪な第一報を観た時から、怒髪天に達していたのだが、オレの瞬発力はペンには向かわない(笑)。向けれない、と言う方が正確かも知れない。怒りが一旦臨界を超えてしまうと、こうしてそれを文章に再構成するには、しばしの時間を要するのだ。そういう意味では、スピードが武器のネット文化にはあまり向いていないかも知れない(笑)。

これまでに何度もあった失言による大臣辞任騒動に比べても、そもそもの最初から一連の騒動がマスメデイアの作為によって無理やりに創出されていると点で、今回の辞任劇は明らかに
一線を越えている。鉢呂の「死の街」発言は暴言でも失言でも何でもない。ネアンデルタール人でなければ誰にも分かる。(いや、ネアンデルタール人の知的能力についてはまだ分かっていない部分も多いので、ひょっとしたら彼らでも理解するかも知れない。)

後から出てきた「放射能つけちゃうぞ」云々の件については、記者とのオフレコの懇談の場における軽いジョークだったろうとはいえ、相手が悪意と狡猾さに充ちた大手メディアの記者クラブの連中であった事を考えれば、うかつで不用意という他はないだろう。

しかしこれについても、本人は「言っていないと思う。」と否定しており、ツイッター上でも<鉢呂発言は捏造報道か?記者は本当に聞いたのか?どれが真実?全て嘘?読売「ほら放射能」、朝日「放射能をつけちゃうぞ」、毎日「放射能をつけたぞ」、日経「放射能をつけてやろうか」、産経「放射能をうつしてやる」、FNN「放射能を分けてやるよ」>という疑問が当然のように多数出ている。これだけ短い一言でこれだけ各社表現が違うというのも、普通に考えておかしなものだが、おそらく本人が覚えていないのと同様にその場にいた記者達も覚えていないような、一瞬の軽微なやりとりに過ぎないのだろう。

その軽微なやりとりが新聞・テレビのトップニュースになって、結果われわれほとんどの有権者の意志とはまったく無関係のところで、大臣のクビがあれよあれよとすげ替えられる。

勿論彼ら新聞・テレビ各社の社員・職員達も各々が有権者であり、マスメディアも企業体として活動しているかぎりは利潤を追求せねばならぬ定めにはあるのだが、本来誰のものでもない筈の電波を独占的に使用しているという自分達の特権を最大限に「悪用」して、自分達の意に汲まない政治家を思いのままに追い落とそうとするその振舞いは、今に始まった話ではないが、事ここに至っては最早
犯罪である。(オレは鉢呂という政治家をあまり評価していないし、昨年の民主党代表選で菅直人に投票した’09年総選挙での国民の意志表明に対する軟弱な裏切り日和見政治家の一人という認識であるが、ここにきて脱原発指向とTPP慎重指向を見せていたことが、彼らマスコミにはお気に召さなかったのだろう。)



もうどこの局だったか覚えていないが、犯罪ショーの幕開けは若い女性アナウンサーの「新内閣の大臣の口から、とんでもない、信じられないような発言が飛び出しました!!」という絶叫からであった。続いてその当の鉢呂の発言が流れる。「残念ながら(原発)周辺の町村の市街地は人っ子一人いない、まさに“死の街”というかたちで御座いました。」

(?????????????)

オイオイと思って観ていると、どうやら冗談ではないらしい。続いていつもの得意のサタニックな詐術的映像編集テクノロジー=「街の声」が始まる。

福島県内の繁華街でのインタビューだ。おそらく福島市か郡山市だろう。最初に高校生くらいの子が二人くらい続いた。大体「ヒドイ。福島県人の気持ちを踏みにじっている。許せない。」というような趣旨である。

(やべーな最近の高校生の言語能力の衰退ぶりは。「人っ子一人いない」街の事を「死の街」とか「ゴーストタウン」って表現する感覚が分からないのかな?われわれ現生人類を現生人類たらしめている所以でもあるこの「比喩」という言語表現能力、詩的表現力をそれとして理解出来ないのだとしたら、ニューロン・ネットワークの著しい退化の兆候だ。ゆとり教育、恐るべしだな・・・。)

しかしその後中年のサラリーマン風男性が登場して「ふざけんじゃねぇってんだ。こちとら頑張って何とか日々生活してるっていうのによ。そんな奴大臣辞めちゃえ辞めちゃえ。」等と発言しているのを見るに及び、考えをあらためた。

