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2011年2月13日 (日)

日本社会の病理 - 天声人語にみるEstablishment(エスタブリッシュ)の精神構造


すでに御覧になった方も多いと思うが、 『永田町異聞』の新恭(Arata Kyo)さんが、1月22日の朝日新聞天声人語のなかに、日本のマスメディアがなぜ対米追随の論調を展開し、ひいては小沢一郎の排斥へと迷走し続けるのを止められないのか、その精神構造の謎の一端を垣間見た、と紳士的で穏やかな口調ながら、非常に鋭い知的な分析をされていて、さもありなんと感心して読んだ次第である。

以下がまずその天声人語の全文。


 知米家で知られる先輩記者の松山幸雄さんが、かつて米国の大学で学生らに話をした。日本の「企業ぐるみ選挙」の説明をすると、「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」と質問され、恥ずかしい思いをしたそうだ。

その松山さんが、「米国の知日派の会合で『小沢一郎氏の力の源は何か』と聞かれるのが一番困る」と言っていた。思想的な牽引(けんいん)力があるわけではない。演説は下手。時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話――。それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい。

たしかに、納得させる答えは難しそうだ。日本人にとっても、小沢氏の輪郭はなぞりにくい。今回も、衆院政治倫理審査会に出ると思ったら、あれこれ駄々をこねている。民主党内はきしみ、またぞろのうんざり感が募る。

よく「司法の場にゆだねる」と言うが、一国の政治リーダーの場合、そう単純ではあるまい。権力をゆだねた国民に、潔白を進んで明らかにする道義的責任を常に負う。それを知らぬ氏でもなかろうに、と思う。


のどに刺さったトゲというより、国政の十字路に転がり落ちて動かぬ巨岩だろう。「与党街道」も「野党通り」も渋滞し、クラクションの音ばかり大きい。岩に足が生えぬなら、動かすしかない。

昔、元首相の吉田茂が「反対党は嫌いだが、反対党が強くないと内輪がおさまらない」と言っていた。言にならえば、民主党の内輪もめは野党の弱さゆえだろうか。週明けからの国会、政治学の領域の熟議が聞きたいものだが。


オレは新氏と違ってあまり紳士的ではないので、やはりこのようなイジケた精神構造の、ネチョネチョした、時代認識をも見誤り、おまけに小賢しい責任転嫁まで加わった陰湿で劣悪な文章をみると、罵詈雑言の類を浴びせたくなってしまう。

まず冒頭の部分だが、オレはこの松山幸雄という元新聞記者を良く知らないが、この人はアメリカの二十歳そこそこの若僧に、「お前はオレに似ていない。」と言われて、「恥ずかしい。」と思ってしまうのである。

この青年は「文化人類学」という言葉を、そういう意味で使っている。文化人類学は当初、あくまでも現代社会とは異質の、隔てられた、純粋に科学的な研究対象としての「未開社会」に対する学問としてスタートしたものであり、その意味で同様に「現代社会」を限定した対象とした政治学とは交わらない。


その共通認識を前提としてこの青年と松山氏の会話は成立しているのだが、しかし今やこの共通認識自体が完全な誤りである、ということを認めなければ、何も始まらないという新時代に、わたしたちは突入しているのではないか?


わたしたちの生きている現在とその未来は、圧倒的なグローバリズムの押し寄せる波のなかで、どうサヴァイヴし、これに拮抗する新秩序を打ち立てていけるのか、という一点に懸かってきている。


その為に、従来の限定された意味合いを超えて、まさに文化人類学こそが、大きく浮上してきているのである。垣根を打ち壊した、「文化人類学的政治学」あるいは「政治学的文化人類学」こそがいま求められており、むしろ政治学と文化人類学は積極的に交わらねばならないのだ。


そうした認識をもしこの松山氏が持ち得ていたら、この青年の問いに恥ずかしい思いをすることも無かったろうし、小沢一郎の力の源泉について問われた時も、堂々と文化人類学的に、狭小な現代政治学の想像も及ばない、“ 人間そのものの持つ力 ”について、語ることが出来たであろう。(新氏の回答を参照されたし。)


企業ぐるみ選挙に問題がないとはオレも思わない。経営者と労働者が必ずしも同じ候補者を支持しなければならない、という理由は無い。しかし政治学の側からそれは文化人類学の問題だ、と言われれば、「もちろんそうだとも。これは狭小な現代政治学では到底問題の糸口にも触れ得ない、<エロスの制度化>という、高度に文化人類学的政治学の領域に属する、それこそきわめて現代的な論点だからな。」とオレなら言い返す。ついでにニヤリと笑ってやる。


まあ、松山氏のこの体験談は、何時の事だかこの文面では分からないし、一昔、二昔前なら日本人のこうした精神構造も珍しく無かったろうが、いま現在の時点でこれを書いている、天声人語氏の罪は重い。


思想的な牽引力云々以下の文章は、もう論外であろう。ここに現れているのは、管直人の「平成の開国」と軌を一にする、途方もない時代錯誤に囚われた精神の、己のみならず周囲まで巻き込んで、地獄への道連れにしようというたくらみの、その醜悪な悪あがき、腐臭すら漂うその告白録に他ならない。


彼が小沢一郎に対して思想的牽引力がない、演説が下手、時々雲隠れ、会見してもレベルの低い話、等々の主観的印象を抱くのは彼の自由である。(オレはそうは思わないが。)しかしそのような極論を敢えて断じるのであれば、字数制限のなかでも多少なりともそう考えるだけの理由を挙げるのが「客観的」報道としての基本姿勢であると思われるが、それはひとつもなしに、あたかも文脈のなかでそれらの印象を「彼ら」(=米国の知日派)の言葉のようにいやらしくすり替えて、読者に「客観的」な印象を与えようとしている。


むしろこの場面は、新氏の想像力が指摘するとおりに、読者は逆に読むべきであろう。「米国の知日派」に意見を求められ、小沢一郎には良いところはひとつも無い、と吹聴する日本のEstablishment(エスタブリッシュ・政治的エリート=マスメディア人)。元々「反米」などではない小沢一郎が、なぜ必要以上に米国の支配層から敵視されるようになったのか、その原因を生んだ犯行現場の一場面に立ち会っているような生々しさが、図らずもこの文面からは透けてくるのだ。


いびつなイジケた精神が攻撃の対象に選ぶのは、己の内にあって、己の見ようとしないもの。(その意味で彼らは、ネトウヨと同質だ。)

その攻撃は、知らず知らずのうちに自壊運動と化し、狂った狗(いぬ)のようにいつまでもぐるぐると、自分の尻尾を追いかけ回すことだろう。
もうこいつらには付き合っていられない

政治学の領域の熟議が聞きたいものだ、とはよく言えたものである。つまらぬ会計処理の話を大仰に騒ぎ立て、政争の具として国民まで巻き込んだその当事者でありながら、他人行儀な顔をして相変わらずネチョネチョグチョグチョ一面コラムでアジる。

動かぬ巨岩がよいしょと一歩動いたら、イジケた
ウジ虫の大群が、下からわっと這いあらわれて、日本中がさぞかしぎょっと驚くだろう。




シンブン?テレビ?なんだいそりゃ?そいつらには、タマシイは有るのかい?





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