(違うな。これは質問者の質問自体が多分違う。)

経産大臣はまさに避難区域となっていて人気(ひとけ)の無い20キロ圏、30キロ圏の街を視察した印象として「残念ながら死の街になっている」という表現をしているのだが、このインタビュアーはそこを意図的に曲解して「福島を視察した鉢呂経産大臣が“死の町だ”と今日発言したがどう思うか?」のように尋ねている可能性が高い。そうでなければこの人のこのような反応は逆に説明しにくい。

自分の受け答えが全国ニュースで流されたこの人達は、今頃自分が悪事の為に「利用」されていたことに気付き、心に深く傷を負っているかも知れない。つくづく罪作りなテレビマンどもである。

しかも彼らは国民を欺く為の方法論として、国民の白痴化をも極限まで進行させる目論見のようだ。死を隠蔽する文化、それ自体が現代社会の抱えた本質的な病理であるのだが、「死」と口にするだけで社会的に抹殺されるような事態とならば、その際限なき集団的退行の先に何があるのか、想像するだけでうすら寒い。それに福島第一原発周辺の現況を正視すれば、まず死を認識することから始めないと、いかなる再生も不可能だろう。「死の街」と発言した者をなじることは、「死の街」にしてしまった者の責任を曖昧にし、無化することに他ならない。



9月3日付の記事で野田首相の人事について触れ、党内融和色を今は出しているが、それに対し今後ありとあらゆる詭弁を弄してでもマスコミが足を引っ張ってくるだろうと述べていたことが、早速現実となった。しかもまさになりふり構わずといった体の、公共の電波を使っての、公衆の面前における確信的犯罪行為に踏み込んでまで。どこまで国民を愚弄すれば気が済むのだろう。まさにこの国の支配者気取りである。

オレが不思議なのは、いかに政治部中心の暴走だとはいえ、同じ新聞社・テレビ局に勤めている他の人間は、自分の会社がやっている事を恥ずかしいとかイヤダとか思わんのであろうか。キチガイじみた原稿を読めと言われて、喉の奥から突き上げてくるような嫌悪感とか無いのだろうか。多分無いのだろう。もし有ったら、こんな最低の白痴じみたキチガイ騒ぎを起こす前に、内側から何らかの自浄運動が起きていた筈である。

よって今後オレは(今までも大概そうだったが)、いかなる末端のペーペーにかかわらず、
大手新聞社・地上波ネットテレビ局のすべての社員・
職員は国民の敵
と見做す。一線を越えてきたのはお前らである。小沢一郎の「政治とカネ」問題に関しては検察が主犯で自分達は幇助罪程度だ、という言い訳がまだ立つかも知れないが、今回のはお前らが主犯である。



あっさりと辞任を受け入れてしまった鉢呂の姿を見るにつけ、どのみちこの人には官僚とマスメディアの抵抗を大向こうにまわしての脱原発や反TPPへの舵取りは上手く出来なかっただろうと思う。しかし今回のメディアスクラムにおける彼らの異常な行動の目的は鉢呂のクビだけにあるのではなく、野田内閣本体への
恫喝の意味もそこには含まれているだろう。

野田首相もまたアッサリと鉢呂に辞任を促したものと思われる。そしてその後釜に据えたのが仙石由人の子分格で経産官僚・マスメディア受けのよさそうな枝野である。前原の空威張りもお盛んでアヤシイ動きをしている。強い信念の無さそうなのが今のところ唯一の取り柄のような野田佳彦だが、官僚・マスメディア連合軍の推進しようとする復興増税・消費増税・TPPら諸政策を、露骨な恫喝を受けながら尚のらりくらりとでもかわす様な度量が果たしてあるのだろうか?

輿石東幹事長サイドから「報道の在り方について」「今回の件を問題視している」とのアナウンスがあった。大いに問題化すべきである。





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2011年9月11日 (日)

遂に「永遠の5歳」に突入ですか日本人?新聞の一面トップ記事が小学生以下



ついに「永遠の5歳」に突入ですか日本人?

(「死」って言うだけでも駄目なんだってさ!)



hakuti-sinbun1
「こんな話を一面トップにするセンスが分からない」
江川紹子さんツイッターより)


          ↓


hakuti-sinbun2

よしおクンにエンガチョ。
(・・・だって「死」って言ったんらもん。)




読売「ほら放射能」、朝日「放射能をつけちゃうぞ」、毎日「放射能をつけたぞ」、日経「放射能をつけてやろうか」、産経「放射能をうつしてやる」、FNN「放射能を分けてやるよ」


マスコミによる国民白痴化(=恣意的政治コントロール)も
いよいよここに極まれりという感じだ。
末期症状のその先の事を、何と言うのだろうか?



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2011年9月 9日 (金)

一念発起


昔自分の教え子に向かって、「お前はバカだから政治家になれ」と言った或る高名な大学教授がいたそうである。このような発言のなされる内裏には、自分こそが世界で一番頭が良いのだ、世間の連中とは違うのだ、というような学者特有の自惚れのようなものが潜んでいるように思われる。

現在全国の大学で教職に就かれておられる学者先生方々に謹んでお願い申し上げるが、このような思いあがった不埒な発言は、今後くれぐれも慎んでいただきたい。

世間には世間の、あなた方のあずかり知らない深い深い世間智の世界があるのであり、ましてや世間の方向性を定めるしっかりした政策理念と、権謀術数渦巻く世界を勝ち抜く狡知が同時に求められる政治の世界においては、なにをかいわんやである。バカが政治家になったり、ましてや総理大臣にでもなったりしたら、甚大な迷惑を蒙るのはわれわれ国民である。その事を分かって言っているのか?猛省を促したい。



前原誠司はアメリカにも見放されつつあるのじゃないのかね?
代表選の流れからそのように感じていたんだが、また訪米して何やら勝手にブチ上げてるね。

前原凋落がこれから始まるのなら、是非とも仙石由人と記者クラブマスメディアも道連れにしていただきたいものだ。何しろ先の代表選で奴らが手八丁口八丁で
前原ヨイショに狂騒してたのは、国民の記憶に新しいからね。

それから前回の記事に少々補足するならば、オレは別に鳩山由紀夫を敵対視しているわけではない。ただ今回の代表選で言えば、決戦投票で鹿野陣営の支持を得られなかったことで、小沢一郎が悪いような報道が一部なされていた事が気に入らないだけだ。鳩山の存在は、やはりユニークと言う他は無い。ここまでの政治の世界では一定の重要な役割を果たしてきたと考えるが、今後その影響力は弱まるだろう。

もう一点、それよりも強調しておきたいのは、何故前回「天の声」とか「神の見えざる手」とかいう表現を使ったかと言えば、このような場合には、それは「天の声」なり「神の見えざる手」なりですねハイハイという事で、うっちゃっておく方がある意味得策であるからだ。

勿論大いに騒いでNHKに対する不信を広く流布させることにはオレも大賛成であるが、そうしたとしても、果たして「天の声」や「神の手」が無かったとして選挙結果が違うものになっていたかどうかは結局誰にも分からないのであり、「声」や「手」の持ち主の目的はむしろ、われわれにその「存在」を意識させることの方にあるのかも知れないということに、われわれは留意してかからねばならないのだ。

モーセがシナイ山に登ったとき、彼の神はその姿を現さずにモーセに「声」だけを聞かせ、その「存在」を知らしめたわけだが、この手法は現在でも好まれているようである。旧約書は信仰の書であると同時に、ユダヤ的ヒエラルキーの世界に人心を取り込む為の、人民統治のマニュアル書でもあるのだ。神の「声」を聞いたモーセは、そのときから神の虜となってしまう。常に見えない神の「存在」が有るということは、その共同体における人々を、疑心暗鬼のループに呪縛する罠でもあるということだ。

旧約の世界は、ドメスティックな多神教の世界を否定し、そこから一気に跳躍している。神は最早具体的な動物や植物の形は持たず、「声」であり「言葉」となる。ユダヤ教思想が「永遠の前衛」などと言われる所以(真性ヤ○ザとも言う)であるが、それに比するとまだしも新約の世界、基督教の世界には、ドメスティックな原始宗教の方向への揺り戻しの傾向があるようにオレは思う。旧約における神が厳として命令口調なのに対し、新約の神はちょっと「いたずらっぽい」。



それにしてもやはり基督教の世界におけるユダヤ的一神教的要素と揺り戻し的多神教的要素の比率は、6:4から7:3ぐらいの感じだ。われわれ日本人の社会全般に根を下ろすことは考えにくい。

それでは今のわれわれに未来への可能性を開く思想として、何かあるのだろうか?

オレが真っ先に思い浮かべるのは、中世を生きた親鸞の思想である。親鸞の浄土信仰は、阿弥陀仏一仏を信仰するという点で、仏教でありながら一神教的であると言われるし、ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるという点で言葉の宗教でもあるのだが、オレの考えでは、むしろ親鸞の思想は、6:4とか7:3どころか、ユダヤ的な一神教的思想を殆んど180度反転させてしまっているように思えるのだ。

親鸞の阿弥陀仏は、われわれの頭の上に降って来て命令を下す代わりに、われわれに寄り添って一体となる事を願っている。疑心暗鬼のループの代わりに、流動的な慈悲で人々をつなごうとする。とてもエロティックで、ユダヤ的な神とはまさに対極の「非・存在」なのだ。しかも阿弥陀仏信仰はそれ自体他の一切の仏を否定するようなものではなく、その背後には、すぐそこに未曾有の多神教的世界、草木国土悉皆成仏の世界が地続きで開かれているのだ。

だからユダヤ教も基督教も浄土真宗も一括りにカテゴライズして、「一神教的なもの」として論を進めてしまう養老孟司のような論法は、一聴スッと頭に入ってくるので得心してしまうかもしれないが、オレとしてはやはり養老孟司というバカの壁を感じざるを得ないのだ。唯脳論糞食らえ。

親鸞の思想には、今われわれの置かれている状況、つまり日本のEstablishment層(キャリア官僚、マスコミ、財界、守旧派政治家等)がユダヤ的ヒエラルキーの思考にがんじがらめになっていて、彼らのおかげでわれわれ庶民が苦しめられているこの状況を突破して反転させる為の、重要なヒントがいっぱい詰まっているように思える。

同朋の多数があっさりと寝返ってそんなことは忘れてしまった、と開き直っているような状況においても、なおひたすら執拗に「国民の生活が第一」と念仏のように繰り返しながら一心に国民の覚醒を待ち続けているあのオジサンに、なんだか親鸞の姿が重なって見えるようなのは、オレだけであろうか?しかも彼の政策の主眼である「中央から地方へ」という官僚機構の改革案は、一神教的構造から多神教的世界への、ドラスティックな展開をも意味しているのだ。


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2011年9月 3日 (土)

「脱・仙石」再生民主党の可能性


およそ三ヶ月振りの更新である。

元々吹き出るノルアドレナリンを糧として横に置きつつ、かろうじて知力を保ちながら更新を続けていたのだが、6月2日以降というもの、ノルアドが枯渇していたかというと実はそのまったく逆で、内閣不信任案否決の直後から、早速の岡田克也の日テレ出演での大連立発言に始まる相も変らぬ新聞・テレビの連日のクズ報道に益々ノルアドが度を越えて沸騰しまくりの状態で、パソコンに向かうもののまったくの罵詈雑言の類しか浮かんでこない。これではどうにもならない、としばらく更新はやめと決めた。

原発に批判的な報道にしても新聞・テレビはネットの数ヶ月遅れでこちらの様子を窺いながらおそるおそるなぞっているに過ぎないし、最近はそれもめっきり減った。メルト・スルーはどうなった?

特にこの代表選前一週間のマスコミのまたぞろの反小沢キャンペーンと財政不安ガセネタ増税キャンペーン(特にNHK)がすさまじく露骨に見苦しかった(経産省よりタチの悪い財務省、原発マフィアよりタチの悪いデフレ・マフィアってとこか)ので、今も体内ノルアド状態はたいして変わっていないのだが、民主党代表選が終わり新内閣が組閣されたので、それについて今の段階で思うところを少し述べてみようと思った次第である。



財務官僚傀儡と目される野田佳彦が国民主権派・小沢一郎の推した海江田万里に逆転勝利、官僚主権・既得権益温存派のグルであるマスコミ・財界どもが歓喜したわけだが、翌日の輿石東氏の幹事長起用が双方の支持層に波紋を拡げた。小沢派の取込み分断作戦では、との警戒感もあるが、軽々しさを装った石破茂の「あっとびっくり、マジすか?みたいな」というお下劣な反応に、彼ら守旧派としても当惑していることが率直に現れているように思う。

本当のことしか言わない小沢一郎の事前の言葉を集約してみれば、「菅さん以外なら誰でもいい」と「前原首相では日本がつぶれてしまう」のふたつに尽きるのであり、今回結果負けは負けだが、この負けは許容内・想定内の負けなのだろう。

今から考えてみると、やはりあの唐突な紳介引退記者会見は、「前原 NO」の天の声だったようにも思える。ありとあらゆる(笑)闇勢力からキンタマ握られている筈の、同じ京都府出身前原誠司とその支持者への、警告としてアレは発せられたのではないか。

国土交通大臣時に尖閣事件を招き寄せた前原なんぞが首相にでもなったら、それこそ北朝あたりから何やらとんでもないものがすっ飛んできても不思議ではないのであり、今この一大国難時にそんなオマケがついたら堪らない。TPPだってゴリ押しするだろう。

情けないお子ちゃま日和見集団と思われていた民主党中間浮遊層議員達にも、この天の声を聞き分ける聴覚は微かに残っていたようで、その結果が初回投票の前原から野田への票の流れとなって現れたのだろう。

ところが前原出馬表明を「ドングリの背比べに、大粒のクリが割って入った」と囃し立てた朝日新聞を始め、嘘しか言わないマスメディアの連中は、世論調査で前原支持が40%超だ、いや50%超だとわめき出す始末(ほんのちょっと前まで同様の調査で数パーセントしかなかった人がなんで?)。完全に我欲に凝り固まってしまった人間には、天の声だろうと国民の声だろうと、おそらくどんな声も聴こえやしないのだろう。


鳩山由紀夫には6月2日の件(くだり)以降、次の機会には自ら激しい気性の女・カトリーヌとなって民主党内悪徳勢力に全力でぶつかって行く事をひそかに期待していたのだが、それはこちらの過度の期待というもので、やはり元々そのようなタマではないようだ。逆から言えば、彼もやはり男だったということである。

表向きはともかく、今回も彼は、あくまでもニュートラルを指向するレフェリーとして振舞ったような気がする。そのレフェリーの立場からすれば、この一年間というものは、仙石を筆頭とする菅・岡田ら悪徳勢力の度を越えた小沢派封殺の悪行こそが問題だったのであり、彼の目的は、そのパワーバランスを修正すること以上のものではないのだろう。民主党という身体を、ドレスの上から愛で続ける男。

しかしそうだとすれば、彼の思惑は今回も見事に成功した訳であり、まさか宇宙からのメッセージを鳩山由紀夫が受信して、すべての采を揮っていたとは考えないが、鳩山由紀夫を笑う者は、鳩山由紀夫に笑われるであろう。彼の本質は、「笑い」である。

紳介記者会見に始まり、決選投票直前での信じられないようなNHKの「誤報」騒動まで、局所局所で「神の見えざる手」が働いた結果の、野田総理の誕生ではあったが、小沢一郎を先頭とした国民主権派にしてみれば、凄まじい逆風が一旦止んで凪になったというだけであり、風向きが変わったというところまではまだ至っていない。

政調会長には前原誠司の名前があり、主要閣僚の顔ぶれを見回してみると、玄葉、安住に蓮舫、小宮山、古川とこれまでの行状を考えるとウンザリするような顔が並ぶ。影響力が薄れたとはいえ、仙石の影が完全に無くなった訳でもない。野田のさじ加減でどちらにも転びそうな按配だ。

双方がニュートラル・コーナーに控えて睨み合っているような具合である。野田は案外小沢ともうまくやって行くのでは、という気もしているが、ありとあらゆる詭弁を弄してでも足を引っ張てやろうというマスメディアの存在があるので、気が抜けない。

ウジムシ朝日の『サタン・ステーション』では、「われわれマスコミの報道も、少し近視眼的になっていた嫌いがあるかも知れない。」としおらしくして見せたその翌日、その舌の根も乾かぬうちに、政調の権限を強化した前原を持ち上げて、(政務会を廃止した)幹事長時代の小沢一郎にダーティーなイメージを被せるネガティブ・キャンペーン(おどろおどろしい音楽付き)を早速始めていた。彼らの辞書には、「反省」という二文字はないのだろうか。

ここから先は、「神の見えざる手」の及ばざる領域であろう。小沢一郎も、「今後は自分が前面に出る」と仲間の前で決意を表した。われわれ庶民と彼ら既得権益温存派の闘いも、まだまだこれからである。



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